F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集

F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集 F1 STINGER 【スティンガー】 > スクーデリア・一方通行 加瀬竜哉 >  > 2010年5月21日  隣人にご注意を

スクーデリア・一方通行/加瀬竜哉

謹んでご報告申し上げます。
『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。

[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。

[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己

隣人にご注意を

マーク・ウェバーが絶好調だ。第6戦モナコGPをポール・トゥ・ウィンで制して早くも2勝目で選手権のトップに立ち、’10年のチャンピオン候補筆頭に挙げられていた若きチーム・メイト、セバスチャン・ヴェッテルを引き離す勢いである。もちろんハード的にも、トップ4と言われる中でレッドブルがアタマひとつ抜きん出ていることは周囲の予想通りだが、実際に選手権でウェバーがヴェッテルを上回ると予想した人は少ない筈である。またヴェッテルの方が不運なマシン・トラブル続きだったことも確かだが、逆にここまでウェバー車にトラブルが出なかったのも、幸運という勝利に必要な要素を持ち合わせている証しと言える。このウェバーの活躍にかつてのボスであるサー・フランク・ウィリアムズは「マークを手放したのは失敗間違いだったかも知れない。彼の才能はようやく開花したんだ」と今季の活躍をベタ褒めする。ウィリアムズ〜ジャガー時代の”予選1発屋”というあだ名は影を潜め、昨年132戦目での史上最遅初優勝記録を達成。その昨年のヴェッテルPP5回/4勝、ウェバーPP1回/2勝という数字から考えても、今季はウェバーの大いなる成長が見てとれる9年目のシーズンである。
ではここで、この突然変貌を遂げたダーク・ホース、マーク・ウェバーのF1での戦績を振り返ってみよう。

マーク・ウェバー/’76年8月27日オーストラリアにて誕生、現在33歳。’02年開幕戦オーストラリアGPにてミナルディからデビュー、いきなり5位入賞。’10年第6戦モナコGP現在出走146戦、総獲得ポイント247.5点、PP獲得4回、最速ラップ5回、優勝4回。
ここで昨年までの9年間の予選/決勝に於ける、ウェバーとチーム・メイトとの結果を一覧にしてみた。

チーム 予選 決勝
02 ミナルディ ウェバー17-00ユーン ウェバー10-01ユーン
03 ジャガー ウエバー14-02ピッツォニア ウェバー11-03ピッツォニア
04 ジャガー ウェバー15-03クリエン ウェバー10-06クリエン
05 ウィリアムズ ウェバー14-05ハイドフェルド ウェバー09-07ハイドフェルド
06 ウィリアムズ ウェバー14-05ロズベルグ ウェバー07-05ロズベルグ
07 レッドブル ウェバー15-02クルサード ウェバー09-07クルサード
08 レッドブル ウェバー15-03クルサード ウェバー13-14クルサード
09 レッドブル ウェバー03-14ヴェッテル ウェバー09-08ヴェッテル


注:’02年ミナルディのチーム・メイトはアレックス・ユーン、第13戦ハンガリー/第14戦ベルギーのみアンソニー・デヂッドソン。’03年ジャガーはアントニオ・ピッツォニア、第13戦ドイツから最終第16戦までジャスティン・ウィルソン。’04年ジャガーはクリスチャン・クリエン。’05年ウィリアムズは第15戦イタリアから最終第16戦中国までピッツォニア。’06年ウィリアムズはニコ・ロズベルグ。’07、’08年レッドブルはデビッド・クルサード、’09年レッドブルはセバスチャン・ヴェッテルである。尚、両者共にリタイアのレースはカウントしていない。

