F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集

F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集 F1 STINGER 【スティンガー】 > スクーデリア・一方通行 加瀬竜哉 >  > 2009年8月1日  暗雲2010

スクーデリア・一方通行/加瀬竜哉

謹んでご報告申し上げます。
『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。

[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。

[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己

暗雲2010

報道先行に惑わされつつ、紆余曲折、試行錯誤、ケンケンガクガク…..があったかどうか知らないが、結局富士スピードウェイは2010年以降の日本GP開催中止を決定し、去る7月7日に加藤裕明社長の口から正式に発表された。昨年のホンダのF1撤退発表同様「次回で撤退」ではなく「昨年ので終わり」という事後報告である。同時に「現時点で来年の日本GPが何処で開催されるのかは我々にも解らない」との発言により、FIAとの日程調整などの細かい部分に関しては未だ不透明であることも明らかになった。普通に考えればこれ以降は毎年鈴鹿で、となりそうなモンだが、一部では日本GPの存続そのものを問う報道もあり、事態はそう簡単には行かなそうな気配である。

“世界選手権”を唱うF1グランプリ、そもそもがヨーロッパ、それもイタリア/イギリス/フランスの一部のコンストラクターが、その自社製の車の性能を競う形でスタートしたイベントが現在のような本当の意味での世界選手権となるには、当然それなりの年月とそれなりの変化が必要だった。アメリカ、南アフリカ、オーストラリア、ブラジル、そして日本。ヨーロッパの自動車レースが海を渡るには、選手権そのものの変革とドライバー/メーカー/スポンサーらの状況による”拡大”が必要だった。もっとも、F1最初の3国の中からフランスGPが’09年のF1世界選手権カレンダーから落ちているあたりが現状を良く物語っている、とも言える。世界経済の変化とF1人気の中で、この巨大スポーツ・イベントは常に世界のあらゆる国々と開催について話している。

F1世界選手権と銘打った初年度である1950年は全7戦、開催地は以下の通り。

イギリス
モナコ
・アメリカ(インディ500)
・スイス
ベルギー
・フランス
イタリア

シリーズの中にインディアナポリスで開催されるインディ500マイルレース(1911年スタート)が組み込まれていることを除けば、当然ながら全てヨーロッパでの開催である。では、開催数も飛躍的に増えた60年後の’09年(全17戦)の開催地はどう変化したか。

・オーストラリア
・マレーシア
・中国
・バーレーン
・スペイン
モナコ
・トルコ
イギリス
・ドイツ
・ハンガリー
・ヨーロッパ(スペイン・ヴァレンシア)
ベルギー
イタリア
・シンガポール
・日本
・ブラジル
・アブダビ

ご覧の通り、全17ヶ所の内’50年と同じなのはイギリス/モナコ/ベルギー/イタリアの4ヶ国のみである(興味深いのは、4ヶ国共’09年と同じサーキットでの開催)。そして、実に半数以上の9ヶ国が非ヨーロッパ地域である。最終戦のアブダビGPは今年初開催。昨年F1史上初のナイト・レースとして開催されたシンガポールGP、バレンシア市街地で開催された”第2・スペインGP”とも言うべきヨーロッパGPに続く、F1初開催GPである。また、この10年間でトルコGP(’05年〜)/バーレーンGP(’04年〜)/中国GP(’04年〜)、そしてマレーシアGP(’99年〜)などがF1開催地の仲間入りを果たした。見てお解りの通り、昨年からのバレンシアを除けば全て中東〜アジア地域である。この理由は簡単明瞭で、広告効果と資金という宣伝要素がヨーロッパで滞り、イベント縮小を回避するため中東/アジアに流れた結果、と言える。’90年代半ばからスポーツ・イベントに於けるタバコ広告の規制が厳しくなり、不況という名の経済変化がヨーロッパを襲い始めた頃から、F1は徐々に”ヨーロッパ離れ”を始めていた。
同時に、FIAの求める”イベント格式”は高く、例え歴史と伝統の由緒あるサーキットであっても、設備の老朽化や安全性に関わる事項には厳しく対処を求め、条件を満たさない場合にはバッサリと切られてしまう。昨年でカレンダー落ちしたカナダGPは、老朽化したモントリオール/ジル・ビルヌーヴ・サーキットの路面剥離が予選〜決勝を通じて問題となり、前年の’07年にインディアナ・ポリスのアメリカGPが終了したのと併せ、’09年の北米でのF1GP開催ゼロ、という状況を招いてしまった。現状、世界不況の煽りを受けているアメリカ/ヨーロッパ諸国はこの”世界選手権”の枠から弾かれ、中東やアジアへとその場を移し始めている。F1初のインド・チームであるフォース・インディアの存在も現状を良く表しているが、同じアジアでも、ホンダと富士スピード・ウェイの撤退、という状況にある日本は、アジアの中でも最も”西洋寄り”の国だと言える。

