『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。
[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。
[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己
起て!サムライ二世
’91年11月3日、アデレード。豪雨のオーストラリアGP決勝レース後、ポディウムには5年間に渡る日本人初のF1レギュラー・ドライバーという大役を果たし、レーシング・ドライバーから引退する中嶋悟がTV番組の企画で立っていた。フジテレビの実況/解説陣に加え、ティレル・ホンダのスタッフやライバルであり同胞でもある鈴木亜久里、レース・デビュー間もない頃の中嶋をサポートした碧南マツダの中村梅夫氏らが中嶋の引退に花を添える。中嶋自身も眼に涙を浮かべていた。そして、中嶋本人には知らされていなかった番組サプライズとして、妻のあけみさんと長男・一貴君がポディウムに登場。まだ6歳の長男は照れながら父・中嶋悟の足にしがみつく。TVの前で世界中を転戦する父の勇姿を観ながら「ホンダGOGO!」と旗を振って応援していた、まだ幼い一貴君、これでお父さんと過ごす時間が増えて良かったね。
…..とまあ、あんまり回りくどいの何なので単刀直入に言うと、それが我らがニッポン代表・中嶋一貴なワケだ。当時あのあどけない少年を観て、殆どの方が「う〜ん、この子も将来F1ドライバーになるとか言うんだろうな」と思った筈だ。で、そのバックには当然ホンダがついていて、何となくロータスかウィリアムズのマシンにホンダ・エンジン積んでF1デビュー、みたいな想像をしたと思う。で、その頃にはグリッドにはネルソン・ピケとかアラン・プロストとかナイジェル・マンセルあたりの息子達が並んでて、ああオレも歳くったんだな、みたいな…..。
あれから19年。その間にロータスは消滅した。プロストとマンセル二世はまだF1に届かない。が、一貴はF1にやって来て、ウィリアムズのドライバーとしてピケやロズベルグの息子達と闘っていた。つまり、我々オッサン達の予想(希望?)はほぼ正しかった。ただ、予想を最も裏切ったのは、そのバックにいるのがホンダではなくトヨタだったことだ。もちろん’91年の時点でトヨタはF1に参入しておらず、ホンダはマクラーレンと組んでWタイトルを獲得する相変わらずの強さを見せていたので想像するのは難しかったが、一貴がアンダー・フォーミュラ時代からトヨタのスカラシップによってF1へと上がって来たのは驚きでもあり、実に正解でもあった。何故なら、結果的に一貴のF1デビューの翌年にホンダはF1から撤退してしまったからだ。”最終的に”という予測面で見た場合、一貴は非常に利口なチョイスをしたと言える。少なくとも、トヨタがF1に参戦している間はシート獲得率が高い。それは、ホンダのスカラシップによる参戦に”振り回された”佐藤琢磨の去就を見れば一目瞭然である。だが仮に、もしもトヨタがそのシートを保証出来なくなった場合、メーカーによるサポートという有利な要素を持たずとも、ドライバー市場で他チームから眼をつけられる存在になる、つまり活躍することがシート獲得に必要な要素となる。それは例えば選手権での獲得ポイントであり、予選での速さであり、チーム・メイトとの比較に於ける好印象であったりする。もっとも、これらの要素を満たさなければ、自身をバックアップするメーカーのサポートすらも期待出来なくなり、つまりはシート喪失の危機を迎えるのである。
一貴がウィリアムズ・トヨタでコンビを組むのは、’82年の世界王者、ケケ・ロズベルグの息子であるニコ・ロズベルグである。2年目となるこのコンビ、昨年はリタイアは共に2回、入賞回数も共に5回。しかし得点ではロズベルグ17点/一貴9点でほぼWスコアの差を付けられた。ただし、同い歳ながらF1では2年先輩のロズベルグ相手に、フル参戦1年目の成績としては決して悪くはない。が、良いわけでもない。1年目から経験豊富なチーム・メイトを食うくらいでなければこの世界で生き残ることは難しい。だいたい目的は生き残ることではなく勝つことであり、最高位6位の一貴が2位/3位を獲得して表彰台に立つチーム・メイトの影で満足出来る筈もない。だが迎えた’09年、事態は更に深刻となった。第12戦ベルギーGPを終え、ロズベルグは12戦中10回の入賞で既に30.5ポイントを獲得してドライバーズ・ランキング6位。だが一貴の方は最高位9位で未だ無得点。