こうして振り返ると、あらためてウェバーの予選の強さが浮き彫りになる。同じマシンに乗るチーム・メイトに対し、デビュー年の全勝を初め’08年までは見事なまでに上回って来た。が、決勝結果に眼を移すと、毎年徐々にチーム・メイトに追い上げられ、’08年には遂にベテラン・クルサードにひっくり返される。この年は特に予選では13勝3敗だっただけに、クルサードのレースの巧さの前にウェバーが見事にやられたシーズンだった。そして、更に興味深いのは昨年である。予選では新星ヴェッテルの登場により完全に立場を失ったウェバーだったが、実は決勝でのチーム・メイト対決に於いてはほぼ互角であった。ただ、ヴェッテルの勝利数が意外に伸びていないのは内容的に高得点フィニッシュかリタイア、という荒れたシーズンだったことを物語っている。が、少なくとも6年間、チーム・メイトを常に上回って来たウェバーにとってタイトル争い経験者のクルサードにレースでひっくり返された’08年と、突然現れた新人にまんまと主役の座を持って行かれた’09年は本来なら下降の一途を辿ってもおかしくない状況だった。しかし今季のウェバーは違う。明らかに「このままNo.2ドライバーになってたまるか!」という意気込みが感じられるのである。

…..最も身近にいるライバル、それはチーム・メイトである。同じ環境に置かれ、同じマシンを手にし、でも自分と自分専用のレーシング・チームとで作戦を立て、レースを闘う。戦略、技術、体力、全てに於いて比較されるのは常にチーム・メイトであり、相手が優秀であればあるほど、勝った時の自らの株は上がり、そして将来のトップ・チームでのシートへと結びつくと行っても過言ではない。なにしろ、このウェバーとヴェッテルは現在不調のフェリペ・マッサ離脱後のフェラーリ・シートを争っている、との噂まで出ている。
そのマッサの後任に関し、好調のレッドブル組のふたり同様に噂に上っているのがルノーのロベルト・クビサである。

ロベルト・クビサ/’84年12月7日ポーランドにて誕生、現在25歳。’06年第13戦ハンガリーGPにてBMWザウバーからデビュー。’10年第6戦モナコGP現在出走63戦、総獲得ポイント196点、PP獲得1回、優勝1回。

チーム 予選 決勝
06 BMWザウバー クビサ02-04ハイドフェルド クビサ02-04ハイドフェルド
07 BMWザウバー クビサ04-12ハイドフェルド クビサ06-10ハイドフェルド
08 BMWザウバー クビサ13-05ハイドフェルド クビサ11-07ハイドフェルド
09 BMWザウバー クビサ11-06ハイドフェルド クビサ07-10ハイドフェルド


注:’06年は第13戦以降のデータ/’07年第7戦アメリカGPは前戦での怪我により欠場(代役出走はヴェッテル)

この比較はウェバーに比べ、ほぼ同一チーム・メイトによるところが興味深い。シーズン中のデビューから翌年の初フル参戦までは完全にベテランのチーム・メイト、ニック・ハイドフェルドにやられたが、3年目の’08年に初優勝を含めた大活躍で逆転、昨年はKERS開発の失敗に始まった昨年のマシン不調、そしてBMWのF1撤退という中で再び喘ぐが、結果的にクビサはルノーへの移籍を早々と決定。もちろんそのルノーにもF1活動継続に疑問符が付く状態だったが、実際’10年シーズンが始まってみれば周囲の予想を裏切ってトップ4を食う勢いの大活躍、第6戦モナコでは予選2位/決勝3位の好成績で計59ポイントを稼ぎ出し、現在ドライバーズ・ランキングでも6位に着けている。反対にハイドフェルドはメルセデスGP誕生とミハエル・シューマッハー復活劇の狭間でシートを失い、結果的にF1浪人となってしまった。BMWザウバー時代の4年間でみればハイドフェルドがクビサを上回る数字を残している。が、たったひとつ、1勝というキャリアの差が今シーズンのこのふたりの明暗を分けたのである。そして新天地ルノーでもルーキー・ドライバーのヴィタリー・ペトロフに大差をつけているクビサに、フェラーリ移籍の話が出るのも当然のことと言えるだろう。

