『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。
[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。
[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己
復活直前!バドエルって誰だ!?
まず、ハンガロリンクで不慮の事故に遇ったフェリペ・マッサの無事帰還を神に感謝しよう。まだ左目の視力が元通りではないとのことだけど、おでこの傷も目立たなくなり、自宅で元気にインタビューに答えるフェリペの姿を観てとにかく安心した。フェラーリのカー・ナンバー3のシートに早く戻りたくて仕方がないのは解るけど、今はじっと我慢して、完治したらまたあのアグレッシヴな走りでオーディエンスを熱狂させてくれ。君の留守中は、かの皇帝・ミハエル・シューマッハー様が代わりにカー・ナンバー3のマシンを操ってくれるそうだから、何も心配はいらないよ。さ、じゃあ一緒にヴァレンシアのヨーロッパGPをTV観戦して、シューマッハーの復活振りを拝見しようじゃないか…..え?
シューマッハー出ない!?
なんだなんだ、本人も周りもアレ程意気込んでたのに…..首が痛い?、ああ、そう言えばバイクで派手にコケたんだっけ…..。で?、やる気はあるけど今回は見送り…..ナルホド、それじゃ仕方がない。でも、1ヶ月のサマー・バケーションを挟んだとは言えヨーロッパGPはもう眼の前。フェラーリはどうするんだ?、まさかライコネンの1カー・エントリーでもなかろうし、かと言ってシューマッハーの代わりになるようなドライバーで今ヒマな人(爆)なんていないし…..。あ、フェラーリ・エンジン搭載のトロ・ロッソ・チームから昇格か!。でもブルデーはクビになっちゃったし、ブエミはルーキーだし、アルグエルスアリまだ2戦目だし…..じゃあ、限りなく現役に近い浪人ドライバー!。ピケJrじゃ弱いか。なら琢磨もいるぞ!。それからクルサード/クリエン/ブルツ/デ・ラ・ロサあたりはいつでもイケるんじゃないかな。違う?…..困ったな、あとフェラーリで走れるヤツもういないモンな…..。あ、いたいた!。ロッシか!(…..)。
ああ、書いててツラくなって来た(爆)。
8月11日、フェラーリは首の痛みを訴えるシューマッハーを負傷したマッサの代役として起用することを断念し、テスト/リザーブ・ドライバーのルカ・バドエルをヨーロッパGPに出走させることを発表した。フェラーリ社長ルカ・モンテツェモーロは「ミハエルが出られなくて残念。F1にとってこれは歓迎すべきことだったし、我々はそのために如何なる努力も惜しまなかった」とシューマッハー復帰を断念したことを悔やみ、急遽代役となるバドエルに対しては「長年チームのために尽くして来てくれたバドエルに出走の機会を与えることにした」とその理由を語った。…..まるで「ミハエルがダメならもう誰でもいいから、記念に走らせてやれば」という意味合いにも取れてしまう発言である。
…..昨年、最終戦までマクラーレン・メルセデスのルイス・ハミルトンとドライバーズ・タイトルを争い、僅か1ポイント差で敗れたフェラーリのエース、マッサ。そして、そのマッサの負傷により、再びスクーデリアから白羽の矢が立った前人未到の7thチャンピオン、皇帝シューマッハー。そのふたりの更に代役として選ばれた男、ルカ・バドエル…..。ウチのマネージャーが言った。
「誰ソレ?」