そしてそのロズベルグには、’10年シーズンに向けて名門マクラーレン、選手権をリードするブラウンGPなどからオファーが殺到している。パドックではフェルナンド・アロンソの去就の次に話題となるのがロズベルグの行き先であり、フェリペ・マッサの負傷欠場というイレギュラーはあったものの、’10年のシート争奪戦の鍵を握る人物である。が、もしもウィリアムズがロズベルグの残留を諦めた場合、’10年シーズンを新しいドライバーふたりで迎えるのは好ましくないと考えるのなら、理想はもうひとりのドライバーである一貴の残留である。しかしそれもトヨタの存在あっての話。肝心のトヨタは相変わらず昨年のホンダ、7月に今シーズンいっぱいでの撤退を発表したBMWに続いて金融危機と成績不良を理由に’09年いっぱいでF1活動を終了するのではとの憶測が常に囁かれている。そこへ持って来て、今度はウィリアムズ側がトヨタとの’10年までのエンジン供給契約を1年前倒しで破棄し、来季は違うエンジンを使用したいと言い出した。理由の多くはKERS使用に関わる。彼らはFOTAがダメ出しをしたKERSを諦めず、新たな開発に於いてKERS搭載を前提としたエンジン、例えばメルセデス・ベンツやルノーらと契約したいのである。元よりFOTAという”組合”に反旗を翻し、他チームが推奨するサード・カー案などにも真っ向から否定するウィリアムズが独自の道を歩むことを選ぶのは周知の事実である。’80年代後半、一貴の父・中嶋悟をウィリアムズ・ホンダのシートに座らせることを断固として拒否したフランク・ウィリアムズのチームで一貴が闘うためには、確実に成績/結果が必要である。残り5戦、チャンスは限りなく少ない。
…..一貴は今、放出危機を迎えている。トップ・チーム/トップ・ドライバー達の来季への動きの中で忘れられがちなことではあるが、我々ニッポンの代表、サムライ二世にとってシーズン後半は試練の時となる。
中嶋一貴は1985年1月11日、愛知県岡崎市生まれ。物心がついた頃には父・中嶋悟はF1ドライバーとして世界を転戦していた。自身のカート・デビューは’97年、2年後の’99年に鈴鹿ICAクラス選手権を制覇し、早くも才能を開花させる。が、日本人にとって”ナカジマ”のネーム・バリューはとてつもなく大きく、俗にいう”親の七光り”にカテゴライズされることを充分に承知していた一貴は’02年、FTRS(フォーミュラ・トヨタ・レーシング・スクール)の門を叩く。父と繋がりの深いホンダという巨大なF1の象徴を避け、ある意味最もライバルであると言えるトヨタへと身を投じた一貴は実力でスカラシップを獲得し、翌’03年には3勝をあげてフォーミュラ・トヨタ・シリーズ・チャンピオンとなった。’04〜’05年は全日本F3に参戦、初年度の’04年はシリーズ5位、’05年には2位となる。’06年にはユーロF3選手権へと闘いの場を広げ、優勝1回を含むシリーズ7位の成績をおさめた。’07年、一貴はF1のすぐ下のカテゴリーであるGP2へと進み、勝利こそ成らなかったがポール・ポジション1回/最高位2位という成績を残し、再び世界にナカジマの名を轟かせた。父・悟の引退から16年後のことである。
一貴はこの’07年から、GP2参戦と平行してウィリアムズF1のテスト・ドライバーを務めることとなった。ウィリアムズにはトヨタ・エンジンが供給されており、多くのスケジュールをF1と帯同するGP2に参戦する一貴は適任でもあり、同時に金曜フリー走行での3台目の出走が可能だったF1GPに於いて、その速さをアピールする絶好のチャンスともなった。そして最終戦ブラジルGPで、前戦中国GPで引退したアレクサンダー・ヴルツの後任として突然のF1デビューが決定したのである。結果は予選19位/決勝10位とまずまず。レース中の自己ベストタイムはロズベルグを上回り、全ドライバー中5番手。初の本番レースで緊張からかピット・インの際に指定位置に止まりきれず、スタッフをはねるというアクシデントこそあったものの、持ち前の速さはしっかりと魅せた。