チーム・メイトに勝つ、というのがF1ドライバーとして成功するのに絶対不可欠な要素だとするならば、これまでのF1の歴史に於いて、圧倒的な強さを見せたドライバーのチーム・メイト達の存在が気にかかる。ドライバーズ・チャンピオンを獲得するほどのドライバーの乗ったマシンは確実にそのシーズンのトップ・クオリティのマシンを与えられていた筈で、にも関わらずチーム・メイトに対して絶対的なアドバンテージを持つ、というのはそう簡単なことではない。ひとつの例として解りやすいのがかつてのシューマッハーとフェラーリの関係である。

’94〜’95年とベネトンで2年連続王者となったドイツの皇帝ミハエル・シューマッハーは、不調に喘ぐ名門フェラーリの復活のため、’96年にこのマラネロの伝統的なチームへと移籍した。特に’90年代中盤、フェラーリの落ち込みは深刻であった。’90年に前年の王者アラン・プロストを擁してマクラーレン・ホンダのアイルトン・セナと熾烈なタイトル争いを繰り広げたのを最後に勝利からも見放され、当時最強のルノーV10エンジンを擁する前述のベネトンとウィリアムズが時代をリードしていた。フェラーリは中途半端な改革を選ばず、監督にWRCやル・マン24時間などで敏腕を振るった元プジョーのジャン・トッドを迎え、ベネトンからシューマッハーと共に2年連続タイトルを獲得したテクニカル・ディレクターのロス・ブラウン、マシン・デザイナーのロリー・バーンを一緒に引き抜いた。つまり、トッドの監視下の元、フェラーリは”チーム・シューマッハー”として生まれ変わったのである。
最初のチーム・メイトはアイルランド出身の好漢、エディ・アーバインである。アーバインにはまだ勝利経験がなく、パドックでは速いが荒っぽいドライバーとして認識されていた。

エディ・アーバインは’65年11月10日、北アイルランド出身。’93年第15戦日本GPでジョーダンからデビュー、キャリア10年で出走146戦、4勝、獲得ポイント191点。’02年ジャガーを最後に引退。

チーム 予選 決勝
96 フェラーリ アーバイン01-14シューマッハー アーバイン03-10シューマッハー
97 フェラーリ アーバイン02-15シューマッハー アーバイン02-13シューマッハー
98 フェラーリ アーバイン01-15シューマッハー アーバイン03-12シューマッハー
99 フェラーリ アーバイン01-09シューマッハー アーバイン04-06シューマッハー


注:’99年第9戦オーストリアから第14戦ヨーロッパGPまでは負傷のシューマッハーに変わってミカ・サロが走行、データからは除外

…..データ上、前半のアーバインはシューマッハーを援護するところまでも行かず、遠く足元にも及んでいない。これは明らかにチーム・シューマッハー作りの成果の表れ、とも言える。そして’99年、フェラーリ4年目を迎えたアーバインがシューマッハーに対してライバル心を剥き出しにして挑んだ第8戦イギリスGPで、シューマッハーは事故により骨折、長期離脱を余儀なくされた。ポイント・リーダーを失った選手権は混沌とし、ミカ・ハッキネン(マクラーレン・メルセデス)とのタイトル争いを勝ち取りたいフェラーリはここから急遽アーバインをエース・ドライバーとして選手権を闘う。シューマッハーの代役にはテスト・ドライバーのルカ・バドエルではなく、当時シート喪失中ながらハッキネンと同郷でアンダー・フォーミュラ時代からのライバルであるミカ・サロを起用。しかしそのサロがフェラーリ3戦目の第10戦ドイツGPでトップを快走。レース終盤、不甲斐ないアーバインに勝利を譲る場面も見受けられ、アーバインのタイトル獲得に危険信号が灯る。結局最終2戦にシューマッハーが復帰、見事に2戦連続ポール・ポジション獲得、レースではサロ同様アーバインの援護に回るも、最終的にタイトルはハッキネンが獲得。最終戦日本GPでのシューマッハーは明らかに葛藤の中にいた。そしてアーバインはチームを去って行った。

