『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。
[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。
[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己
フジヤマ・クライシス
…..今から4年前の2005年3月某日、村長・山ちゃんにくっついてまだリニューアル・オープン前の新生・富士スピードウェイに潜入(侵入?)する、という機会を頂いた。2000年にトヨタが買収、新たに生まれ変わった富士スピードウェイは、’76年に筆者が生まれて初めて訪れたサーキットでもある。同時にこの年に全面リニューアル・オープンしたばかりの、日本で最も新しいサーキットでもある(そこでオレは何をしていたのかと言うと、かの”Zの柳田”こと柳田春人大先生の助手席で昇天しかかっていた/詳細はまた別の機会に!)。
トヨタがこの歴史と伝統の富士スピードウェイを買収した理由は明確にひとつ。同じ日本のライバルであり、日本のF1の象徴でもあるホンダが有する鈴鹿サーキットから、”日本GP”の冠を奪うためだ。2002年、巨額を投じて”ホンダの聖地”であるF1に参入。しかし自動車メーカーとしては最大規模を誇るトヨタも、F1に於いてはホンダと鈴鹿が作って来た”歴史”を前に思うように成果を出せず、地元GPである日本GPをライバルの聖地・鈴鹿で行うこと自体がジレンマであった。しかし新たな自社サーキットを建設するには時間も場所も限られ過ぎ、逆に’87年から行われて来た鈴鹿での日本GP以前に、既にF1開催経験のある富士を越える立地など有り得ない。ならば都心からのアクセスも良く、知名度も高い富士を利用するのが得策、と考えたのは当然である。FOAとの協議の結果’07年以降の鈴鹿との”F1隔年開催”を取り付けた富士。が、昨年ホンダが脱落したことで安泰と思われたトヨタ/富士戦略に陰りが見え始めた。
5月28日、朝日新聞に”トヨタ、富士スピードウェイF1撤退を検討“の文字が踊った。
トヨタ/富士共にすぐさまこの報道を否定したが、トヨタの広報、ポール・ノラスコが「日本側から検討していることを伝えて来た」、トルコGP金曜日のFIA記者会見ではジョン・ハウェットが「再考しているのは事実」と、報道をある程度認める趣旨の発言を行った。
…..確かにホンダは去った。日本のファンは嫌でもトヨタの一挙手一投足に注目する。決して有り難いことではないが、これでトヨタは多くのファンの眼を自身に向けさせる大きなチャンスを迎えた。ホンダが撤退した理由はもちろんトヨタにも当てはまる。が、同じ決断を下すには、まだあまりにもその絶対数が少な過ぎる。’92年にホンダがF1活動を休止した際、F1の象徴であるフェラーリを擁するイタリア国民は言った。「何故日本人は辞めるんだ?」…..全くの正論である。彼等は良い時も悪い時も、強い時も弱い時も、そして嬉しい時も悲しい時もF1を続けて来た。昨年セバスチャン・ヴェッテルと共に初優勝を遂げたトロ・ロッソの歴史は、’85年にF2からF1にステップ・アップし、”史上最弱チーム”とまで言われたミナルディ・チームを前身とするイタリア/ファエンツァの小さなF1チームである。言い換えれば、ミナルディのスピリットは23年の時をかけて勝利に辿り着いた。これで、現在エントリーするF1チームの中で、トヨタだけが唯一未勝利のコンストラクターとなってしまった(フォース・インディアはジョーダンを前身とする)。つまり、トヨタにはやるべきこと/やらなくてはならないこと、がまだまだたくさんある。そのひとつが”ホーム・グランプリ”の運営であることは百も承知の上での富士買収だった筈である。前述のニュースの真相のほどは定かではないが、こういった報道が大手新聞に掲載されるということは、トヨタ内部では確実に”検討材料”となっていることを表す。事実、’11年の日本GPが果たして富士なのか鈴鹿なのか、は未だ未発表のままなのである。
