『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。
[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。
[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己
激震
…..ついに起きてしまった。いや、明るみに出てしまったと言う方が正しいのかも知れない。先日、当スクイチでも”F1スポーツ論“と題してその競技/イベントの捉え方について言及したばかりだが、いつの時代も、またいかなる競技に於いても絶えず論議の対象となる事柄と言える事態である。筆者が知る限りの最も卑劣な表現を使うのであればそれは”八百長”であり、参加する者と観る者、さらに支援や投資する者までも裏切る、許されざる行為である。
’08年、F1初のナイト・レースとして開催された第15戦シンガポールGPで、ルノーのドライバーであったネルソン・ピケJr、同チームのマネージング・ディレクターのフラビオ・ブリアトーレ、エンジニアリング・ディレクターのパット・シモンズが共謀し、ピケのチーム・メイトであるフェルナンド・アロンソに有利なレース展開を導くためにピケJrが故意にウォールにクラッシュし、目論んでいたセーフティ・カー導入によりアロンソの優勝を得た疑いで、国際スポーティング規約第151条の違反に問われた。…..平たく言えば、予選で下位に沈んだエース・ドライバーを勝たせるために、監督とマネージャーが新人のチーム・メイトに対し、わざとセーフティ・カーが出るようなクラッシュをして来いと命令した、というものである。
このショッキングな一連の報道により、パドックはパニックに陥った。TV中継の国際映像では絶えずブリアトーレの一挙手一投足が映し出され、ドライバーの記者会見中も必ずと言って良いほど話題に上り、ドライバー達も困惑、この一件はパドックの誰もが避けられない話題となってしまった。そして9月16日、ルノーは以下の声明を出した。
INGルノー・F1チームは、’08年シンガポールGPに関するFIAの申し立てに異議を唱えない。また、マネージング・ディレクターのフラビオ・ブリアトーレ、エンジニアリング・ディレクターのパット・シモンズ両名がチームを離脱したことを表明する
またチームは9月21日のパリでのFIA世界モータースポーツ評議会の公聴会に出席するよりも前に、これ以上のコメントは行わない
…..簡単に言えば、ルノーはこの件を認めたのである。昨年のホンダ、そして今年のBMWに続いてF1撤退の噂が絶えないルノーにとって、これは大きな打撃である。こうしたスキャンダルはレーシング・チームよりも元締めであるメーカー本体へ与える影響が計り知れない。公聴会を目前にルノーからこうした処置が行われた背景には、自白と責任者の解雇によって、ルノーが可能な限りFIAからの処罰を軽くしようという姿勢が見える。つまり、問題になった当事者をクビにするからどうか恩赦を、ということ。それでもルノーには相当なペナルティが待っている筈だ。
’07年、フェラーリのチーフ・メカニックであるナイジェル・ステップニーが自チームの情報を不正に持ち出し、マクラーレンのマイク・コフランに提供していた疑惑が発覚した。当初は両者共に事件への関与を否定していたが、最終的にマクラーレンの最高責任者であるマーティン・ウィトマーシュが事実を認めて謝罪。FIA/世界モータースポーツ評議会は事件への関与が認められなかったドライバー(アロンソ/ルイス・ハミルトン)は無罪としたが、チームはコンストラクターズ・ポイントの剥奪と1億ドル(約110億円)の罰金という処分となり、チーム側はCEOのロン・デニス更迭によって”カタを付けた”。もしもウィトマーシュがこの件に対してシラを切り続けたら、恐らく1シーズンの出場停止処分を受けていた筈である。それを、デニスの首と罰金を差し出して逃れた、というのが真相である。