次のシューマッハーのチーム・メイトはルーベンス・バリチェロである。シューマッハーとほぼ変わらぬキャリアを持った中堅ドライバーとして、弱小チームを渡り歩きながら着実にその評価を上げて来た。が、もしかしたら’00年のフェラーリ移籍決断はバリチェロの未来を大きく変えてしまったかも知れない。

ルーベンス・バリチェロは’72年5月23日、ブラジル生まれ。’93年にジョーダンからF1デビューし、現在最多出走記録更新中。11勝、PP14回、最速ラップ17回、獲得ポイント614点。’10年はウィリアムズに在籍。

チーム 予選 決勝
00 フェラーリ バリチェロ01-16シューマッハー バリチェロ05-12シューマッハー
01 フェラーリ バリチェロ01-16シューマッハー バリチェロ03-14シューマッハー
02 フェラーリ バリチェロ04-13シューマッハー バリチェロ04-13シューマッハー
03 フェラーリ バリチェロ06-10シューマッハー バリチェロ04-11シューマッハー
04 フェラーリ バリチェロ05-13シューマッハー バリチェロ02-16シューマッハー
05 フェラーリ バリチェロ08-11シューマッハー バリチェロ08-11シューマッハー


シューマッハー/フェラーリの完全なる黄金時代、’00年から’04年まで圧倒的な強さの秘密はこの表にある通りである。シューマッハーを優位に置き、必勝態勢を築く。少なくともフェラーリがタイトル争いでルノーの後塵を拝し、低迷した’05年はバリチェロがシューマッハーに肉迫する活躍を見せたのも事実だが、時既に遅し。この賛否両論の方法論によりシューマッハーとフェラーリは5年連続のWタイトルを獲得、その中には所謂”チーム・オーダー事件”や”フィニッシュ直前順位操作ミス事件”などがあり、その後のF1のレギュレーションそのものにも大きく影響した。
影響を受けたのはフェラーリだけではない。バリチェロはシューマッハー態勢に嫌気が差して’06年にホンダへ移籍、低迷の時代を我慢して望んだブラウンGP誕生の’09年、中盤から追い上げを見せるもタイトル獲得に届かなかったのは…..長きフェラーリ時代に付いた”負けグセ”が影響しているのは間違いなかった。

もうひとつ…..ここに紹介するのは残念なことではあるが、最も最近の身近な”出世とシート喪失”の例として、’08〜’09年と同じウィリアムズ・トヨタでコンビを組んだ二世ドライバー同士、ニコ・ロズベルグと中嶋一貴のデータを見比べてみよう。

チーム 予選 決勝
08 ウィリアムズ 中嶋05-13ロズベルグ 中嶋07-11ロズベルグ
09 ウィリアムズ 中嶋03-14ロズベルグ 中嶋02-14ロズベルグ


一貴はロズベルグに遅れること2年でF1に参戦、’08年は3年目のロズベルグとフル参戦初年度の一貴、という布陣となった。入賞回数は共に5回。そういう意味では初年度の一貴は数字上は健闘していると言える。が、実際にはロズベルグが表彰台フィニッシュ2回、一貴は最高位6位であり、目立ち方としては完全にロズベルグの方が上回っていた。そして一貴にとって”勝負の年”となる2年目、ふたりの明暗は完全に分かれた。ロズベルグの入賞11回に対して一貴は入賞ゼロ。結果としてロズベルグはWタイトルを獲ったチームへ移籍し、一貴はトヨタF1撤退の煽りもあってシート喪失となった。残念ながらこうした例は我が日本では決して珍しくない。結果的に世界王者となるジェンソン・バトンと闘った佐藤琢磨も同じである。
ただし、日本人ドライバーとして高木虎之介とペドロ・デ・ラ・ロサ、片山右京とアンドレア・デ・チェザリス、などといった例は少々厳しい眼で見なくてはならない。何故なら相手は本来負けてはいけない実力/経歴の持ち主であり、そこでの敗北は将来的に大きな悪影響となって歴史に残ってしまうのである。ヨーロッパという狩猟民族大陸の競技で求められること。日本人に足りないのはやはりそこなのかも知れない。