…..筆者とF1との出会いは’76年10月24日、富士スピードウェイで行われたF1世界選手権イン・ジャパン、すなわち日本初のF1グランプリ・レースである。当時は池沢さとし氏の漫画”サーキットの狼“による空前のスーパー・カー・ブーム、小学生だった筆者の宝物はフェラーリ・ディーノとランボルギーニ・ミウラのミニカー。両親は早くに離婚したが、某石油関連の会社に勤める父は、定番のカティサーク(帆船)や”The Beatles”のロゴのあるドラム・キット等の模型と共に、白いハマキ型のクルマのプラモデルを自室に飾っていた(今思えばRA272だった…..のかな)。しかし筆者にはそれをF1/レーシング・カーだとする認識が無く、ただひたすらピニンファリーナのデザインにヤラれていた。つまり、それが何だか解っていなかった/興味もなかったのである。
単身静岡在住の父が、母/祖母と東京在住の筆者に電話で「おい、エフワン観に行くぞ」と言ったのは確か決勝の前日だったと思う(なので予選は観ていない)。う〜む、エフワンとはなんぞや?。自動車レース?、ガイコクの?。…..ま、いいか。良く解んないけどクルマが見れるんなら行こう。朝っぱらから小学生がひとり小田急ロマンスカーに乗り、着いたのが小田原だったのか御殿場だったのか覚えていないが、”○○石油”と書かれた社用車のワゴンに、父とやたらとニコニコしたオヂサン達が数名。この時点でこのガキは”エフワン”が何なのか、まだ解っていない。下手すれば今から行くレース場の名前だ、と思っていたかも知れない。なにしろレースと言えば”公道グランプリ”、サーキットの存在すらろくに知らないまま、少年(ガキ)筆者は間もなく歴史の目撃者となる。…..そして山超え谷超え、辿り着いたのが”FISCO”であった。
…..ゲートは遊園地か野球場のような印象。が、いるのはオトナばかり。別に混雑している様子は無く、雨で人が少ないのかと思っていた。しかし、我々は多分”裏口”のような場所にいた。つまり、どうやら我々一行は正式なチケット購入による客ではなかったらしい(今となっては父の仕事に感謝だ)。壁にベタベタと貼られた同じ柄のポスター、時折すれ違うガイジンさん。何か聞こえる。自動車の音?、人の歓声?。雨ガッパを渡され、急ぎ足で案内されて辿り着いたのはグランド・スタンドであった。
「…..なんだぁ、こりゃ?…..」
…..山、道、そして大量の傘。霧が立ちこめて良く見えないが、どうやら目の前の真直ぐの道の更に奥にも道があり、クネクネと曲っている。…..デカい。い、いや、デカ過ぎる!。公式発表観客数7万2千人。…..当然、一ケ所に7万人が集まってる所なんざぁそれまで見た事もなく、せいぜい後楽園球場に3万人位いるのを見てビビっていたガキが、どれほどの間クチを開けていたか想像して欲しい。そして、赤や青の見た事も無いカタチをしたクルマがガレージに並び、そこにガイジンさんが群がっている。そこには期待していたディーノもミウラもいなかった。かと言ってハマキ型でもなく、前と後に羽根が付いている、なんとも言い様のない不思議なカタチのクルマ達が並んでいた。場内アナウンスが流れているが、良く聞き取れない。時折オヂサン達が「え〜!」とか言っているのであまり良い知らせではないらしい(雨の為スタートが遅れていた)。
…..当日の筆者の感想は是非別の機会にでも書こうと思うが、翌週から筆者のコレクションはスーパー・カーのミニカーから”エフワン消しゴム”へと変貌を遂げ、好きなレーサーは隼人ピーターソンからロニー・ピーターソンとなり(笑)、愛読誌は少年ジャンプからオートスポーツとなった。