…..そりゃ、あまりにも寂しいじゃないか。でも、良く考えたらTV中継だけでF1グランプリを観ていても当然ながら出番はなく、たま〜にフェラーリのピットにいるのを見かけるけど、コメンタリーが「お、テスト・ドライバーのバドエルですね〜」とか言うワケでもなく、特に今年はテスト制限のおかげでシーズン中に彼らテスト/リザーブ・ドライバーがサーキットを走る機会もないので、特に若いファンがバドエルを知らないのも無理はない。何しろ、バドエルが最後にレース・ドライバーとして仕事をしたのはもう10年も前のことなのだ。その間、各チームのドライバー市場リストに載ることも、自らレースが出来るチームへの移籍を模索したこともなかった彼を知るのは確かに難しい。ついでに、フェラーリのもうひとりのテスト・ドライバー、マルク・ジェネの方は’04年までレースに出走していたので、通常ならこっちを使うだろうと言う周囲の予想も完全に覆した結果。と言うか、実は今回のバドエル起用には誰もが驚くフェラーリの”前科”があり、そのためあまりにも意外な結果と受け止められてしまっているのである。
ではまず、肝心のルカ・バドエルをご紹介。マネージャーPも、良く読むように!。
ルカ・バドエルは1971年1月25日、イタリア/トレヴィーゾにて誕生。多くのイタリアの少年同様、サッカー選手とフェラーリのレーサーを夢見る少年時代を過ごし、後者を自らの道と選びカート・レーサーとしてのキャリアをスタート。’85年、14歳の時にイタリア・カート選手権を制覇。’89年にはイタリアF3にステップ・アップし、2年目の翌’90年に初勝利。’92年にはクリプトンから国際F3000選手権へ出場し、ポール・ポジション5回/4勝を挙げて史上最年少王者となった。翌’93年、将来を期待されたイタリアの新星は遂にハイテク全盛期のF1へと足を踏み入れる。が、チームはそのハイテクから最も遅れを取ったイタリアの弱小チーム、スクーデリア・イタリアだった。
F1の歴史に於いて、フェラーリの聖地であるイタリアからはしばしばフェラーリに憧れた小さなチームがチャレンジを行って来た。ミナルディやライフと並び、’88年にF1に参戦したスクーデリア・イタリアもまたそんなフェラーリ・フォロワーによるチームだった。特に彼らのマシンはフェラーリと同じイタリアン・レッドに塗られ、コース上ではまるでフェラーリと見間違うほどのルックスを擁していた。元々ダラーラのシャシーにコスワース・エンジンを搭載して闘っていた彼らは、’90年代に本家フェラーリのワークス・V12エンジンの供給を受け、’93年にはエース・ドライバーに元フェラーリのミケーレ・アルボレートを起用。シャシーもフランスのラルースが使用して戦闘力を発揮したローラへと変更し、イタリア期待の新星であるバドエルをセカンド・ドライバーに据えた。
が、結果は散々であった。予選最高位21位、決勝最高位7位(完走9台中)。エース・アルボレートをして5度の予選落ちを喫し、フェラーリからのエンジン供給の打ち切りも決まり、チームは最終戦を待たずして崩壊。翌年のミナルディとの合併を決め、第14戦ポルトガルGPを最後にグリッドから姿を消してしまった。しかし、この弱小チームに於いてバドエルは時折タイトル争い経験を持つアルボレートを上回る走りを見せ、予選では8勝6敗。第4戦サンマリノGPでは入賞まであと1歩の7位フィニッシュ。チーム体制さえ整えばしっかりと結果を出せる才能を見せつけた。
’94年、合併によって”ミナルディ・スクーデリア・イタリア”となったチームにはミナルデイのエース、ピエルルイジ・マルティニとスクーデリア・イタリアのエース、アルボレートが起用され、バドエルはテスト/リザーブ・ドライバーとなった。翌’95年、アルボレートの引退で再びバドエルの出番が来る。開幕直前に無限エンジンとの契約問題が拗れ、急遽コスワースへと変更するなどドタバタのスタートを切ったミナルディだったが、それなりの信頼性は見せ、キャリア2年目となるバドエルは第6戦カナダで7位、第10戦ハンガリーで8位と健闘。しかしマルティニの離脱でシーズン途中からチーム・メイトとなったペドロ・ラミーが最終戦オーストラリアで6位入賞し、高い完走率と速さを示したものの結果/評価には恵まれなかった。