そのヨーロッパでも、現在のようなスポーティング・レギュレーションの存在しない’50年代、F1はエース・ドライバーの勝利のためにチーム・メイトは時にはマシン不調のエースのためにマシンを提供し、自らはリタイアするような競技だった。もちろんF1ドライバーに威厳は存在したが、それ以上に参戦する自動車メーカーの威信の方が重要視されていた時代である。’60年代、ジム・クラークやスターリング・モス、ジャッキー・スチュワートらのスター・ドライバーが登場し、F1グランプリに於けるドライバーの在り方が再認識される。そして’70年代になると完全に”速い方がエース”という方程式が生まれ、ドライバー達がそのキャリアの中で自らをアピールし、有利なシートを獲得する時代となった。
ただしこんな例もある。”スーパー・スウェード”ことロニー・ピーターソンロータス在籍時、エースのマリオ・アンドレッティがリタイアしない限り勝利することは許されなかった。総帥コーリン・チャップマンによるこの方法はチームの伝統であり絶対的なルールだった。ロニーはその決まりを守り、どんなに余裕があってもマリオの真後の2位でフィニッシュした。翌年マクラーレンへの移籍が決まり、今度こそ悲願のドライバーズ・チャンピオン獲得を、と言う矢先に彼はそのロータスで命を落としてしまった。

もうひとつ、決定的な出来事が’80年代に起きた。同じ深紅のフェラーリに乗り、チームとの会議による戦略と”紳士協定”という名の口約束/信頼関係、そしてその是非を巡って争い、遂にはふたりとも逝ってしまった壮絶なライバル、ジル・ヴィルヌーヴとディディエ・ピローニである。

カナダのやんちゃ青年だったヴィルヌーヴとフランスのエリート、ピローニは初めから水と油のような性格の持ち主同士だった。’82年、第4戦サンマリノGP、トップにヴィルヌーヴ、2位ピローニ。チームからは”stay”のサイン。が、このサインを無視してピローニがクルージング中のヴィルヌーヴをパス。このピローニの行為がヴィルヌーヴの怒りを買い、ふたりは以降、口も利かない犬猿の仲となってしまった。翌第5戦ベルギーGP、なんとしてもピローニに勝ちたいヴィルヌーヴは予選で無理なアッタクを敢行し、事故死。ピローニは第12戦ドイツGP予選でスロー・ダウン中に他車にハイ・スピードで突っ込まれ、両足切断。その後パワー・ボート・レーサーとして復帰するも’87年のレース中に事故死してしまった。
…..そんな経緯があり、筆者はその後のネルソン・ピケvsナイジェル・マンセルアイルトン・セナvsアラン・プロストなどのチーム内ライバル対決を見るにはけっこうな覚悟が必要だった。同時に、今思えばキミ・ライコネンというドライバーはよっぽど他人に興味がないのだろう、と痛感する。パドックに「アイツは最高のヤツさ」という者も「最低だ」という者もいない。チーム・メイトを非難することも讃えることもない、チームを掌握するどころか、とけ込むことすらない、完全なるロンリー・ガイだったのだろう。そういう意味では近代F1に於いてシューマッハーと最も対極にいたドライバーかも知れない。

シューマッハーと言えば、’90年代にタイトルを争ったデイモン・ヒル(’96年王者)は先日の’10年第6戦モナコGPでレース・スチュワードとなり、セーフティ・カー先導によるファイナル・ラップで「セーフティ・カー・アウト後からフィニッシュ・ラインまではレーシングだと思った」という誤った解釈により前方のアロンソをオーバー・テイクしたシューマッハーに20秒のタイム加算ペナルティを与えた。そしてこの件により、「元ライバルだったヒルがシューマッハーに嫌がらせの裁定を行った」との揶揄が始まる。「こうして元ドライバーがレギュレーションの解釈をするのは難しい問題だね。僕がどんなに適切な判断をしたとしても、その話に尾ひれがつくのは仕方ないことだろうさ」英国紳士のヒルらしい意見である。そう、”ライバル関係”は、多くの場合、マスコミやオーディエンスなどの”外野”によって創られ、そして増長するものである。そして当事者達はそれを充分に解っており、連日繰り返される同じ質問にゲンナリし、マスコミはマスコミでその”平凡な答”の中からどうにかキーワードとなる言葉を探し、ある時には過剰な表現でそれを全面に押し出す。そうして膨れ上がるのが”噂”の正体である。

