『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。
[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。
[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己
夢と現実
’10年F1世界選手権も開幕から早くも4戦が終了、4人の王者/4つのトップ・チームによる混戦は開幕前の予想を越える激しさ。うん、実に面白いシーズン。これなら別に新ポイント・システムも必要なかったんじゃないか、というほどの混戦。こういう予想の裏切りはたまらないね。各レース見所満載、これぞ世界選手権の醍醐味。
という盛り上がりの影で、当スクイチではここいらであらためて検証しなくちゃいけないことがある。それは昨年11月に日本を中心にメディアを駆け巡った「小林可夢偉、PanasonicとKDDIと共にルノー移籍か」というニュースのその後、である。
結論から記せば、可夢偉はザウバー・フェラーリのレギュラー・シートを得た。それも、急遽代役デビューとなった昨年終盤2戦での活躍を認められ、かのレース狂、ペーター・ザウバーの直々の指名による堂々たるシート獲得である。もちろん、将来有望だったエースのロベルト・クビサが自らルノーへと移籍し、堅実にポイントを獲るニック・ハイドフェルドがメルセデスGPのシート獲得を模索し、何よりも自チームそのものがBMWのF1撤退により一旦は解散をも覚悟しなければならない状況だったことは事実である。が、最終的に自らがチームを買い戻し、少ない運営資金ながらも新たなチーム設立に近い状況の中で「最も将来有望なルーキー」として可夢偉を指名した、という事実が嬉しく、誇らしいこと。反対に多くのドライバーが今季F1デビュー/復帰を模索しながらも、持ち込み資金面で敗れて行く様を目の当たりにした以上、これは素晴らしい事件なのである。
…..そしてシーズンも序盤のフライ・アウェイを終えていよいよヨーロッパ・ラウンドへ、というこのタイミングで、敢えてこの話を蒸し返すのがこれまたスクイチらしいところ。
そう、今回は可夢偉ザウバー移籍の裏にある、ディープなカネのハナシの真相に迫ろう。
ま、早いハナシが噂は噂だった、ということなのかも知れないが、昨年の可夢偉ルノー移籍説の際に取り沙汰されたPanasonicもKDDIも、現在ザウバーC30のマシンにロゴが描かれたりはしていない。で、可夢偉/ザウバー双方のウェブサイトを観ても、この2社はパートナーとして記されていない。つまり簡単に言えばPanasonicもKDDIも現在可夢偉やザウバーとは無関係、ということである。ま、突っ込んだ言い方をするなら「な〜んだ、バックアップしてくれんじゃなかったのかよ」である。が、これは何しろ元々ハナシの出所が”噂”であるからして、決して前述の2社に文句があるわけでもなく、単にもしもトヨタF1チームの大口スポンサーだった2社がトヨタF1撤退後も「可夢偉を応援し続けるよ」というのなら、現状の世界不況に於いて企業として「なんてカッコイイんだろう」と思っただけ。ところが実際に現実はそれほど甘くなく、前述の2社もトヨタと共にF1を後にした、ということである。
スポーツ関連の企業レベル撤退/廃部。これはもはやF1/モータースポーツという部類に限られた話ではないのでやむを得ないが、そこまで切迫した世界的経済不況は、大企業の広告戦略の在り方そのものを根底から覆そうとする勢いである。何しろ金がない。だから出資出来ない。節約する。いらないものは省く。そこで”いらないもの”に入れられてしまったのは彼ら自身のせいじゃない。そう解ってはいても、我々の胸の中にあるのは「せっかく日本から素晴らしい才能がF1に辿り着いたのに!」という想いである。仮に多くの日本人ドライバーがF1に分散してしまっていたならまだしも、たったひとりの有望株に集中すれば世界選手権であるF1で広告戦略が出来る。なのに、その余裕がない。やりたくたって出来ない。リーマン・ショックにより、とうとうそれが現実となってしまった。