予備知識を全く持たないまま観た”エフワン”は、あまりにも非日常的なものだった。スーパー・カーというジャンルがかろうじて日常生活にカテゴライズ出来るのに対し、F1は何もかもが別世界であった。後楽園球場でプロ野球の試合を観たあと、学校のグラウンドで野球をすることは出来る。が、F1はどうにも出来ない。まず筆者がやったことは青い自転車のフレームにひらがなで”たいれる”とカーナンバー3を書き込むこと(笑)と、1/12スケールのタイレルP-34のラジコン・カーを手に入れることくらいだった。中学生となった筆者はますますF1にのめり込み、遂にはカート・レースへと足を突っ込む。きっと父は離れて暮らす息子が自分の誘いで観たイベントに影響されたことが嬉しかったのだろう。春休みや夏休みを利用して父親の元へ行き、父の知り合いの経営するカート・ショップを通じて遂にカート・レース・デビューを果たす…..のもつかの間、あまりにもかかり過ぎる費用と、直線で小学生にバンバン抜かれる現実に屈し、引退(爆)。やむなく”赤いペガサス“(村上もとか)でケン・アカバに自分を重ね合わせることで我慢する(…..)。
そう言うワケで、筆者にとって富士スピード・ウェイは今現在こうしてスクーデリア・一方通行を書いているきっかけともなった、人生に於いて最大級のインパクトを齎した場所のひとつなのである。’77年のアクシデントのあと、富士からF1は去ってしまったが、その後も国内レース観戦には訪れた。全日本F2に於ける星野/中嶋の走りは忘れられない。’87年に鈴鹿にF1がやって来るまで、筆者にとってのモーター・レーシングは富士スピードウェイが全てだった。
’05年のリニューアル後、’07/’08年と既に2度のF1GPが開催されているので訪れた方も多いと思うが、筆者の第一印象は「う〜んナルホド、こりゃティルケ・サーキットだ」である。ティルケとはセパン/マレーシア、上海/中国、イスタンブール/トルコ等、F1を初めとする国際規格のレースを開催出来る近代サーキット設計の第一人者、ヘルマン・ティルケ。解りやすく言えば、ラン・オフ・エリアやスタンド、パドックに至るまで、全てが近代的で安全に作られていた。コース自体は最終コーナー以外ほぼ原形を留めているものの、1コーナーから100Rあたりまでのその高低差に驚いた。広いランオフ・エリアと真新しいスタンド、加えてサーキット内のアクセスの便利さと広大な駐車スペースは、その数年前に、やはり出来たばかりの”ツインリンクもてぎ“を訪れた時の印象に近く「ああ、新しいサーキットになったんだな」と言う感覚である。
…..しかし、ふと1コーナーの先に眼をやると、かつて幾多の名勝負と悲しい事故の舞台となった、30度バンクの一部が見えた。「…..そうか、ここだけは残るんだ…..」やや感傷的になった。全く新しく生まれ変わった富士スピードウェイに、筆者が初めてここを訪れた’76年には既に使われなくなっていた、最も古い部分が残されていたのである。
富士スピードウェイは当初NASCAR開催を目的にオーバル・コースとして企画された。しかし色々あってロード・コース設計に落ち着き、’66年に創業。オーバル構想の名残りである、現在の1コーナーの先へと続く30度バンクが名物コーナーだったが、痛ましい死亡事故により’74年にバンクは閉鎖され、ほぼ現在のレイアウトに落ち着いた。バンクを巡る事故に関する詳しい経緯はここでは記さないが、国際規格のサーキット建設に対する経験不足も要因のひとつであった。そのバンクが”メモリアル”として1コーナー先の”山の中腹”に残されていることに、近年のF1ファンの多くが気づかないだろう。それが例え、グランプリに於いて”忘れてはいけない記憶”だとしても、モーター・レーシングに於ける真の危険を知らない世代の登場を歓迎することはあっても否定してはならない。アイルトン・セナの壮絶な最期から既に15年、少なくともF1では全ての関係者の懸命な努力によって防ぐことが可能となり、戦争体験同様”ピンと来ない時間経過”による平和時代の到来を、ここにも感じることが出来る。”楽しめるF1観戦”それがトヨタと新生・富士スピードウェイに課せられた使命でもあった。
…..しかし、現実は予想以上に厳しかった。
