F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集

F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集 F1 STINGER 【スティンガー】 > スクーデリア・一方通行 加瀬竜哉 >  > 2010年6月18日  左近ここにあり!

スクーデリア・一方通行/加瀬竜哉

謹んでご報告申し上げます。
『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。

[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。

[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己

左近ここにあり!

’10年F1世界選手権、小林可夢偉(ザウバー・フェラーリ)がたったひとりの日本代表として闘っていることはご存知の通り。また同時に、中嶋一貴佐藤琢磨らがF1でのシートを喪失したこともまた事実であり、世界的不況の中で日本はホンダトヨタら企業レベルの撤退の煽りをモロに受けた形となっている。よって可夢偉は唯一の日本人F1ドライバーとなってグリッドで孤軍奮闘しているワケだが、現在、厳密な意味で”日本人F1ドライバー”と言える人物はもうひとり存在する。HRT(ヒスパニア・レーシング)のリザーブ・ドライバー、山本左近である。

’10年4月17日、HRTは第4戦中国GP開催中に突然左近とのテスト兼リザーブ・ドライバー契約を発表した。予選前には本人を交えて記者会見も行われ、開幕直前にチーム側から「タイミング良く話を頂いた」という経緯でHRTに参加することとなったことが明らかになった。
HRTは当初、GP2などを闘う強豪チームで、元F1ドライバーのスペイン人、エイドリアン・カンポスが運営する”カンポス・メタ”というチームだった。’09年のF1新規参入に早々と名乗りを上げ、ドライバーにかのアイルトン・セナを叔父に持つブルーノ・セナを起用すると発表、チームも’10年からのF1参戦をFIAにより確約された。
しかし大きな話題を持った新チームでありながらもスポンサー契約で失敗、シャシー制作を委託するダラーラへの支払いなどが滞る事態に陥り、シーズン開幕直前にカンポスはチームをスペインの大富豪であるホセ・ラモン・カラバンテに売却し、自らはチームを退いた。新たにチーム・オーナーとなったカラバンテは’08年にフォース・インディアのチーム代表だったスペイン人のコリン・コレスをカンポスの後任としてチーム代表に任命。チームはヒスパニア(純スペイン製)・レーシング・チーム(HRT)として生まれ変わり、1号車のシェイク・ダウンが開幕戦バーレーンGPのフリー走行、というギリギリのスタートを切った。弟8戦カナダGP終了時点で未だ入賞はなく、もちろん獲得ポイントはゼロ。現状、同じ新規参戦チーム、ヴァージン・レーシングと最下位を争うレベルである。

この時点で確実に言えることは、HRTは現在F1に参戦する全てのチームの中で間違いなく一番若く、経験値とデータを持たない未熟なチームである、ということである。外部委託によって作られたシャシー、スーパー・アグリ・チームの消滅によりチームを失ったエンジニアやメカニックの存在、そして経験の浅いドライバー。その彼らが一足先に合同テストなどで開発を進めて来たロータスやヴァージンなどの新規参入ライバル・チーム達と争うには、スタートから相当な遅れとハンデを背負っている、と言わざるを得ない。そのHRTがF1経験のあるドライバーをリザーブ契約で迎え入れることは極めて理にかなっている。しかし反面、サーキット・テストの機会の少ない現在のF1レギュレーションの中では「金曜フリー走行も新人ドライバー達がコースを覚え、マシンを学ぶ重要な機会である」として第3ドライバーの走行を行わないという意向のチームが圧倒的である。当然セナも、チーム・メイトのカルン・チャンドックも新人ドライバーであり、しかも全チーム中で最も若いHRTがそれを行うにはデメリットも覚悟となる。しかし、F1チームにとって第3ドライバーの存在は多くのメリットを齎せてくれるのもまた事実である。
まず、セッティング。これは経験値の少ない新人ドライバーでは相当困難な分野であり、エンジニアやメカニックも含め、そのサーキットの特性やマシン・セッティングの妙を知り得ている者の存在は、がむしゃらな新人ドライバーが頑張って出したタイムを0.5秒上回る、とされる。そのセッティングと情報を元に正ドライバーが良い走りを見せ、結果的に好成績となれば理想的である。
次に、持ち込み資金である。特に大口スポンサー獲得がかなわなかったチームにとって、例え1戦ごとのスポット契約であっても、複数のドライバーから齎される個人資金の蓄積は大きい。事実、F1では予算の少ないチームは多くのスポット契約テスト・ドライバーを起用して来た経緯がある。むしろHRTはどのような手段を使ってでもライバルとの力の差を埋める努力が必要な時期であり、左近のリザーブ契約は好タイミングと言える。
が、左近の契約が発表されて1ヶ月も経たない5月5日、HRTはF1浪人中だったクリスチャン・クリエンとのリザーブ・ドライバー契約も発表した。第6戦モナコGPでは早速レギュラーのセナ、チャンドックに加え左近、クリエンの4人がイベントに参加し、笑顔を振りまいていたのが印象的であった。ちなみに第5戦スペインGPではクリエンが、第7戦トルコGPでは左近が、HRTの金曜フリー走行を担当した。彼らの契約が一体どうなっているのかは不明だが、今後ともふたりのサード・ドライバーがフリー走行を分け合う形になると見られる。