’96年、バドエルはミナルディから同じイタリアのフォルティ・チームに”レンタル移籍”する。フォルティは元々大富豪のF1ドライバー、ペドロ・ディニスがスポンサーとなって’95年にF1に参戦したチームだが、ミナルディを凌ぐ戦闘力不足により肝心のディニスが離脱し、2年目のシーズンに於いてもエンジン契約料未払いの問題でフォードから最新型の供給を打ち切られ、予選通過もまま成らない状況。最終的に第10戦イギリスGPを最後にチームが撤退。当然1ポイントも取れなかったが、バドエルはチーム・メイトのアンドレア・モンテルミーニに対し予選で全勝、グリッド上で最も信頼性の低いマシンで2度の完走は特筆に値する。しかし、在籍するチームの体制に恵まれず、バドエルは自らのキャリアを一旦見つめ直す必要性を感じていた。’97年、バドエルはフェラーリのテスト・ドライバーとなり、裏方とは言えトップ・チームと仕事をすることで次のチャンスを伺った。そして’99年、フェラーリのテスト・ドライバーとしてマシン開発を行っていたバドエルは、そのフェラーリの支援により再びミナルディからレース・シートに復帰する。
’99年第8戦イギリスGP。
フェラーリのエース、シューマッハーはタイトルを争うミカ・ハッキネン(マクラーレン・メルセデス)とフロント・ローに並んだ。スタートでシューマッハーは出遅れ、チーム・メイトのエディ・アーバインにも先を越されて4位へ後退。しかし2台のマシンがグリッド上に取り残されたため、レースは赤旗中断。ところがシューマッハーはアクセルを緩めずアーバインとのバトルに夢中、チームからも無線による指示はなく、シューマッハーはそのままストウ・コーナーのタイヤ・バリアへと突っ込んだ。
“右足脛骨と腓骨骨折”…..シューマッハーはこのクラッシュで最終的に3ヶ月間の戦線離脱を強いられ、フェラーリはタイトル争いに於いて致命的な事態と直面することになってしまった。
一方、バドエルはこの年デビューのスペイン人ドライバー、マルク・ジェネとコンビを組み、フォンドメタルのバックアップを受けるミナルディから2年振りのフル参戦を果たしていた。同時に、自らのキャリアに於いて、正念場となるシーズンであることは明らかだった。相変わらずチーム・メイトと最後尾を争う状況ではあったが、ポイント獲得には至らなかったものの、攻めの走りで何度かトップ10フィニッシュを果たしていた。そしてシーズン中盤、シューマッハーの事故。フェラーリはセカンド・ドライバーであるアーバインをハッキネンと闘わせることを余儀なくされ、負傷欠場/長期離脱決定のシューマッハーのシートにはアーバインをサポート出来るドライバーが必要となった。そしてバドエル自身、いや世界中が、その役目はフェラーリのテスト/リザーブ・ドライバーとして今季のマシンの開発を担当し、他の誰よりも適応すると思われるバドエルが務めることになると思っていた。
フェラーリは第9戦オーストリアGP以降、シューマッハーの代役としてフィンランド人ドライバーであるミカ・サロの起用を発表した。
この決定には世界中が驚いた。何故なら、現状フェラーリの契約下にあり、且つ現役でコース上で闘っているテスト・ドライバー以上の適任者の存在など、誰も考えもしなかったからだ。が、フェラーリはF1浪人中のサロを抜擢したのである。
サロは前年アロウズとの契約を打ち切り、’99年は負傷欠場したリカルド・ゾンタに代わってBAR・スーパーテックから第3戦サンマリノ/第4戦モナコ/第5戦スペインの3戦に代打エントリーし、それ以後も独占契約を持たないフリーの1年間を過ごしていた。言わば浪人中の身である。ただ、このフェラーリの人選には深い理由があった。サロは、同郷で現在フェラーリが闘う直接のライバル、ハッキネンの”天敵”だったのである。