さて、その噂に上っていたルノーは最終的にジェニィ・キャピタルへチームを売却、言わば自動車会社ルノーをメイン・スポンサーとする新チーム、のような状況と言える。が、昨年フラビオ・ブリアトーレ、パット・シモンズ、そしてネルソン・ピケJrによる”クラッシュ・ゲート事件“によりメイン・スポンサーであるINGをシーズン中に失い、’10年に向けて好条件/要素はほとんど見られなかった。しかし結局ルノーはロシア人初のF1ドライバーであるヴィタリー・ペトロフを擁し、ロシアの自動車メーカーであるラーダと大口スポンサー契約を締結。他にも世界的な大手コンピュータ・メーカーであるhpやフランスのファイナンス会社DIACなどのサポートを得ることに成功し、もちろん充分ではないのだろうが、今季のマシンであるR30のボディには多くのスポンサー・ロゴが躍る。ルノー的にも、伝統のイエローとブラックのカラーリングの映える、極めて好都合な状況と言えるだろう。ルノーとて厳しい状況。しかしその中でこれだけのスポンサーを揃えて来るのは、少なくとも今季のルノーにそれだけの投資をする価値がある、と前述のメーカー達が考えたからである。その中にロシアのラーダがあるのはペトロフの存在を考えれば当然だが、ルノー傘下には日本の日産があることを考えればやはり不思議な現象でもある。
では元々可夢偉がパナソニックとKDDIと共にルノー移籍、と報じられた際の根拠はいったい何なのか。可夢偉自身が’10年F1ドライバー市場に於いて注目されるべきドライバーだったことは100パーセント疑いようがない。F1デビューから僅か2戦のみでワールド・チャンピオン/ジェンソン・バトン相手にバトルを繰り広げ、不利な給油作戦でありながらベテランのチーム・メイト/ヤルノ・トゥルーリを上回り、そしてポイントを獲得して見せた。多くの走行テスト機会の望めない新人ドライバー市場の中で、突然やって来た実戦で結果を残してみせた可夢偉は間違いなく将来有望な即戦力だからである。しかも経済大国日本からの唯一の参戦ドライバーとなれば、各チームが多くの持ち込みスポンサーや企業協力を期待しても全く不自然ではない。
…..が、それは果たされなかった。ザウバーは素晴らしい人選をした。が、それでも可夢偉をサポートする筈の日本企業の姿は全く見られなかったのである。
小林可夢偉は1986年9月13日、兵庫県尼崎市にて次男として誕生。その印象的な名前は鮨職人の父・浩人の「アイヌ語のカムイに、偉大な夢を可能にする、との想いを懸けた」という命名。9歳の時にTVで観たゴーカートに乗ることを切望し、地元尼崎のカート・ショップ”たからづかカート・フィールド”を拠点にレース・キャリアをスタートした。まだ幼く、負けん気の強い可夢偉がとある企画レースでプロ(ちなみに影山正美)に敗れて総合2位となり、泣きながら家に帰ったとか、TV番組の企画で鈴木亜久里と走った際に「わざと負けてくれた」とベソをかいた、などの”神話”が残る。そんな可夢偉も14歳になると全日本カート選手権を制覇するほどの速さ/強さを身につけ、16歳の時にはフォーミュラ・トヨタにステップ・アップ。ここでの好成績が認められて可夢偉はトヨタ/TDP(トヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム)のスカラシップ・ドライバーとなった。’05年単身ヨーロッパへ渡り、フォーミュラ・ルノー・イタリア選手権/ユーロ・シリーズ制覇、’06年ユーロF3ルーキー・オヴ・ザ・イヤー、’07年ユーロF3選手権4位、’08〜’09年GP2アジア選手権チャンピオン。堂々たる成績である。実際、ライコネンはそれ以下の経験でザウバーからF1デビューしている。
そして、確かにトヨタは可夢偉をバック・アップした。そして、可夢偉はそれに見事に応えてみせた。それは、鈴鹿で負傷したティモ・グロックに変わって急遽代役となったF1デビュー戦とその次の最終戦でも同様だった。
図らずも可夢偉の鮮烈なデビューを演出する相手となったジェンソン・バトンは「ヤツには要注意だ!」と呆れた。「F1に衝撃を与えたんじゃないかな」とルイス・ハミルトン、「少ないチャンスをモノにしたのは凄いこと。尊敬に値する」とはフェルナンド・アロンソの可夢偉評である。実際にコース上で闘った彼ら/チャンピオン達の印象に嘘はない筈である。可夢偉は確実に’09年デビュー・ルーキーの台風の目として/また’10年シーズンのトヨタの正ドライバーとして、警戒される存在となって行った。
…..そしてその頃、トヨタのF1参戦は既に未来のないものであることが決まっていた。シーズン終了3日後にそれは発表され、そこから”可夢偉の価値”に世界中の注目が集まって行ったのである。
「普通は新しいドライバーと契約する際にはまずテストをするものだ。もちろんキミの時だってそうだったよ。が、私は可夢偉をテストしなかった。昨年終盤の2戦を観て、正当に彼を評価したから契約したんだ」ペーター・ザウバーの眼に狂いはない。ザウバーと言えばかつてキミ・ライコネン、そしてフェリペ・マッサというトップ・ドライバーを生み、育てたレース界のカリスマである。もちろん、彼の頭の中には日本企業からのバックアップに対する期待はあっただろう。が、それを確かめたり試すようなこともなく、いきなり本契約に結びつけたのは明らかに可夢偉に対する期待の表れである。「可夢偉のレースを観て、契約するのに迷いはこれっぽっちもなかった。きっと日本人ドライバーで、スポンサーやエンジン・ブランドの後ろ盾を必要とせずにシートを獲得したのは彼だけなんじゃないかな」その言葉には若干の皮肉が含まれていると考えても良いのかも知れない。