…..というワケで、山本左近はF1のパドックに帰って来た。ここで、意外に知られざる左近のキャリアを振り返っておこう。

山本左近は1982年7月9日、愛知県豊橋市にて誕生。小学生の時に鈴鹿のF1日本GPを生観戦し、アイルトン・セナに憧れ、自らもカート・レーサーを志望するも両親の答えはNo。「F1ドライバーになるためには12歳までにカートを始めていなければダメだと、親に土下座して頼んだ」その甲斐あって12歳/小学6年生の時にようやくカート・キャリアをスタートし、’94年/中学生で鈴鹿カート・レーシング・スクール(SRS-K)に入校。親と「勉強と両立させる」ことを約束し、平日は学校/週末はサーキット、の生活を送る。’97年に中部東海カート・シリーズ・チャンピオンとなり、’99年には全日本FAクラスを制覇。’00年に鈴鹿フォーミュラ・レーシング・スクール(SRS-F)に入校しつつヨーロッパのカート選手権へ挑戦、’01年には全日本F3選手権に参戦してシリーズ・ランキング4位。’02年はドイツ、翌’03年はユーロF#へと参戦、カトリック系私立大として有名な南山大学を中退し、’05年にはフォーミュラ・ニッポンへとステップ・アップして来た。
’05年第18戦日本GP。当時F1ではレギュレーションにより金曜フリー走行に第3ドライバーを走らせることが可能であり、左近はジョーダンとスポット契約を行い走行、慣れ親しんだ得意の鈴鹿でレギュラー・ドライバーのティアゴ・モンテイロより0.5秒、ナレイン・カーティケヤンよりも3秒以上速い17番手相当のベスト・タイムをマークし、関係者の注目を浴びた。本人も「これを機に、来年はF1にフォーカスを向けます」と意気揚々とコメント。そして翌’06年前半はフォーミュラ・ニッポンやSUPER-GT選手権に参戦しつつ、この年に誕生した純日本コンストラクター、スーパー・アグリと第8戦イギリスGPからサード・ドライバー契約を行い、チームに帯同。第12戦ドイツGPからはフランク・モンタニーに代わって遂にレギュラー・シートを獲得、スーパー・アグリは再びエースの佐藤琢磨との日本人コンビによるF1参戦となった。シーズン終盤には3戦連続完走を果たし、その走りは高評価を得た。しかしスーパー・アグリは更なる飛躍と国際的スポンサー獲得のため、’07年は琢磨とアンソニー・デビッドソンの布陣を決め、左近はリザーブ・ドライバーとして契約。ただしスーパー・アグリ代表の鈴木亜久里も「左近にもまだまだレギュラー昇格のチャンスはある」と発言。本人はGP2に参戦しながらチャンスを待っていた。しかし同年、ジョーダン買収により誕生したスパイカー・チームからレギュラー・ドライバーのクリスチャン・アルバースがシーズン途中に解雇された際に左近に白羽の矢が立ちつ。「急に来た話だったのでビックリした」左近は第11戦ハンガリーGPからスパイカーへ移籍し、グリッド最後方チームながらコンスタントに完走する実力を見せた。
’08年、左近はスーパー・アグリともスパイカーとも契約せず、ルノー・チームのテスト・ドライバーに就任。積極的にイベントなどに参加し、同時にGP2に参戦。’09年はGP2に専念、シリーズ・ランキング9位と健闘した。
そして’10年、左近は新鋭HRTのサード・ドライバーとなった。ここまで大きなタイトル奪取経験は持たないが、F1デビュー以降ほぼ毎年F1チームとの関わりあいを、それも複数チームと行って来たそのキャリアはある意味”異質”なのものでもある。