今回のルノーにもこれと同様の、或は更に厳しい裁定が下される可能性が高い。バーニー・エクレストンによると、息子を解雇されたネルソン・ピケSrは「ブリアトーレを破滅させるためなら手段は選ばない」と発言していた。仮にルノーが有罪確定後にF1から撤退しなかったとしても、ピケ親子の目的は”ブリアトーレに対する報復”であり、この告発がF1の中心人物のひとり/ブリアトーレを追放することが目的だったのだとしたら、限りなく”成功”と言えるのだろう。
まず、この一件を時間軸で追ってみることにしよう。
■’09年7月
・成績低迷のピケJrに対し、シーズン途中での解雇〜ローマン・グロージャンとの交代が噂され始める
・ピケJrはマスコミに対し、ブリアトーレを「F1のことなんか何も解っちゃいない金の亡者」と発言、ブリアトーレも「ヤツは言い訳ばかり」と応戦
■8月
・ルノーが第10戦ハンガリーGP終了後にピケ解雇/グロージャン加入を発表
・ピケJrがルノー離脱を認め「ブリアトーレは死刑執行人」と発言
・ピケJrの母国であるブラジルのTV局”Glovo TV”が第12戦ベルギーGP中継中に「ピケは故意にクラッシュするように命令されていた」と報道
・ルノー/ブリアトーレ/シモンズはこれを否定
■9月
・ピケJrが正式な書簡として7月30日にFIAに提出した告発文書のコピーがメディアの手に渡り、全文が公開される
・FIAが調査に乗り出す
・ブリアトーレは一貫して否定するも、シモンズが「ピケ自身のアイデアだった」と発言
・FIAが9月21日に公聴会開催を決定
・公聴会を前にブリアトーレ/シモンズがルノーを離脱
…..これが、現在F1を揺るがす”クラッシュゲート事件”である。ここで、今回の一件の登場人物を確認しておく。
□ネルソン・ピケJr
ブラジル出身、3度のF1世界王者を父に持つ、’08年デビューのF1ドライバー。ルノー・チームで元世界王者のフェルナンド・アロンソとコンビを組むも成績では惨敗、周囲の予想通り、’09年第10戦ハンガリーGPを最後にルノー・チームから解雇。
□ネルソン・ピケ(Sr)
’81年(ブラバム・フォード)、’83年(ブラバム・BMW)、’87年(ウィリアムズ・ホンダ)で3度のF1ワールド・チャンピオンに輝いたブラジル人ドライバー。’91年にF1を去りインディなどに挑戦後’98年にレーシング・ドライバーを引退、現在は実業家としても成功。現役時代は同郷のアイルトン・セナやウィリアムズ時代のチーム・メイトであるナイジェル・マンセルらと犬猿の仲となり、個性の強い人物としても知られる。
□フラビオ・ブリアトーレ
ルノーF1チームのマネージング・ディレクター。’88年にベネトン・チームのマネージャーとしてF1に関わり、以後’ビジネスマンとしての手腕を発揮し、リジェやミナルディなどのF1チーム、’98年にはカスタマー仕様のルノー・エンジンを販売するメカクローム社などを次々と買収。’00年にルノー・チームに復帰。アロンソ、ピケJrを始めマーク・ウェバー、ヤルノ・トゥルーリ、ヘイキ・コバライネンらのマネージャーとしても有名であり、私生活でもスーパー・モデルのナオミ・キャンベルやハイディ・クラムらと浮き名を流す、派手好きなイタリア人。
□パット・シモンズ
ルノーF1チームのエンジニアリング・ディレクター。フォードでの経験を活かし’81年にルノー/ベネトンの前身であるトールマン・チームで初のF1マシン開発を手掛ける。ベネトン時代にはミハエル・シューマッハーのレース・エンジニアを務め、2年連続のワールド・チャンピオン獲得に貢献。’96年にシューマッハーと共にベネトンを離脱したロス・ブラウンの後を受けてテクニカル・ディレクターに就任、その後ルノーによるベネトン買収後も一貫してチームに残留、アクティヴなレース戦略には定評がある。
□フェルナンド・アロンソ