そして、一貴は遂に’08年シーズンからのウィリアムズ・トヨタのレギュラー・ドライバーの座を射止めたのである。かつて父に門扉を閉ざしたウィリアムズが、そのレーシング・ドライバーとしての能力と、父・悟にはなかった”英語力”を評価し、きっかけがトヨタの推薦でによるテスト・ドライヴであるにしろ、ウィリアムズF1のシートを獲得したのには明らかに”レーシング・ドライバーとしての能力”を評価されたという事実が存在する。こうしてあらためて初年度シーズンとなる、’08年開幕戦オーストラリアGPではサバイバル戦を生き残って6位、奇しくも父と同じ”2戦目の初入賞”である。その後、ロズベルグには叶わずとも高い完走率で5戦でポイント・フィニッシュ。第6戦モナコでの7位は日本人初のモナコ入賞である。獲得ポイント9点でドライバーズ・ランキング15位。’09年は更なる飛躍が予想され、ウィリアムズのふたりの二世がグランプリの台風の目となる予感があった。
しかし、大幅なレギュレーション変更で’09年シーズンがスタートすると、ブラウンGPやレッド・ブルの大躍進の影で、マクラーレン/フェラーリ/ルノー、そしてウィリアムズら名門チームが優勝戦線から脱落してしまっていた。ウィリアムズは独自のシステムによるKERS開発に手間取り、ウィリアムズFW31・トヨタは中団グループに埋もれる危機を迎えていた。しかしそんな中でも名手ロズベルグは奮闘し、第9戦ドイツを除いて全戦予選Q3進出、決勝でもポディウムこそないものの全12戦中10戦で入賞。しかしその影で、一貴は最高位9位。チームの作戦的に重い燃料で長いスティントを走ることになるケースが多く、途中多くのトラブルに巻き込まれているのは事実だが、その作戦も上がらない予選順位によるものであり、本人次第とも言える。第8戦イギリスでは一貴が目覚ましい速さを見せ予選5位を獲得、これは今季のウィリアムズの予選最高位(ロズベルグも5位2回)でもある。しかし決勝ではチームのミスとタイヤ・チョイスの不運が重なり入賞圏外の11位に終わった。今季3度目の予選Q3進出となった第10戦ハンガリーでも9番手スタートで9位フィニッシュと、ポイント獲得には至らなかった。これで第12戦ベルギーGP終了時、シーズン開幕からレギュラーとして参戦しているドライバーの中で無得点なのはフォース・インディアのエイドリアン・スーティルと一貴だけになってしまったのである。
国際F3000選手権を制し、アメリカでCCWS(Champ Car World Series)をのタイトルを4年連続で独占、昨年鳴り物入りでF1へとやって来たセバスチャン・ブルデー。レッド・ブル傘下の中堅チーム、トロ・ロッソからF1デビューとなった’08年開幕戦オーストラリアGPでいきなり7位入賞するも、年間を通じては7位2回で結果はランキング17位。対照的に、前年シーズン途中に急遽F1デビューしたばかりの若きチーム・メイト、セバスチャン・ヴェッテルは予選Q3進出常連/コンスタントなポイント獲得の後、大雨の第14戦イタリアGPで、多くの”史上最年少記録”を塗り替えながら初ポール・ポジション〜初優勝を遂げた。そして翌’09年にヴェッテルは格上チームであるレッド・ブルへと移籍し、今季堂々とタイトルを争うドライバーとなった。反対にブルデーはチーム残留となった今季、新たにチーム・メイトとなった新人ドライバー、セバスチャン・ブエミに肉迫され、第9戦ドイツを最後にチームから解雇された。
一貴やロズベルグ同様、3度の世界王者を父に持つ二世ドライバーのひとりでもあるネルソン・ピケjr。ピケはブルデーと同じ’08年開幕戦オーストラリアGPでルノーからデビュー、チーム・メイトは2度の世界王者フェルナンド・アロンソだった。成績はシーズンを通じてアロンソがほぼ予選Q3の常連だったのに対しピケはQ1/Q2で脱落することが多く、決勝でもアロンソが2勝/61点でドライバーズ・ランキング5位、しかしピケは荒れた第10戦ドイツGPで作戦勝ちの2位初表彰台をゲットするも、入賞4回/19点でランキング12位。ピケは翌年に向けてルノーから更なる活躍を期待されてチームに残留。しかし今シーズンも予選名手であるアロンソとの”予選一発”比較で惨敗し、決勝でもコンスタントにポイントを稼ぐアロンソに対し1度も1ケタ台フィニッシュがなく、ブルデーに続いて第10戦ハンガリーでチームを解雇。トロ・ロッソはハイメ・アルグエルスアリ/ルノーはローマン・グロージャン、ブルデーもピケも新人のF1デビューの影でそのシートを奪われた。