お互い歳も近く、フィンランド国内のカート時代から常に一緒にステップ・アップし、F3に至るまでサロはハッキネンにとって「コイツさえいなければ」というほど厄介な存在であった。’90年マカオF3では、最終ラップでシューマッハーと接触してハッキネンはリタイア、表彰台に乗ったのはシューマッハー/アーバイン、そしてサロという面々であった。つまりフェラーリは、’99年シーズンをこの3人でハッキネンを攻略する、という作戦に出たのである。その賭けはまんまと成功し、最終的にシューマッハーが復帰してアーバインのタイトル獲得には至らなかったが、サロはシーズン後半ハッキネンを苦しめ、結果フェラーリに16年振りのコンストラクターズ・タイトルを齎したのである。
…..サロの起用に、バドエルは困惑していた。何故自分ではないのか。チーム首脳モンテツェモーロ、ジャン・トッド、そしてロス・ブラウンらは多くを語らなかった。サロが適任だったからなのか、バドエルでは役不足だったのか。いずれにしても、将来的なレース・ドライバーの座を夢見てフェラーリとテスト・ドライバー契約を行ったバドエルの夢はここで打ち砕かれた。フェラーリは、テスト・ドライバーとしてしか自分を評価していない。それを知ったバドエルに出来ることは、例えそれが弱小ミナルディであっても、コース上でしっかりと速さを見せつけることだけだった。
第14戦ヨーロッパGP、ドイツ・ニュルブルクリンク。
シューマッハー不在のタイトル争いはハッキネン、アーバイン、そしてデビッド・クルサード(マクラーレン・メルセデス)、ハインツ・ハラルト・フレンツェン(ジョーダン・無限)の4人によって争われていた。決勝当日、雨が降ったり止んだりの不安定なコンディションの中、タイトル争いの主役達が次々と脱落し、荒れたレース展開となった。
レース終盤51周目、トップは伏兵・スチュワートのジョニー・ハーバート。2番手にプロスト・プジョーのヤルノ・トゥルーリが着け、3位はハーバートのチーム・メイトであるルーベンス・バリチェロ。ウィリアムズ・スーパーテックのラルフ・シューマッハーがピット作業に手間取る間に、混乱のレースを上手くくぐり抜けて来たバドエルは4番手に上がった。5位に落ちたラルフの後方にジャック・ビルヌーヴ(BAR・スーパーテック)、その後にはバドエルのチーム・メイト、ジェネがいた。混乱の中、このまま行けばミナルディのW入賞、バドエルにとっては初のポイント獲得となる。更に上位3台もポディウム常連ではなく、もし何かが起これば表彰台のチャンスでもある。サロは既にリタイア、バドエルはようやく訪れたチャンスを何とか結果に結びつけるべく、ステアリングを握りしめていた。そうすることで、自らの存在をアピールし、フェラーリならずとも他チームの眼を自分に向けさせるのが彼の仕事だった。
…..54周目、バドエルのミナルディM01は、白煙を上げながらゆっくりとコース・サイドにストップした。ギア・ボックス・トラブルだった。
マシンを降りたバドエルはコックピットに突っ伏し、号泣した。駆け寄って来たコース・マーシャルが「next」と声をかける。バドエルの答は「no next」(次はない)…..バドエルは自らの立場を知っていた。明らかに、これが最後のチャンスだった。波乱のレースを堅実に走り、戦闘力の劣るマシンで上位入賞…..その夢は潰えた。それは、バドエルのF1ドライバーとしての未来が潰えたことも意味していた。スタンドからも好走を魅せたバドエルに惜しみない拍手が贈られた。ヘルメットを外した彼の顔は悔し涙でグシャグシャだった。