’05、’06年と、当時史上最年少でF1王者となったルノー・チームのエース・ドライバー、スペインの英雄。’01年にブリアトーレのマネージメントによりミナルディからF1デビュー、2年目の’02年にルノーのリザーブ・ドライバーとなり、翌’03年にレギュラーに昇格。2度目のタイトル獲得後の’07年にマクラーレンへ移籍するが、チーム内での待遇(チーム・メイトはこの年デビューのルイス・ハミルトン)などを巡ってロン・デニスと対立、’08年にルノーへと復帰し、渦中の第15戦シンガポールGPと翌第16戦日本GPを連勝、ドライバーズ・ランキング5位となった。
続いて、問題の’08年第15戦シンガポールGPというレースを簡単に振り返ってみる。
シーズン終盤、タイトル争いはマクラーレンのハミルトンとフェラーリのフェリペ・マッサの間で争われていた。レースはウォールに囲まれたシンガポールの市街地サーキットで行われるF1史上初のナイト・レース、誰もが初めての環境の中でセッティングに苦しんでいた。ここまで苦戦を強いられて来たルノーのエース、アロンソは今シーズン初めて適切なセットアップを見つけ出し、予選Q1では6番目のタイムを余裕で叩き出し、決勝レースに向けてチーム全体が大きな手応えを感じていた。しかしQ2開始直後、アロンソのマシンが燃料系のトラブルでコース・サイドにストップ。マシンを降りたアロンソは大きく天を仰いで悔しさを爆発させた。結局アロンソは予選15位に終わり、チーム・メイトのピケJrはQ1で敗退し16位。ポール・ポジションは逆転王座に賭けるフェラーリのマッサが獲得、ランキング首位のハミルトンがフロント・ローに並んだ。
決勝ではアロンソとウィリアムズのニコ・ロズベルグがスーパー・ソフト・タイヤをチョイス。15番手スタートのアロンソは軽い燃料でスタートでのジャンプ・アップを狙い、オープニング・ラップで11番手へと進出。ピケJrは18番手。全ドライバー中最も燃料搭載量の軽いアロンソは序盤13周目にピット・インし、9.6秒で給油とハード・タイヤへの交換を終えてコースに復帰した。
そしてレースが15周目に入ったところで、16番手走行中のピケJrがターン17でイン側のウォールにクラッシュ。これでレースにはセーフティ・カーが導入された。ロズベルグは未だピット・レーンがクローズされているにも関わらず、ガス欠を避けるためにやむを得ず予定通りピット・イン。このセーフティ・カー先導中にホンダのルーベンス・バリチェロがコース上にストップ、長引くピット・レーン・クローズにBMWのロベルト・クビサも燃料が足らずペナルティ覚悟のピット・イン。
17周目にピット・レーンがオープンになると各車一斉にピットへ。ここでトップのマッサがロリポップ代わりのピット・シグナルの操作ミスにより、まだ給油中にも関わらずマシンを急発進させ、給油ホースを取り付けたままピット・レーンを走り出してしまった。このミスによってマッサは優勝戦線から脱落。19周目にレース再開となった時、トップはロズベルグ、続く2位ヤルノ・トゥルーリ(トヨタ)と3位ジャンカルロ・フィジケラ(フォース・インディア)のふたりは燃料搭載量が多かったためにまだピット・インを行っておらず、4位クビサ、5位にアロンソというオーダーとなっていた。この間、ロズベルグとクビサに対しレーンのオープン前にピット・インしたことがスチュワードにより審議対象とされ、これを予期していたウィリアムズ陣営はレース再開直後からペナルティが課せられることを察知し、ロズベルグにペース・アップの指示を出す(ペナルティは通達から3周以内に実行)。ロズベルグは28周目にストップ・アンド・ゴー・ペナルティを行い、4番手でコースに復帰。34周目にようやくトゥルーリがピット・イン、これにより遂にアロンソがトップに躍り出た。42周目に2度目のピット・インを行ったがトップでコースに復帰、そのままチェッカーを受けたアロンソは’07年イタリアGP以来の勝利。2位には自己最高位のロズベルグが入った。
アロンソ勝利のポイントは後方スタートで軽めの燃料とスーパー・ソフト・タイヤで第1スティントをショート・スプリントとしたこと、ピット・インのタイミングがセーフティ・カー導入直前となったために、労せずして上位に進出出来たこと、である。これにより、元よりコースにマッチしたマシンでミスなくトップを快走し、まさに予選でのトラブルを取り返す結果となったのである。