「’09年の最終戦アブダビGPで、デビュー2戦目の可夢偉はチームからの”タイヤ温存”の指示を守りながらバトルを演じて魅せたんだ。こんなことの出来る新人ドライバーなんてそうそういるもんじゃない」と語ったのは4月にチームを離脱したザウバーの重鎮、ウィリー・ランプである。「経験の少ない若手ドライバー、である筈の可夢偉の技術的分析/指摘は常に的を得ているし、我々もとても満足だ」チーム・スタッフからの人望も厚く、可夢偉自身の才能が世界的に評価されての契約であることは疑いようがない。つまり、これは中嶋悟にも鈴木亜久里にも片山右京にも、そして佐藤琢磨にも果たせなかった夢をつかむ可能性を持った日本人レーサーの登場を意味する。が、彼には今ニッポンのバックアップが極端に足りないのである。ただ、それだけなのである…..。
想い出してみよう。昨年11月15日、あまりにも唐突に、そしてあまりにも自己中心的に突然のF1撤退を発表したトヨタ。これは「誰が悪い」ではない企業レベルの問題であり、世界不況の中でのナーバスな問題であることは間違いない。が、少なくとも数ヶ月前にFIAに対し2012年までの参戦を確約し、サインした会社のやるべきことではない。この決定〜通告に当然レース現場は混乱し、チーム・スタッフは寝耳に水の中で全てを終わらせることを始めなければならなかった。そのひとつにTDPがある。可夢偉はウィリアムズ・トヨタの中嶋一貴同様TDPの契約ドライバーであり、それにより可夢偉のトヨタ・デビューがあったからだ。
「TDPは継続しますが、規模は縮小します。小さなお子さん達のサポートがメインです」
山科忠チーム代表の会見を覚えているだろう。まるで葬式のような、前代未聞のお涙頂戴会見である。「可夢偉をこのまま終わらせたくない」確かに少年・可夢偉はトヨタというオトナにチャンスを貰った。だからトヨタがいなくなれば困って当然である。が、逆に可夢偉はトヨタのTDPを評価し、自らの才能を発揮すべき場所として選んだのである。そこで可夢偉に惚れ込んだトヨタが途中(あえて途中と言わせて貰う)で放り出したのだから「終わらせたくない」は単なる親心であって、ならば「このまま終わらせるようなことはしない」と、厳しい顔で宣言して欲しかった。ただし、トヨタ及び代表氏にその能力がないのであれば望むべきことでもない。だからこそ、前述のPanasonicとKDDIのニュースは「さすがトップ企業!」と感心したのである。実際、TDPや山科代表がどれだけ水面下で動き、PanasonicとKDDIが実際何処まで話をしたのかは解らない。が、現実は可夢偉は真っ白なマシンで、小さなパーソナル・スポンサーと共にF1を闘っている、という事実である。
「ペーターはその類いのことは何も言わなかった。あくまでも自分に期待しているのはプロフェッショナルな走りだ、と」当然、可夢偉自身は冷静である。それは確固たる自信があるからだ。「今、経済のこととか言い出したら本当に大変な状況。その中でF1は夢みたいな位置にあって、そこに今僕がいる。でも、僕がダメだったら日本のF1は終わりちゃうかな、とも思う。だからそのプレッシャーも受けて、全部力に変えて走る」…..本当はこんなこと可夢偉に言わせてちゃいけない。金を注ぎ込んで連れ出した舞台から、その金の持ち主が逃げ出しちゃいけない。でもそれが現実、恐ろしい状況の中に可夢偉はいるのである。
…..ところが、である。
これはニッポンにとって、ひとつの大きな朗報でもある。何故なら、ペーター自身が語ったように、可夢偉はスポンサーの力を借りずにF1のシートを獲得した初めての日本人ドライバーである。が、良く考えてみれば、ヨーロッパにはスカラシップや巨大スポンサー、自動車企業の世話になどならず、実力で勝ち上がり、そして評価され、トップ・チームへと辿り着いたドライバーが大勢いるのである。いや、むしろトップ・ドライバーは皆そうだと言っても過言ではない。逆に資金持ち込みドライバーが常に抱える問題、つまり”金ヅルの裏切り”を心配せずに堂々とレースすれば良いのである。そういう意味では、実はニッポンのF1ドライバー事情は、ようやく”ヨーロッパ基準のスタート地点”に立った、と言えるのかも知れない。