そしてバドエルは決断した。子供の頃からの憧れであるフェラーリに、例えテスト・ドライバーとしてでも在籍出来るのは幸せなことだ。ここでキャリアを全うしよう。それが自分の生きる道なのだ…..。
…..ああ、涙出て来た(悲)。
そういうワケで、バドエルは’99年日本GP以降、1度もレースにエントリーしていないので10年振りのF1復帰ということになる。F1ドライバーとしてのルカ・バドエルの戦績は出走56戦(決勝49戦)入賞ゼロ。F1史上、最多出走無得点記録保持者でもある。しかし、その全てがイタリアの弱小チームからだったことを考慮すれば仕方ないような気もするが、この’99年ヨーロッパGPでチーム・メイトのジェネは結局6位入賞、’96年もラミーが6位1回を記録しているので、シーズンを通して考えればバドエルの方が印象的な速さを持っていても、何故か結果には結びつかない。逆にフェラーリはそんなバドエルの堅実な完走力を買ったと言え、F1はバドエルに戦闘力を期待しなかった/出来なかったということになる。
こうしてバドエルはフェラーリのテスト・ドライバーこそ天職と割り切り、以降現在までその座を守り、その間に彼の開発力はチームに大きく貢献、シューマッハーの5度/ライコネンの1度のドライバーズ・タイトル獲得と、実にこの10年の間に8回のコンストラクターズ選手権制覇という偉業に貢献して来ている、というワケだ。
事実、バドエルのフェラーリに対する貢献度、及びスタッフからの信頼は非常に大きい。例えばフェラーリの新車発表会でニュー・マシンのヴェールを剥がす時、フェラーリ主催のイベントでドライバーが一堂に会す時、彼はシューマッハーやマッサ、ライコネンらと共に同じ深紅のレーシング・スーツに身を包み、フェラーリの顔として人前に立って来た。ティフォッシからの人気も高く、’06年のトリノ・オリンピック開会式ではフェラーリF2005をスピン・ターンさせるパフォーマンスを披露。バドエルなくしてフェラーリなし、とは言い過ぎかも知れないが、それほどまでにフェラーリになくてはならない人物である。何より、その控えめな性格(と言うよりそう思われてしまってる感が強いが)で、誰からも愛される存在なのである。
さて、’99年のシューマッハー負傷時に現役でありながら呼ばれなかったバドエルに、何故今になって白羽の矢が立ったのか。
当時、フェラーリはトッド指揮下の元、ブラウン/ロリー・バーン/シューマッハーというベネトン2連覇(’94、’95年)組をそっくりそのまま引き抜き、長き低迷時代に別れを告げるのに必死だった。前年の’98年は完全にマクラーレン・メルセデスにやられ、新体制4年目の’99年にようやく戦闘力が整って来た。高額のギャラを支払っているシューマッハーにタイトルを獲らせるため、フェラーリは惜しみない投資を行い、それがようやく形に表れ始めたところだった。第7戦フランスGPを終えてハッキネン40ポイント/シューマッハー32ポイント。コンストラクターズ・ポイントはクルサードが前半振るわず、マクラーレン52ポイント、対するフェラーリはアーバインの開幕戦初優勝で58ポイントとリード。最悪でもコンストラクターズ・タイトルはイケる。15年間無冠のフェラーリには是が非でも欲しいタイトルだった。
そして第9戦イギリスGPのシューマッハーの事故で、まずひとつを諦めなくてはならない可能性が浮上。全世界のファン、元よりフェラーリ本体にとっても、例えアーバインがドライバーズ・タイトルを獲得してもどうにも複雑な想いだった筈である。何故なら、マラネロの全てはシューマッハーを中心に回り、チームもシューマッハーの王者獲得のために動いて来たからである。16年振りのWタイトル獲得と”プライド”を天秤にかけた時、その答は決まっていた。よって、まずここでフェラーリの目標はコンストラクターズ・タイトル奪取に絞り込まれた筈である。