リニューアル後初開催となった’07年日本GPの悪天候及び関係者の対応。裁判そのものが現在進行中であることも含め、ここではその詳細を記すことは避けるが、ひとことで言ってあまりにも”お粗末”だった。観戦スタンドの角度やフラッグ/横断幕などの応援システムにまでその余波は及び、2回目となった’08年にはその殆ど全てをやり直すこととなった。’76年の初開催では全てが手探りの中、ヨーロッパの運営側の言う通りに進行を行わざるを得なかった。’77年の2度目のF1開催ではサーキット管理の決定的なミスで大事故が起こり、F1そのものが一旦日本から離れて行った。歴史上4回(’76、’77、’07、’08年)の富士でのF1開催は現在2勝2敗と言える。僅か4回、だが現状の”トヨタ主催”としてはまだたったの2度しか開催していない。
F1日本GPの歴史は事実上鈴鹿と共にあった。そのバランスに”割って入る”形となった富士開催。が、日本には’94、’95年に岡山TIサーキット英田(現・岡山国際サーキット)で開催された”パシフィックGP”という例がある。F1カレンダーの中には、F1の象徴であるフェラーリを擁するイタリアが隣国サンマリノ共和国の名を借り、イタリア国内のイモラサーキットを使って行うサンマリノGPが存在する。”1国1開催”と言うF1基本理念からは外れるが、これが即ちイタリアでのF1人気の定着の表れである。’90年代中盤、15万人が訪れる鈴鹿での日本GPは完全にF1人気の定着を証明するものとなり、日本国内での2回開催が実現した。が、その人気もセナの悲劇で下降の一途を辿り、パシフィックGPは2年でカレンダーから消えて行った。
この時も山中のTIサーキットまでのアクセスに現在の富士と同じくシャトル・バス輸送式が採用された。もちろんこの時も、シャトル輸送システムに賛否両論はあった。’95年は阪神・淡路大震災の影響で日程変更を余儀なくされた。大雨/台風は鈴鹿にだってやって来た。が、イベントの成功へ向けて関係者/ファンが一丸となって乗り越えて来た歴史が鈴鹿にはある。富士がその答に辿り着くためには、まだ圧倒的に経験値が足りない。今やめたら何も生まれない。やめる検討をする時間を使って、”楽しめるF1観戦”を目指すのが本来やるべきこと。何のための買収で、何のための大改修だったのか。トヨタ/富士には、まだこれから作って行かなくてはならない”歴史”が残されている。
’06年ハンガリー、第3期ホンダF1は確かに”勝った”。が、ホンダ自身のみならず誰もがその勝利で納得してはいない。1勝したから撤退もやむなし、などとは誰も考えていない。第1期(’64〜’68年)であげた偉大なる2勝、第2期のエンジン・サプライヤーとしての圧倒的な69勝(’83〜’92年)、そしてホンダの影武者とも言うべき無限による奇跡の4勝(’92〜’00年)。そのいずれにも匹敵しない、転がり込んで来た1勝で第3期F1活動、及びホンダのF1の全てが正当化されたわけではない。レーシング・チームとしての仕事は”完膚なきまでに相手を叩きのめす”こと。金融危機を理由に、ホンダは敵前逃亡した。トヨタは同じ状況下に置かれながらも、闘いの継続を選んだ”筈”である。
トヨタは’08シーズン前に言った。「今年勝てなければ撤退も覚悟」…..それは目標でもスピリットでもない。危機感のある社内で語られる意味合いとしては良いだろうが、それが外-ライバルも含め-に向けて発信されるようでは未来、まして勝利など得られる筈もない。同様に、ようやく掴んだ富士での”地元GP”を手放すという話題が出て来てしまうこと自体が異常事態なのである。
…..ホンダ/鈴鹿は日本を背負って来た。今トヨタと富士がやるべきことは、「我が日本でF1と言えば?」のあとに続く代名詞となること。エンジン・マニュファクチャラーとしての数を除き、コンストラクターとしてのF1参戦数は既にトヨタ130戦/ホンダ88戦。願わくば、撤退理由となる1勝ではなく、多くの勝利の歴史/伝説の第一歩となる初勝利を望みたい。
「我々に言えるのは、来年の選手権に参加する意思があることだけだ」’09年5月/ジョン・ハウェット(トヨタF1チーム社長)