…..そして、このアロンソの上位進出のきっかけとなったピケJrのクラッシュは、ルノーによって指示されたものだった、というのがこのクラッシュ・ゲート事件である。FIAは即座に調査を開始した。処分の最悪のケースとしてルノーのF1撤退に繋がる可能性もある。元より今シーズンいっぱいでの撤退が囁かれるルノーにとって、上層部に来季もF1を続けるための要素としてはあまりにもネガティヴ過ぎる。
’08年シンガポールGP終了時、このセーフティ・カー導入による恩恵を最も受けたのは2位のロズベルグだと思われた。彼はストップ・アンド・ゴー・ペナルティによる遅れを避けるため、公式に裁定が下るまでの数周の間を予選並みのラップ・タイムで後続との差を広げ、結果自己最高の2位となった。このウィリアムズの戦略と翌第15戦日本GPでのアロンソ2連勝の影に隠れ、ピケJrのクラッシュの一件は盲点となっていた。しかし、実際に予選からの流れを追って行けば、ピケJrのクラッシュが、勝てるパッケージングを持ちながら予選を失敗したアロンソ/チームにとって非常に有利に働いたことは事実である。事実、ここでの優位を確信していたアロンソは予選中のトラブルでマシンを降りた際、全身で悔しさを露にした。チーム自体もここまで不振のシーズンを送り、ようやく巡って来たチャンスをトラブルで台無しにしてしまった。しかし決勝レースでの適切なセット・アップは既に持っており、ウォールに囲まれたオーバー・テイクが難しいストリート・サーキットでなければ上位進出も可能だったかも知れないが、正攻法では勝負にならない。いっそタイミング良くセーフティ・カーが出動すれば上位進出も可能なのに、と考えるところまでは至って自然である。しかし、それを意図的に実行したとなると話は別だ。何より、自らのレースを脅迫によって失ったピケJrの身にもしものことがあったら一体どうするのか。例えピケJrが無事でも、コース・マーシャルや観客、コース上を走る他のドライバー全員を危険に晒すことなど、誰にも許されないのである。
今回、ピケJr自身によって告発された内容の概要は以下の通り。これはピケJr自身がFIAに提出した供述書を要約したものである。
・’08年シンガポールGPに於いて、私のマネージャーでありルノー・チーム代表であるフラビオ・ブリアトーレ、チームのテクニカル・ディレクターであるパット・シモンズの両氏から、レース中意図的にクラッシュすることを依頼された。私はそれに同意し、故意にウォールにマシンをクラッシュさせた。
・レース前、ブリアトーレのオフィス内でシモンズがチームのために自分のレースを犠牲にするつもりがあるかと尋ねた。ブリアトーレが私の翌年の契約に関して情報を隠すことで私はストレスを感じており、この件を承諾することで事態が好転することを期待し、同意した。その後シモンズはマップを使ってクラッシュする位置と周回を指示した。理由はそのコーナーには事故車処理用のクレーンも排除口もなく、確実にセーフティ・カーが導入される筈だからであること、アロンソが12周分の燃料しか積んでいないので、これにクラッシュのタイミングを合わせることにより、予想通りセーフティ・カーが導入され、結果アロンソは優勝した。
・レース前にシモンズは私に「注意しろ」とだけ言い、ブリアトーレは何も言わなかった。レース中、私はこの作戦を実行するために何度も無線で周回数を確認したことが記録音声によって解るだろう。これは普段なら絶対に行わないことである。また、通常ならブレーキングすべき位置で加速したこともテレメトリーに残されており、常識的なエンジニアならそれが意図的なことである気づく筈である。
・レース後、ブリアトーレは「ありがとう」とだけ言った。それ以外に、この件に関しては一切話は行われなかった。3人以外にチーム内でこの事実を知る者がいるかどうかは解らない。私は友人のフェリペ・バルガスにこのクラッシュが意図的なものであることを告白すると、バルガスがこの件を父(ネルソン・ピケSr)に報告した。