次に、シューマッハーの復帰時期である。右足の脛骨と腓骨を骨折したレーサーが現場復帰するのに一体どれほどの期間を擁するのか、事故直後には誰にも解らなかった。実際シューマッハーは驚異的な回復力を見せ、6戦を欠場して最後の2戦には出場するのだが、シーズンを棒に振ることになるかどうかは誰にも解らなかった。となれば、その場凌ぎの人選ではなく、確実にポイントを穫れる上手いドライバーが必要となる。とは言え当然ながらそんなドライバーは皆トップ・チームに在籍中、つまりライバルであり、残された選択肢はまだ引退時期ではない/でも実戦で即戦力となるドライバー、ということになる。
サロはこの年3戦でBARから代打出場し、ポイント獲得こそならなかったもののチーム・メイトで元王者であるビルヌーヴに1歩も引けを取らない走りを見せた。僅か3戦前までこうして走っていたサロが適任だとフェラーリが考えたのは納得の行くところである。皮肉なことにこの活躍によりサロはプール・リーグの目玉となり、翌’00年のザウバーのシートを獲得した。
ここまではサロが選ばれた理由。では反対に、フェラーリがバドエルを選ばなかった理由を考えてみよう。
まず、伝統的にフェラーリはイタリア人ドライバーを避ける傾向にある。これは元々故・エンツォ・フェラーリの「跳ね馬にイタリア人ドライバーが乗れば、ファンやイタリアのマスコミの関心やプレッシャーに押しつぶされてしまう」という方針による。
最後にフェラーリのレギュラーとなったイタリア人は’92年のイヴァン・カペリ。しかしカペリは入賞僅か2回で第14戦ポルトガルを最後にチームから解雇され、終盤2戦は同じイタリア人であるニコラ・ラリーニにそのシートを譲った。ラリーニは’94年にも負傷したジャン・アレジに代わって2戦に出場し、第3戦サンマリノGPでは2位表彰台に上がっている。
フェラーリで最後にタイトルを争ったイタリア人は’85年のアルボレート。彼はエンツォ自身が生前最後に指名したイタリア人ドライバーだが、最終的にタイトル獲得は成らなかった。
全てのイタリア人の憧れであるフェラーリだが、決してイタリア人ドライバーとの良い歴史を作って来たとは言い難く、事実フェラーリを成功に導いた立役者であるシューマッハーはドイツ人、アラン・プロストやアレジはフランス人、ゲルハルト・ベルガーはオーストリア人。伝説のフェラーリ・ドライバー、ジル・ビルヌーヴはカナダ人である。が、この無情なナショナリズムこそ、近代フェラーリの強さとも言える。悪い言い方をすればイタリア人をあてにせず、フェラーリのためになるのであれば何処の国の人物でもかまわない。従って、ジャンカルロ・フィジケラやヤルノ・トゥルーリらイタリア人ドライバーがいくら活躍を見せても、フェラーリは目もくれないのである。
そして今回選ばれたバドエルは38歳。グリッド上で彼より歳上なのはバリチェロ(ブラウンGP・メルセデス)しかいない。しかも10年間のブランクを経ての人選である。もうひとりのテスト・ドライバーであるジェネも実戦から遠のいて久しく、年齢も35歳と決して若くはない。フェラーリにいるリザーブ・ドライバーはこのふたりだけである。ただし、彼らのフェラーリ・キャリアは長い。
つまり、フェラーリはテスト/リザーブ・ドライバーをレースに出す気は初めからないのだ。逆の言い方をすれば、多くのチームが行っているような”新人育成プログラム”が存在しない。よって、次を狙う若手を育てるという概念がないチームなのである。
今年、レッド・ブルはシーズン中にも関わらずトロ・ロッソからセバスチャン・ブルデーを解雇し、ハイメ・アルグエルスアリをデビューさせた。アルグエルスアリはレッド・ブルの育成ドライバーである。ルノーも同様にネルソン・ピケJrを放出し、バドエルと同じヨーロッパGPで新人のローマン・グロージャンをデビューさせる。最も解りやすい例として、昨年2年目ながら初の王者に輝いたハミルトンはロン・デニスの秘蔵っ子であり、マクラーレン・グループの息の長いプログラムを経てF1デビューしている。