’05年第18戦日本GP@鈴鹿。初めてのF1ドライヴとなった左近がレギュラー・ドライバーよりも速いタイムを叩き出したのは、左近の適応力の高さに加え、そこが慣れた地元・鈴鹿であったことも重要であった。’06年、スーパー・アグリから出走していた井出有治が第4戦サンマリノGP後にFIAから「経験不足」としてライセンスを取り上げられた際、左近は明日が我が身と案じた。「有治に起きたことは本当に残念なことで、僕のスポンサーも僕が彼と同じ状況になるのではと不安がっています。でも、僕はF1ドライバーとして成功するためにここにやって来たので、自分では心配していません」その言葉通り、左近はスーパー・アグリ加入後の後半3戦で印象的な走りを見せ、第16戦日本GP、地元鈴鹿では琢磨と共にW完走を果たし、喝采を浴びた。翌’07年の第15戦日本GP(富士)ではスパイカーで自己最高の12位フィニッシュ、地元のプレッシャーに強い一面も覗かせている。
地元に強いF1ドライバー…..もうそれだけで、左近がこれまでの日本人ドライバーと違う、ヨーロッパ並みのセンスの持ち主であることを期待してしまう。チャンスをしっかりとモノにするためには、こうした要所要所での印象的なデータが必要なのである。

しかし、こうしてF1関連のサイトや情報をチェックしていて、人々が想うことは様々だろう。そして、当スクイチはstingerという極めてオフィシャルなF1サイト内に位置しつつも、実は”バリアの外側目線”が信条なので…..ま、時折タブーにも挑戦するワケだ。
そう、大きな選手権制覇歴のない日本人ドライバーである左近が、何故ここまでF1と深い関わり合いを持てるのか。もっとハッキリ言ってしまえば、琢磨や一貴が得られなかったF1のシートを、何故左近は得ることが出来たのか、という疑問である。
今回のHRTとの契約にあたり、左近は自身の口から「ヨーロッパの代理人を通じて先方(HRT)から来た話で、持ち込みスポンサーに関しても特に言われてなく、チームには僕の”経験”を買って貰った」と発言、その契約がただの”資金持ち込みドライバー”としてではないことを物語っている。
実力、コネクション、資金力、そして運。F1シート獲得のために全て必要と言っても過言ではないこれらの要素、左近はいったいいくつを持っている人物なのか。

まず、確実に言えることは左近が多くの持参金/スポンサー・マネーを準備出来るドライバーだった、という事実である。左近のパーソナル・スポンサーとしてはパチンコ機器などで有名な株式会社三宝商会(名古屋)が有名である。そして、実は左近の実家が愛知県では有名な医療財閥と深い関わり合いを持っており、大規模な法人施設運営を行っている。
バブル崩壊以降の不景気と、リーマン・ショック後の経済不安の中で、日本企業は広告活動の大きな見直しを迫られた。スポーツ関連の広告は大きく影響を受け、企業の運動部などは次々に閉鎖に追い込まれて行った。それはモーター・スポーツでも顕著で、前述のようにホンダとトヨタという2大企業ワークスがF1を見切った。両社共にモーター・スポーツ活動に於いては若手ドライバーのスカラシップ展開を行っており、事実上これらのメーカーがメイン・スポンサーとなり、日本人F1ドライバーは誕生して来た。それはホンダと中嶋悟に始まり、形は違えども鈴木亜久里フットワーク片山右京ヤマハ、といったナショナリズムによるパートナー・シップとなってこれまで展開して来た。当然それは日本のみの現象ではなく、ブラジルの大手銀行の世界進出戦略の中にアイルトン・セナという広告媒体があり、ドイツの企業サポートにより皇帝・ミハエル・シューマッハーは誕生した。F1という巨大なマーケットに於いて、無名の若者が有力チームのシートを得るのに実力以外に必要なものがあるかと聞かれれば、その答はイエスなのである。そして、その不景気の荒波の中でも、左近は沈没しなかったのである。
次に、こうして左近が渡り歩いて来たF1チームをあらためて振り返ってみよう。