アメリカで無敵を誇ったブルデーにとって、F1でのチャンスは僅か1年半であった。しかしその間、ベテランではなく若い、つまり経験未熟な筈のチーム・メイト達の後塵を拝し、その評価がそのまま本人自身の去就と繋がってしまった。ピケは直接比較される相手が2度の世界王者だったのは不運だが、学ぶべきものを持ったチーム・メイトからの刺激を形にする、及び”倒す”という意味では最高の条件を持っていた。当然だが、世界王者を打ち負かせば自身の評価は上がり、チーム内での扱いの向上や更なるトップ・チームからのオファーも期待出来る。それが期待出来ないと解った時、巨額が蠢くF1グランプリでは彼らは無用の長物となってしまう。残酷と言えばそれまでだが、これが世界中で20人しか座れないF1シート争奪戦の現状である。
ブルデーとピケになくて、一貴にあるもの。それはメーカーのバック・アップである。
前述の通り一貴はトヨタのスカラシップによりキャリアを磨き、トヨタの推薦によってトヨタ・エンジン搭載チームであるウィリアムズ・チームのシートを獲得した。大口スポンサーを持っているだけでも相当な強みとなるF1に於いて、コンストラクターやエンジン・メーカーのサポートを持つドライバーは殊更有利な立場にいる。事実、ヴェッテルやアルグエルスアリらはレッド・ブルの育成ドライバーであり、昨年の世界王者であるルイス・ハミルトンはマクラーレンの前CEO、ロン・デニスの秘蔵っ子である。我々日本人の記憶に新しいのは佐藤琢磨の存在である。琢磨もホンダのスカラシップによってF1へとステップ・アップし、ワークス・チームであるBARホンダのシートを失ったあともホンダのバック・アップを持つ新チーム、スーパーアグリのシートを得た。ただし、ホンダがF1から手を引いてしまった後、F1に琢磨の居場所はなくなってしまった。’08年秋から今季のトロ・ロッソのシート争いに参戦するが、良い結果を残しながらも結局「スポンサーシップ的な問題」つまり持ち込み資金不足を理由にシート獲得には至らなかった。ちなみに琢磨とのシート争いに勝利したのは前述のブルデーである。仮にホンダがエンジン供給を継続していたとすれば、琢磨の居場所は何処かにあったのかも知れない。が、それほどまでにF1シート争いは過酷であり、圧倒的な強さを提示出来ない状況のドライバーにとってはバックアップが頼みの綱となる。そしてそれは、現在F1に4つのシートを持つトヨタと一貴の未来へ直接繋がる要素でもある。そのトヨタ自体が今季限りでの撤退を噂され、ウィリアムズからはエンジン供給契約の途中破棄を申し入れられている。
また、仮にトヨタが’10年もF1に残留したとしても、新たに参入予定の3チーム(USF1/カンポス/マノー)は全てコスワース・エンジンを使用する。つまり、’10年のグリッドが新規参入によって13チーム/26台となっても、今後の”エンジン市場”に変化はない。トヨタがチーム/コンストラクターとしてのF1参戦を辞め、エンジン供給のみに絞ることは考えられるが、そうなった場合にトヨタをチョイスするチームが見当たらない。少なくともKERS搭載組にとっては魅力的なエンジンではなく、当然今からトヨタがKERS開発に手を出すとは資金的にも考えにくい。噂の通りマレーシア政府が’09年で撤退の決まっているBMWザウバーを買収し、同じアジアのトヨタ・エンジンを欲するとしたら、アジアン・ドライバーである一貴に白羽の矢が向けられる可能性はあるかも知れない。ただ、この噂は全てが不透明である。これからシーズン終盤に向け、多くのチームが’10年の体制発表を行う。今もって不透明なアロンソ/キミ・ライコネン/ニコ・ロズベルグ/ヘイキ・コバライネンらを中心としたトップ・チームの”ドライバー市場”に結論が出始め、中堅チームはそれを見て調整を行う。トヨタと一貴の未来が決まるまで、そう長い時間はかからない。また、現在GP2参戦中のトヨタのスカラシップ・ドライバー、小林可夢偉の存在も忘れてはいけない。彼もまたトヨタという武器を手にF1デビューを狙うニッポン代表のひとりなのである。
…..もうすぐ鈴鹿にF1が帰って来る。我々が一喜一憂した父・中嶋悟のDNAを受け継ぐサムライ二世・中嶋一貴が鈴鹿へやって来る。3年振りのF1開催となる鈴鹿だが、一貴のF1デビューから現在まで、F1日本GPは富士で開催されていた。よって、これが一貴にとって初の鈴鹿でのF1日本GPとなる。シーズン残り僅か、10万人を越えるファンが聖地・鈴鹿での一貴の笑顔を待ち望んでいる。
頑張れ、サムライ二世!。
「やれることをやるしかないですね」’09年/中嶋一貴