…..何という衝撃的な内容だろうか。例えそれが戦略という名の下に行われたとしても、市街地サーキットのコンクリート・ウォールに故意にマシンをクラッシュさせ、多くの人間を危険に晒したという事実に変わりはない。ましてそこが初開催のストリート・サーキットであり、経験値によって得られる安全性向上はまだなく、ひとつ間違えれば大惨事である。しかもシモンズはコース上で最も事故処理に時間のかかる場所を選んでおり、もしも多重クラッシュになればレース自体が赤旗中断されたかも知れない。
ピケJrのシンガポールGPに於けるテレメトリーを見ると、14周目のターン17で明らかにそれまでの13周とは違うアクセリングを行っていた。ターン出口でリア・タイヤが空転したあと、一旦アクセルを緩めたが何故かもう一度アクセルをオンにした。これによりスピンが発生し、内側のウォールにクラッシュした。確かにこの行動はスピンしかけたマシンを立て直すためとは言えず、むしろ更にスピンさせる効果となる。
更にイギリスのタイムズ紙がすっぱ抜いたルノーの当日の無線のやりとりでは、アロンソのピット・ストップ後にはピケJrに対し、前を行くバリチェロ(ホンダ)を抜くためにプッシュしろとの指示が出ていた。そしてピケJrのクラッシュが起こり、ブリアトーレとシモンズを含め、現場の全員が驚いている。もっとも、もし現場でピケJrにクラッシュの指示を出していれば証拠となってしまうので、作戦実行には第三者に解らない暗号が使われるのが一般的である。ただし、明確に何周目の何処で行うかが決まってさえいるのなら、それさえも必要ない。密室で3人だけで行われた”作戦会議”を仮に現場の他の者達が知らなかったとしても、この作戦は遂行出来る。実際ピケJrは今何周目かを問い、シモンズは担当エンジニアに「教えてやれ」と伝えていた。
“異常に短い”第1スティントを走る作戦を受け入れて勝利を掴んだアロンソはこの件に関して全く知らないとFIAの調査官に発言した。確かに、例えその時点でアロンソが何番手にいようと、13周分のガソリン量しか持たないアロンソがそれ以上周回を続けることは出来ない。よって、アロンソはただ単にセーフティ・カー後にプッシュの指示を受けて走るだけでこの作戦は成立する。が、もしかするとブリアトーレもシモンズも優勝までは考えていなかったかも知れない。実際セーフティ・カーは長引き、ロズベルグがペナルティを食らい、更にマッサがピット作業のミスで後退することまでは読めない筈である。そのマッサはレース後ブリアトーレに「このクラッシュは正しくない。あなたが望んだから起きた」と抗議した。…..ピケJrと同じブラジル人ドライバーのマッサは、結果的にこのレースでタイトル争いを不利にしてしまったと言えなくもない。
F1の歴史の中でこういった”意図的な事故”がどれほど行われて来たのかはもちろん定かではない。近代F1で有名な事故としては’89年鈴鹿のアラン・プロストとアイルトン・セナ及び翌’90年の報復劇、’94年オーストラリアでのミハエル・シューマッハーとデイモン・ヒル、’97年ヘレスでのシューマッハーとジャック・ビルヌーヴ…..これらはいずれもチームの指示というよりも、タイトル争いのクライマックスでのドライバー自身に起こる突発的な行動、として認識されている。’89年鈴鹿のセナ、’97年ヘレスのシューマッハーにペナルティが下されているが、多くはそれが故意なものなのかどうかの真相は闇の中である。’90年鈴鹿に関しては、後年それが意図的なものであったとセナ本人が告白したが、既に選手権が成立したあとであり、誰も控訴しなかったことでそのままただの”歴史的事実”として語り継がれるのみとなった。
では、今回の一件をアロンソとピケJrによる”巧みなチーム・プレイ”と呼ぶことは可能だろうか。