では何故F1カレンダーにスペインのバレンシアが増えたのか、の答はズバリ、’05/’06年に2度のワールド・チャンピオンとなったスペイン人ドライバー、フェルナンド・アロンソ(ルノー)の存在である。アロンソはスペイン人初のF1ワールド・チャンピオンであり、名実共にスペインの世界的英雄である。よってアロンソの活躍によりスペイン国内での2開催が実現した、と言って良い。つまり、突出した人気を誇る一個人が、巨大なF1を動かしているとも言える。
この”ヨーロッパGP”という名称はFIAが非常に重宝しているイベント名であり、観客動員やスポンサー・シップ、注目度などの要素で本来原則である”1国1開催”を破り、ヨーロッパ内での2開催を容認するための便利な方法論である。現在ドイツGPとして開催されているニュルブルクリンクは’97/’98年がルクセンブルクGP、’95/’96/’99〜’07年はヨーロッパGPとして、ホッケンハイムでのドイツGPと併せてドイツ国内での2開催が行われていた。その期間は、ご想像の通りドイツが産んだ不世出の英雄、”ミハエル・シューマッハー時代”である。

近代F1で最も”手の込んだ”やり方は”サンマリノGP”だったと言えるだろう。サンマリノ共和国はイタリア半島にある小さな独立国家だが、実際にサンマリノGPが開催されるのはイタリア国内にあるイモラ・サーキットである。しかもイモラは正式名称を”アウトドローモ・エンツォ・エ・ディノ・フェラーリ”といい、フェラーリの地元である。F1=フェラーリ、フェラーリこそF1の全て、という考え方により長く容認されて来たが、’06年を最後に開催中止。本来高速サーキットとして誕生したイモラは’94年の悲劇的な事故を機に大改修を行い、多くの高速コーナーがシケイン化され、原型を留めない姿となってしまい、最終的にはFIAによる”1国1開催厳守”により’07年以降の開催が不可能となった。これにより、1国2開催の逃げ道は”ヨーロッパGP”の名称をどの国で使うかという方法論だけとなった。もっとも、日本にはパシフィックGPが、アメリカにはアメリカ西/アメリカ東GPという”前科”があり、経済状況や人気に左右されるフレキシブルな”不確定要素”として今後も様々な可能性が残される筈である。

ただ、近年/特にサーキットの安全性に関しての条項が厳しくなった’90年代以降、かつてそのダイナミックなコース・レイアウトにより幾多の名場面を演出して来た”オールド・サーキット”に対しての規制が一層厳しくなり、その多くは改修されるか開催を断念し、他の新しいサーキットにその座を奪われる運命となる。元々自動車レースのコースを設計するにあたっては、長いストレートと高速コーナーを擁する広い敷地、が大前提であった。前述のイモラやモンツァ(イタリア)、ホッケンハイム(ドイツ)、シルバーストーン(イギリス)、ポール・リカール(フランス)、スパ・フランコルシャン(ベルギー)…..エンジン・パワーに任せて最高速を競うことこそ自動車レース、という発想は技術の進歩とスペクタクルとの狭間で”危険”という言葉といつも隣り合わせである。その危険性がレースの醍醐味であるという意見は確かに存在するが、取り返しのつかない悲劇的な事故の発生は、少なくとも商業化された近代F1には不要なものとなった。そして現在、FIAが絶大な信頼を寄せる建築家/サーキット・デザイナー、ヘルマン・ティルケにより、全てのサーキットを安全面で”合格”とすることと、進化した近代マシン・レギュレーションに則ったオーバー・テイクのし易いレイアウトへと変更される。言わずもがな、サーキット側がこれを拒否すればF1は開催出来ない。歴史と伝統だけではなく、資金や政治力全てをコントロールした上でなければF1世界選手権のカレンダーには生き残れないのである。