4月9日、各メディアに”観光庁が小林可夢偉を応援“というトピックスが出回った。F1/可夢偉を通じて日本の観光的魅力を国内外にアピールすることが目的とされ、モーター・スポーツ的には民主党政権に於ける初の明るいニュースとなった。ようやく日本が可夢偉の存在に気付いて来た、と言えるのかも知れない。4月下旬にはフジテレビで小林可夢偉の特番”KAMUI_age23〜F1ドライバー小林可夢偉の理由〜”が組まれたので御覧になった方も多いと思うが、観ての通りそれでも可夢偉は小さなスポンサー回りを自らこなしながら、不況の中で喘いでいる。
尼崎市立竹谷小学校の卒業文集には「将来の夢」というタイトルの幼き可夢偉の作品が残されている。「僕の夢は、F1でチャンピオンになること」「世界のトップクラスの人と争い、勝ってみたいです」…..レーシング・カートに出逢った少年が才能を開かせ、周りの大人達が目を見張るような速さを魅せ、そしてその”夢”への舞台が準備される。可夢偉はそこで確実に成果を出し、大人達の期待にしっかりと応えて来た。何10年もかけて日本人が悲願として来た勝利を掴むため、遂にひとりの有望な若者が育てられたのである。
「夢は大人が作ってやらなあかん」
可夢偉は自らを育ててくれたトヨタを引き合いに出し、現状の不景気下に於ける実情を嘆いた。「子供が夢を見つけるんじゃなく、大人がちゃんと夢を提供出来るのが理想。そうすれば不景気も終わるのに」…..可夢偉の杞憂は正論である。そして、これが企業レベルで考えなくてはいけない、日本でモーター・スポーツのスカラ・シップ制度でF1に辿り着けた”最後の男の言葉”、なのである。
実は可夢偉はトヨタ撤退発表後のオフシーズン、全部で5つのチームと’10年のシート交渉を行っていた。その中には、かのマクラーレンも含まれているという。最終的に可夢偉がどのチームに決めたのかはもちろん可夢偉とマネージメント・サイドの交渉術に委ねられたわけだが、可夢偉がレーシング・ドライバーとして多くのF1関係者から高評価を得たのは疑いようのない事実だ。これで今季可夢偉が残りレースで大活躍、かつてのザウバー卒業生のライコネン/マッサはフェラーリ行き!。それを阻止したいマクラーレンがバトンを切るか?、いやいや日本市場を切り開くチャンスとばかりにウェバー引退後のシートをレッド・ブルが望むか、それともニコを脅かす存在が欲しいメルセデスが皇帝の再引退を早めるか〜…..。
ザウバーに加入し、2月11日のヘレス・合同テストではただひとり19秒台に入れるトップ・タイムを記録。ザウバー/可夢偉の組み合わせは冬の段階ではトップ4がマークするほどの存在だった。が、これが資金難によるものなのか何か運営面での間違いが生じているのか、シーズン中のザウバーはあまりにも低いその信頼性とスピードに泣かされている。
「ドライバー自身が先頭に立ってやって行かないと誰も着いて来ない」可夢偉は若きザウバーのリーダーとしての自覚を持つ。「ここで勝負するにはヨーロッパの連中と互角にならないと駄目。ヨーロッパ人になるくらい。だからチーム・クルーも僕が引っ張って行くくらいじゃないとあかん」
開幕からフライ・アウェイ4戦を終え、可夢偉の総周回数はたったの19周。ハイドロリックとエンジンのトラブルに加え、混乱の中の貰い事故が2回。「ここまで運がないってのもなかなかないこと。お祓いにでも行かないと…..」同じ日本人として、今置かれている状況下では確かにそう言わざるを得ない。
「昔聞いた話なんやけど、10年間投獄されてた囚人が、未経験のゴルフを脳内でやってた。で、娑婆に出てゴルフをやったらメチャメチャ上手かった、と。つまり、大切なのは実践だけじゃなく、イメージすることなんじゃないか、と思った」にわかには頷けないレベルのハナシである。「筋肉に信号を伝達するのは脳、だから鍛えるべきは脳。だから運転技術はアタマで決まる」…..こんな発言が出来るドライバーが、かつてこの国に存在しただろうか?。「昨年のアブダビGPでは、バスタブの中でのシミュレーションが役立った」…..この男をこのまま放っておいて良いわけがないではないか。
…..あとはもう、これしか言うことがナイんだよな。それがオヂさん達としても苦しいところ、そして前述の日本のトップ企業全員が思う(ってて欲しい)こと。
「頼むぞ、可夢偉!」…..マジで。
「ニッポン代表としてF1にいられることを誇りに思う」/小林可夢偉
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…..さて、GW後/山ちゃんがモナコGP取材に大わらわな来る5月14日(金)、渋谷のライヴ・ハウス”CHELSEA HOTEL”にて加瀬竜哉.com 5th anniversary event -club・加瀬コム2010-が開催されます。今回もF1/ことさら可夢偉についてもアレコレ語ろうと思ってるのでお時間のある方は是非!!。
加瀬竜哉.com 5th anniversary event -club・加瀬コム2010-