’05年ジョーダン
’06年スーパー・アグリ
’07年スパイカー
’08年ルノー
’10年HRT

…..実は、’06年のスーパー・アグリと’08年のルノー以外の’05年ジョーダン、’07年スパイカー、そして今季のHRTにはある共通する人物のチームである。’05年のジョーダンはロシアの大富豪アレックス・シュナイダーとチーム・マネージャーのコリン・コレスにより運営されていたチームであり、’07年のスパイカーは彼らがジョーダンを買収したチーム、そしてコレスは今季HRTのチーム代表である、という事実である。つまり、左近の動向の影にはいつもコリン・コレスの存在があるのだ。

左近はヨーロッパのF3参戦中、コレスのチームに所属していた。事実、’05年日本GPのジョーダンのサード・ドライバー・シート獲得にはコレスが両者を仲介しており、コレスと左近には信頼関係、及びビジネス・パートナー関係が存在していた、と考えられる。そして興味深い話として、左近サイドの”金払いの良さ”が挙げられる。一般的にこうした多額の資金持ち込み話は、当初決まった金額を下回ったり、場合によっては全く支払われない所謂”契約不履行”となるケースが多い。が、左近のマネジメントは期日や金額を裏切ることなく、キチンと契約を行うという情報がある。これは先方にとっては明らかに信頼の於ける相手となる。またこうした機会に於いて左近が常に”良い仕事”をして来たのも重要である。つまりチームという企業から見た際、左近は期待を裏切らない、良いビジネス・パートナーである、ということなのだろう。同時に、コレスにとって左近は有能な”お抱えドライバー”であると言っても過言ではない。
ちなみに、左近は’07年にスパイカーのシート獲得に当たり、2.200万ドル(約26億円)の持参金を準備した。この件は、左近とシート獲得を争った元ジョーダンのインド人ドライバー、ナレイン・カーティケヤンのマネージャーが”批判”という形で暴露している(もちろん真相/金額は定かではない)。…..個人レベルで持ち込みが数十億円、というのは一般的には現実的ではない数字に見えるが、こうした投資が可能な環境を、左近及び左近のマネージメントが持っているのは事実なのである。それが前述のメーカーや実家による支援であったとすると、その規模は通常のパートナー・シップの常識範囲内を超えている、と言わざるを得ない。何故なら、スパイカーのレギュラー・シート獲得に数十億円だとして、ルノーのテスト・ドライバー職にすら数億円の持ち込み資金が必要な筈だからである。だが、そういった投資を毎年のように繰り返すことで、左近はF1とのパイプを絶たずに今季を迎えた。世間がTDP(トヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム)のふたりとホンダの捨て子の動向に気を取られていた間も、左近はしっかりとF1に根付く活動を行って来ていたのである。

…..と、ここまで左近の環境を分析して来て、オールド・ファンの方々は納得しつつ、かつてのある日本人F1ドライバーを想い出し、左近の状況と比べているかも知れない。そう、日本で初めてヨーロッパ・スタイルのマネージメントを自ら行い、スポンサー持ち込みでF1シートをゲットした井上高千穂の存在である。

’94年、バブル崩壊の波がゆっくりと、しかし着実に押し寄せる日本経済の中、パイオニアである中嶋悟の引退、ホンダのF1エンジン供給活動休止、そしてヒーロー・アイルトン・セナの死によってF1は確実にダメージを受けていた。当時、片山右京(ティレル・ヤマハ)が日本のエースとしてF1を闘っていたが、ヨーロッパでの武者修行の後にF1へとステップ・アップして来た野田英樹が、持参金をも食いつぶしたチームの消滅(シムテック)によってシートを喪失、日本人は明らかにヨーロッパの高い壁にブチ当たっていた。
そんな中、ヨーロッパ及び国内のアンダー・フォーミュラでの表彰台経験が一切ない無名の日本人F1ドライバーが突然誕生した。タキ井上こと井上高千穂が’94年日本GPにシムテックからスポット参戦し、F1デビュー。更に翌年、フットワーク・アロウズからフル参戦。マスコミもファンも唖然とする中、「知らない男」が突然日本代表に名乗りを上げたのである。
当時、日本の一部マスコミは「無名の井上がF1のシートを金で買った」と井上を批判、そして井上本人は「F1のシートは金で買うものである」と、真っ向から対立した。井上は自らのビジネス論を持っており、ヨーロッパのドライバーが一般的に持参金を持ってF1チームと交渉するのと同じことをやってみせた、初の日本人だった。井上は単独でユニマットとの大口スポンサー契約をまとめ、複数のF1チームと交渉。FIA側も、資金難に喘ぐいくつかの中堅チームの救済策として、アンダー・カテゴリーでの実績がない井上にもスーパー・ライセンスを発給したのである。