’91年鈴鹿、ランキング首位を行くマクラーレン・ホンダのセナは、シーズン中盤から怒濤の追い上げをみせたウィリアムズ・ルノーのナイジェル・マンセルを抑えるため、チーム・メイトのゲルハルト・ベルガーにトップを独走させ、自らは2番手でマンセルをスロー・ペースで巧みにブロックして抑え込み、焦ったマンセルのコース・アウトを誘発、マンセルのリタイアでタイトルが確定した後に一旦はタイヤ摩耗でペースの落ちたベルガーをパスするが、最終ラップで再び故意にペースを落としてベルガーに首位を譲った。レース後、セナはベルガーと「1コーナーに先に入った方が勝つ」という約束をしていたことを暴露、チームからの指示ではないことを強調。これでセナは3度目のタイトルを獲得し、ベルガーはシーズン初優勝、マクラーレンはコンストラクターズ・タイトル獲得となった。
’86年最終戦オーストラリア。マクラーレン・ポルシェのケケ・ロズベルグはタイトルを争うプロストをサポートするため、自身の引退レースにも関わらずリタイア覚悟のハイ・ペースでレースを引っ張り、ポイント上のライバルであるウィリアムズ・ホンダのナイジェル・マンセルとネルソン・ピケ(Sr)を撹乱、結果トップ快走のロズベルグはタイヤ・バーストでリタイアしたが、常識外れのハイ・ペースに付き合わされたマンセルもタイヤ・バースト、それを見たウィリアムズ陣営はピケに安全のためにタイヤ交換を命じ、順位を下げる。結局終始クレバーに走ったプロストが僅か1ポイント差で2度目の王座を獲得した。リタイアしてマシンを降りたロズベルグが、走り去るプロストに親指を立てて見送るシーンは語り草となっている。
前者/セナの行動は賛否両論となった。それはマンセルに対してのコース・アウトを誘発するようなドライビングに対してではなく、セナが故意に、それも”これ見よがしに”ベルガーに首位を譲ったことに対してである。実際マクラーレンでセナと2年目のコンビを組むベルガーは不振に喘ぎ、常に脇役として評価されるばかりだった故に尚更である。反対に、後者/ロズベルグのケースはむしろ自らのラスト・レースを犠牲にしてまでチーム・メイトのタイトル獲得に協力した”美談”として語られることの方が多く、加えて速さ/強さは持ちながらも不運に泣くマンセルと、後方から冷静に勝利をもぎ取るプロスト、という構図の典型例となり、否定的な意見はまず耳にしない。
話は古くなるが、’75年第7戦スウェーデンGP予選。ようやくタイム計測にストップ・ウォッチではなくレーザーが使われ始めた頃、マーチのチーム・マネージャーのであるマックス・モズレーは何故かチーフ・デザイナーのロビン・ハードにピット・ボードの掲示役を託した。ハードはそのレーザーの計測ポイントをボードを振って遮り、タイレルのパトリック・デパイエを抑えてビットリオ・ブランビラ生涯初/たった1度のポール・ポジション獲得を演出した、とハード自身から聞いたとジャーナリストのマイク・ローレンスが語っている。ちなみにお解りだと思うが、この指示を出したマックス・モズレーとは、現FIA会長本人である。
何がジョークで何が事件なのか、はもちろん時代によって解釈が違う。が、もしも”故意にマシンをクラッシュさせる”という提案がチーム・スタッフからドライバーに対してなされたのであれば、それは極めて危険で卑劣な行為であり、決して”作戦”などと呼べるものではない。
ピケはルノー離脱後「僕はアロンソとブリアトーレの両方と闘わなくてはならなかったんだ」と発言している。チームから世界王者であるアロンソとの比較によってプレッシャーをかけられるのは当然だが、ブリアトーレは意図的にレース開始直前でもピケJrに対し契約内容などを盾に度々心理戦を仕掛けており、ピケJr自身はこれを”いじめ”と捉えた。そして、自身の解雇後に父と共に逆襲に転じた。何が社会的で誰が大人げないのかは別としても、このような事態の結末に、F1にとって不可欠なチーム/メーカーの終焉が待っているのだとしたら、それはあまりにも恐ろしい逆襲劇である。
「みんな、ごめん」@’08年シンガポールGP・クラッシュ直後の無線/ネルソン・ピケJr