ティルケは’54年ドイツ出身の建築家であり、自らもステアリングを握りアマチュア・レースに参戦するモーター・スポーツ・ファンである。’84年に設立したティルケ・エンジニアリングを母体に、これまでにセパン(マレーシア)、バーレーン、上海(中国)、イスタンブール(トルコ)、韓国などの新サーキットの設計を担当。それ以外にはA1リンク(オーストリア)、ホッケンハイム(ドイツ)などの長いレイアウトを持つオールド・サーキットは複合コーナーの多いショート・サーキットへと改修され、富士スピードウェイもこれにあたる。言わば、FIAの求める要素を具現化するスペシャリストと言える。ティルケのレイアウトの特徴はロング・ストレート直後のヘアピンやトリッキーなコーナーが必ず存在することであり、これらはFIAからの「オーバー・テイクのし易いレイアウトを」というリクエストに基づいたものである。
しかし、現在レッド・ブルのテクニカル・ディレクターである天才デザイナー、エイドリアン・ニューウィーは「最もオーバー・テイクを困難にしているのは近年のサーキット・レイアウトの変更だ」と言う。「オーバー・テイクを増やすためにマシン・レギュレーションを変更するのは、それがサーキットの改修よりも容易と捉えられているからだ。抜きつ抜かれつを期待するのなら何が必要なのかを、皆簡単に忘れてしまう」レースをバトル・スペクタクルとして捉えるのなら、オーバー・テイクは欠かせない要素である。が、安全性と最高速を天秤にかけ、理想的な答を導き出した際の結果は常に安全性優先であり、今更スパのオー・ルージュやイモラのタンブレロのような危険な高速コーナーがレイアウトされる筈もない。現状、FIAの興味はサーキットのレイアウトの特殊さから来るスペクタクルよりも、開催国による立地的な個性に寄っている。ナイト・レースとなったシンガポール市街地レースや、”砂漠のグランプリ”バーレーンなどはその典型例と言える。
が、これは筆者の憶測ではあるが、観衆が望むオーバー・テイクとは恐らく”加速中の追い越し”である。ティルケ設計の多くのサーキットがストレートの最後に抜きやすいフル・ブレーキング・カーブを持つが、求められているのは減速しながらのブレーキング勝負ではなく、サイド・バイ・サイド/横並びでの高速バトル、なのだろう。だとすればティルケの信条とするレイアウトでは難しいが、観客の満足度に応えるために必要なのは危険な要素とも言え、近代F1サーキットが似たようなレイアウトとなって行くのはある程度避けられない。よって、レイアウトよりも開催国の特徴を重視せざるを得ないのである。

バーニー・エクレストンは精力的である。’11年からのF1開催を目指すブルガリアの代表団の来訪を受け、近々自らブルガリアを訪問すると約束した。F1にとって新たなマーケットとなる可能性のある場所には、基本的にドアを開けておくのが彼等のやり方である。しかしその反面、ブルガリアの隣国であるトルコで行われた’09年のトルコGPは、お世辞にも大盛況とは言えない状況だった。イスタンブール・サーキットで行われるこのイベント、今年のチケット販売数は僅か36.000枚。昨年が40.000枚だったことを考えれば、トルコでのF1GP開催の意義そのものが問われる事態である。事実、今年の第7戦トルコGPでは多くの観客席にはシートがかけられているのが解り、TV中継そのものもグランド・スタンド以外の観客席は極力映らないよう工夫がされていた。サーキットがオープンした’05年にはル・マン・シリーズやDTM(ドイツ・ツーリングカー選手権)などが開催されたが、現在ではF1のみ、つまりこのサーキットでのイベントはF1トルコGPだけであり、現状F1開催週以外は閉鎖中、という状況となっている。フラビオ・ブリアトーレ(ルノー)は「FOTAとしてはこんな状況下でのレースはしたくない」、2位フィニッシュしたレッド・ブルのドライバー、マーク・ウェバーは「表彰台から見ても誰もいなかったよ。こんなことならチケット代を下げるか、さもなきゃ無料で入れた方がマシだった」と嘆いた。確かにひとつの原因として高額なチケット料金があげられているが、格式を守るか浸透を目指すかの論議の前に、恐らくトルコはF1世界選手権のカレンダーから姿を消してしまうだろう。