日本のフルタイム/レギュラーF1ドライバーの先駆者、中嶋悟は’84〜’86年の全日本F2選手権3連覇の肩書きを引っさげて翌’87年にロータス・ホンダからF1デビュー。ふたり目の鈴木亜久里は’88年全日本F3000選手権王者となり、同年の日本GPにスポット参戦(ラルース・フォード)という形でF1デビュー。3人目の片山右京も、’91年全日本F3000選手権王者となって翌’92年にラルース・ランボルギーニでF1デビューを果たした。右京の頃になると完全に「国内トップ・フォーミュラで王座を獲得したらF1」という空気が出来上がっており、事実’92年にブラバムと年間契約した中谷明彦は「国際F3000選手権のシーズン参戦、イギリス/フランス/ドイツ/イタリア/南アフリカ/日本のF3選手権の現役王者であること」という基準を満たしていないとされ、FIAからスーパー・ライセンスが発給されずにF1デビューが叶わなかった、という経緯がある。つまり、本人の経歴はF1の”参戦資格”として重要視されていた。そして高千穂は、アンダー・フォーミュラでの王座はおろか、表彰台経験もないままF1ドライバーとなった。
「多くの弱小チームが財政的に苦しくなるシーズン後半に、ドライバーに欠員が出ていたシムテックに話を持ちかけた。FOCAも財政難のチームの救済処置になると、僕にライセンスを発行してくれた」と、高千穂自身は後年打ち明けている。「’95年はチーム(フットワーク)に1億円ほど払い、その後毎月5,000万円ほど。そういう内部事情を知らずに僕を非難する人が大勢いたけど、F1ではごく当たり前のこと」完全な正論である。が、国内王座を獲得して初めて”日本代表”という形でF1へステップ・アップする、という考え方は如何にも縦社会・日本らしい発想である。「筋道を通す」というスピリットが必要なのは完全に御国柄だが、そんなものはF1に必要ないことを、高千穂は知っていたのである。が、結果的に選手権を通じて結果を残せなかった高千穂にF1ドライバーとしての未来がなかったのもまた事実であり、そういったチャンスを活かし、チーム・メイトを凌駕し、速さをみせて次のステップがある。多くのF1ドライバーがそうやって王者への階段を登って行ったのである。

さて、左近の在籍するHRTには、’10年6月にブルーノ・セナが左近にシートを奪われるのではないか、というイタリアの雑誌から端を発した噂があった。セナは常に偉大な叔父・アイルトンとの比較に悩まされ、同様に今季F1デビューしたチーム・メイトのチャンドックの成績との比較に於いても苦しんでいる。チームもセナもこれを慌てて否定する声明を出したが、こうした噂が出ること自体、左近にとっては追い風である。もちろん左近とHRTが具体的にどのような契約を結んでいるのかは解らないが、第7戦トルコGPで金曜FP1をセナに代わってドライブした左近はマシン・セッティングに重きを置き、慣れないセナ用のシートで確実にデータを稼ぎ出し、最終的にセナのマシンのタイム・アップに大きく貢献した。こうした細かい積み重ねが形になることは多いにあり得ることであり、何よりもコレスが見逃さない。もちろん金銭面も大きいのは事実だが、現在のHRTにとって左近は非常に重要な人物であることは確かなのである。

「左近は日本でも有能なレーシング・ドライバーなんだ」とコレス。「彼のチームに対するインプットは非常に重要で、また彼と仕事が出来るのが嬉しいよ」…..かつて、日本人ドライバーをここまで買ったヨーロッパのF1関係者がいただろうか。これまで日本人ドライバーの動向には常に日本企業が付いており、そのメーカーの動向次第でドライバー本人の今後に大きな影響を与えて来た。それがホンダF1撤退後の佐藤琢磨であり、トヨタF1撤退後の中嶋一貴の現状である。とすれば、こうしてF1の”現場”であるヨーロッパでのパイプを持った日本人は、もしかしてようやくF1参戦の本当の意味でのスタート地点に立ったのではないか。ペーター・ザウバーに指名された可夢偉同様、左近もまた、日本のF1の未来を背負うレーサーと鳴り得るのではないか。
現状、毎戦のように左近の走りを観ることは難しい状況だが、出場機会のある限り、左近の走りに注目し、そして期待したいと思う。

「挑戦せずに夢を諦めることほど、もったいないことはない」/山本左近

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