では、フェラーリのテスト・ドライバーふたりが何故長期に渡ってそのポジションを務めているのか。何故新人開発の場に使わないのか。
その答は、まずフェラーリには経験値の少ない新人ドライバーが座れるシートなど存在しないこと。フェラーリは”育てる”場所ではない。確かな実力と経験値を持ち、即座に戦闘力を発揮してチームに貢献出来る人材しか必要としないのだ。次に、絶対的な秘密保持主義のため。前回紹介したニック・ハイドフェルドはメルセデスの育成ドライバーとしてF1デビューしながらもメルセデスに見切られ、同じドイツのライバルであるBMWのワークス・ドライバーとなった。BMWのスタッフは、場合によってはメルセデスの企業秘密をハイドフェルドから聞き出すことが出来るかも知れない。少なくとも、メルセデスの長期的なモーター・レーシング・プログラムを知ることは可能である。場合によっては致命的なアイデアの流出も考えられる。
特に’90年代後半から’00年代にかけ、フェラーリは複数所有する自社サーキットで豊富な独自テストを行い、自由にマシン開発を行っていた。部外者及び部外者予備軍と見なされる者は立ち入ることが出来ず、FIA主催の合同テストにはほとんど参加しなかった。つまり、フェラーリのテスト・ドライバーには絶対的な秘密保持が課せられる、ということである。事実、かのアルボレートでさえも、フェラーリ離脱後に他のトップ・チームへの移籍は叶わなかった。
“忠誠を誓う”。
バドエルはフェラーリにそのキャリアを捧げ、生涯その能力をフェラーリのために使うことを約束したのである。つまりもしもバドエルが他チームへの移籍を模索した場合、そのキャリアには暗雲が立ちこめることとなっただろう。飼い殺しという表現は厳し過ぎるかも知れないが、逆にそうすることでスクーデリアはバドエルに対し信頼と尊敬をもって接することが出来るのである。
バドエル本人は「マッサが帰って来るまで僕が頑張る」と言うが、シューマッハー復帰延期を受けてフェラーリが行った発表は「ヴァレンシアはバドエル」である。つまり、もちろんマッサの回復状況やシューマッハーの首の状態にもよるが、この先バドエルが数戦を闘うという発表ではない。バドエル起用はあくまでも1戦のみ、シューマッハー断念によるフェラーリ側の時間切れ回避策でしかない。つまりこれは、フェラーリに忠誠を誓い、ここまでフェラーリの成功に縁の下で貢献して来たバドエルに対する”ご褒美”と受け止めざるを得ない。チームは好調ライコネンに全力を注ぎ、バドエルはあわよくばポイント獲得を、という妥協策と考えるしかないのである。この先マッサの復帰までバドエルがレースに出場出来るのかどうかはヴァレンシアの結果にかかっているのである。
ヨーロッパGPを目前に控え、フェラーリは”プロモーション用の撮影”と称して2日間に渡りフィオラノ・サーキットでバドエルにフェラーリF60をドライブさせた。当然これはバドエルのためのテストである。しかし、現実的にレース現場から離れて10年になる38歳の無得点ドライバーが、復活の兆しを見せる名門・フェラーリのレース・ドライバーが務まるのかどうか。これだけは見てのお楽しみとなる。
温厚な印象そのままに、チャンスを与えてくれたフェラーリのために堅実に走るのか、それともレーサーとしての本能で最高の武器を使用して勝負に出て来るのか。この10年間、バドエルはF1で誰かをオーバー・テイクしたこともされたこともない。その瞬間、彼がどうするのか。それだけでもヨーロッパGPが待ち遠しいじゃないか。
「フェラーリのファンのために、全力を尽くすよ!」’09年8月/ルカ・バドエル