マスコミの過剰な演出、という意味ではきっとセナvsプロストが筆頭に上げられるのだろうが、近年では’07年のマクラーレン・メルセデス、フェルナンド・アロンソvsルイス・ハミルトンの一件も忘れてはならない、
もちろん2年連続王者のアロンソが電撃移籍した名門で、デビューしたばかりの新人と1ポイント差のシーズンを送ってしまったのはアロンソ的には不甲斐なく、ハミルトン的な側面で見れば脅威の新人登場、という状況である。が、シーズン中盤にナーバスな関係となったふたりはマスコミによって相当にいじくられ、お互いが発言してもいないような内容の話が耳に入って来る。最終的にチーム離脱の決断をしたアロンソだったが、スペインのファンは翌シーズンへ向けてのバルセロナ・テストで人種差別問題までも引き起こした。しかし実際にふたりの仲がそこまで深刻かと言えばそうではなく、アロンソはハミルトンへの対抗心というより、むしろチームへの不信感と闘っていた、というのが真相のようである。昨年の第15戦日本GPのドライバーズ・パレードで、コース上でマシンが止まってしまったアロンソは全ドライバーの中からハミルトン車を選んで同乗、スタンドに手を振りながら仲良く喋っていたのが非常に印象的だった。

ついでにもうひとつ。ロータスのトニー・フェルナンデスとヴァージンのルチャード・ブランソンはF1参戦初年度である今シーズン、ひとつの賭けをしている。ブランソンが言い出し、フェルナンデスが受けて立つこととなったそれは”負けた方がキャビン・アテンダントの格好(つまり女装)をし、相手の所有する飛行機に乗る”というもの。もちろんまだ無得点同士の新チームだが、完走順位を元にコンストラクターズ・ランキングは確定する。現在のところ、僅かながらロータスが新チーム集団では頭ひとつ抜け出しており、それをヴァージンが追う構図である。が、ブランソンはまだ心配はしていない。「この髯はヴァージン発足以来伸ばしてるんだ。それを剃るなんて絶対にゴメンだね!」ちなみにフェルナンデスはかつてヴァージンの社員だった経歴を持つ。「我々がリチャードのチームに負けるなんてことは絶対に有り得ない。だったら死んだ方がマシだよ」「トニーを死なせるわけには行かないよ。だったらまたウチで働いて貰う。ただし、女装でね!(笑)」…..コース上やピットで熾烈な闘いを繰り広げる彼らの、ちょっと楽しくなる約束だ。

さて、話をウェバーに戻そう。今絶好調の波に乗るウェバーは、これから先レッドブルの初タイトル獲得という重圧を闘わなくてはならない。が、ここはメンタル面でまだまだ幼いヴェッテルに比べ、比較的有利な性格の持ち主と言える。同時に、マシン・トラブルがヴェッテル車に集中し、自らのマシンが安定して好調なのも大きな要素である。もちろんこうした”運”に近いファクターは今後の展開にどう影響を及ぼすかは解らないが、F1で安定して速いことはすなわち強さであり、昨年序盤のジェンソン・バトンが成し遂げたのがまさにそれである。したがって、現在ウェバーが’10年王者候補の筆頭にいることは間違いない。それを崩せるのは方法論を知っているバトンか、酸いも甘いも知るアロンソか、生き字引たる皇帝シューマッハーか、それとも隣人ヴェッテルなのか。

「先は長いさ!」’10年第6戦モナコGPにて/マーク・ウェバー

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