予算や改修概要などの調整と政治的な部分により、’09年を最後にイギリスGPの舞台であるシルバーストーンがカレンダーから姿を消す。’50年、記念すべきF1世界選手権第1戦の舞台となった歴史と伝統のサーキットである。イギリス空軍の飛行場跡地を利用した広いスペース、長いハンガー・ストレートとその末端に待つストウ・コーナーでのバトルはF1史に多くの名勝負を残して来た。そのシルバーストーンもティルケによる大改修を待ち、イギリスGPは’93年にヨーロッパGPとしてグランプリを開催したドニントン・パークへとその舞台を移す。’09年イギリスGPには別れを惜しむファンがシルバーストーンのスタンドを埋め尽くし、新記録となる8万5千人を動員した。が、2027年までの長期開催契約を保持するドニントンは資金面で問題を抱えており、場合によってはここ数年の日本GPのようにシルバーストーンとドニントンでの隔年開催、ということも有り得る。
こうした経済的な問題は世界中で起きている。’09年第9戦ドイツGP、TV中継ではレース前にヘリコプターによる空撮で美しいニュルブルクの景色、ニュルブルク城などと併せて山中を走る北コース(現在F1が開催されているのは南コース)の様子が映し出された。全長22.8km、172のコーナーと300mに及ぶ高低差、近代フォーミュラ・カーではおよそ競争力も安全性も発揮出来ないオールド・コース。かつてのニキ・ラウダの壮絶な事故に代表される”危険性”によってニュルブルクリンクでのF1GP開催は短い南コースのみとなった。それは技術の進化と安全性の向上による、ごく自然な流れである。
同じドイツ/ホッケンハイムはジム・クラーク(’68年)、パトリック・デパイエ(’80年)の死亡事故によりシケインが増設され、’01年には森の中を駆け抜ける高速セクションが全てレイアウトから外され、中速サーキットへと生まれ変わった。が、ドイツGPとしてニュルブルクリンクとの隔年開催を予定していたにも関わらず、ここホッケンハイムも経済危機を理由に’08年を最後にF1開催を終了。今、’01年まで使用されていたホッケンハイムの旧コースは森の中で静かに眠っている。が、ここで再び高速バトルが行われることはもうないだろう。それどころか、こうした政治的/経済的な問題に加え、BMWのF1撤退が決定してしまい、グランプリ・サーキットの命とも言うべきF1開催そのものが危ぶまれる事態になっているとは、クラークもデパイエも思いもしないだろう。

以前、富士スピードウェイの30度バンクについて触れたが、多くのサーキットがその歴史の中でスペクタクルと安全性について学び、そして進化を遂げて行く。大きな事故/問題が起きれば大改修が施され、その時代のレーシング・カー/レギュレーションに見合ったレイアウトへと変化して行った。同時に水面下では政治的なやりとりが行われ、巨額の資金が動いた結果で開催地が決まって行くのも、グランプリというビジネス自体の巨大さ故である。富士スピードウェイは新しいオーナーであるトヨタの全面支援により、それらの要素を全て満たした最新のサーキットだった。厳しいF1の安全基準を満たし、初年度となった’07年の様々な問題を解決するには膨大な努力と予算が必要となった。そして、彼等はそれを克服し、翌’08年の開催を成功で終えた。そして次の瞬間、彼等はF1開催からの撤退を、それも鈴鹿との隔年開催という長期契約を破って決定したのである。これで富士スピードウェイは、そのレイアウト/安全基準などの基となるF1という主を失い、他のカテゴリーのために存続することになる。
全8戦、鈴鹿/富士/もてぎ/オートポリス/菅生を舞台に行われるフォーミュラ・ニッポン。現状、この日本のトップ・フォーミュラの観客動員力がどれほどかご存知だろうか。’08年の平均観客数は約27,000人(JAF発表)。当然ながらその数はこの数年間下降の一途を辿るばかりである。これは、F1への登竜門として若い日本人ドライバーが選ぶ道は海外フォーミュラとなり、自動車メーカーによる若手育成プログラムの台頭時代を経て、ホンダのF1撤退により全てが縮小傾向にある現在、日本のフォーミュラ・レーシングの未来そのものに暗雲が垂れ込めていることを表している。

今、世界最大興行であるF1グランプリを軸に、世界中のサーキットが大きな岐路に立たされている。こうした多くの政治的な問題は、’10年の暫定F1カレンダーが’09年8月現在に未だ発表されていないという事態を招いている。’10年イギリスGPはシルバーストーンなのかドニントンなのか、ドイツGPはホッケンハイムなのかニュルブルクリンクなのか。モーター・スポーツ発祥の地・フランスにグランプリは帰って来るのか。そして、日本GPは一体何処で行われるのか。鈴鹿?、富士?、それともティルケの最新作である韓国インターナショナルサーキットが日本GPの名称で開催することになるのだろうか?。いずれにしても、もがくことをせずに得られる未来などありはしない。2年/2回という数字は、この巨大なイベントの未来を判断するにはあまりにも短かった。
世界経済、自動車産業の方向性、会社の存続、社員とその家族の保証。ホンダもトヨタも、会社として下した決定は一流のものである。ただし、多くの人々の夢を打ち砕き、絶望感を齎したツケもまた大きい筈である。

「今後もモータースポーツのさらなる発展のために一層努力してまいります」
/’09年F1撤退発表時の富士スピードウェイプレス・リリースより

 

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