『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。
[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。
[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己
F1ファラオ伝説
…..ま、先に言っておくと、”ファラオ”ってのはエジプトの王である。で、誰のことかというと、ルイス・ハミルトン(マクラーレン・メルセデス)のことである。誰がそんなふうに呼んでいるのかというと、筆者のオレである。理由は、”若き王”であることと、その風貌がかのツタンカーメン王(のミイラ/爆)に似ているから、である。F1のグリッドにゃ皇帝がいるんだから、ファラオがいたって良いでしょ。コレを広めようって気はナイけど、オレにとってハミルトンってのは若くて憂いがあって、そして卓越した本能と技術を持つ非常に魅力的な”王”なのである。
で、そのハミルトンがなかなかのピンチを迎えている。何しろ、今季はハミルトンを含めた4人の世界チャンピオンがトップ4で争うシーズン。ここまで4戦を終えてフェルナンド・アロンソ(フェラーリ/’05、’06年王者)と、昨年タイトルを争った本命セバスチャン・ヴェッテル(レッド・ブル)が1勝、残り2戦を昨年の覇者で今季からチーム・メイトとなったジェンソン・バトンに獲られてるんだからたまったモンじゃない。何しろバトンは昨年中盤の低迷で評価を下げ、序盤の貯金でどうにかタイトルを拾って来たかのように言われ、ついでに皇帝ミハエル・シューマッハーの復帰で旧・ブラウンGPであるメルセデスGPから弾き出されたかのような印象でマクラーレンへと移籍し、多くのメディアから「バトンがハミルトンに勝てる筈がない」と散々に言われていた。それが、蓋を空けてみれば昨年序盤同様、得意の見事なタイヤ・マネージメントで荒れたレースを勝ち抜き、堂々のポイント・リーダーとなっているのである。「さすが現役王者」…..しかし、心中穏やかでないのは、その前年の王者なのである。ハミルトンはこの状況を「僕たちは互いに学び合っているんだ」と言う。「ジェンソンは本当に素晴らしいドライビングをした。僕も激しくプッシュした。でもこの結果だから、今度は僕が学ばないといけない」若きハミルトンの、こう言ったニュアンスが許されるのも今の内だけかも知れない。
カー・ナンバー2。王者としてトップ・チーム/マクラーレンにいながら、あとから入って来た現役王者に横取りされたカー・ナンバー1。…..ああ、やっぱりセナ/プロ対決を想い出さずにはいられないなあ。ただ、バトンもハミルトンもふたりとも極端にナイス・ガイで、非常に英国紳士同士。あのブラジル人とフランス人のギスギスした感じは確かにないんだけど、いったいいつまでこのバランスが保たれるのかは誰にも解らない。いや、実はロン・デニスとマーティン・ウィトマーシュには解っているのかも知れないが、あくまでも”ジョイントNo.1″を貫くこの伝統のチームに於いて、ハミルトンの位置付けはこれまでのマクラーレン・ドライバーとはちょっと違っているのである。
今回はこの”悩めるファラオ”こと(爆)ルイス・ハミルトンのこれまでを辿ってみよう。
ルイス・カール・ハミルトンMBEは1985年1月7日、イギリス・ハートフォードシャー州にてアフリカ系イギリス人の父・アンソニーと母カーメンの間に誕生。両親はハミルトンが2歳の時に離婚し、その後しばらくは母方、10歳以降は父と、後妻であるリンダ・ニコラスと暮らす。「アイルトン・セナが僕のヒーローだったんだ」ハミルトンの幼少期は完全に”セナ時代”である。マクラーレン・ホンダと共に3度の世界タイトルを獲得し、F1イコールセナ、とも言えるジェネレーションである。そのセナのいくつもの歴史的瞬間を目の当たりにして来たハミルトンは’93年、自身8歳の時に地元のライ・ハウス・カート・サーキットでレーシング・カートのキャリアをスタートする。当然彼の憧れはセナであり、ヘルメットのカラーリングもセナと同じ黄色にするほどの大ファンであった。
…..翌’94年、そのセナが帰らぬ人となる。多感な年齢のハミルトンは大きなショックを受けた。「1日中泣き叫んでいたよ。あのセナが死ぬなんて、本当に信じられなかったんだ」しかし、その頃ハミルトンは既にレーサーとしての才能を開花させており、10歳になった’95年にはイギリス・カート・チャンピオンとなっていた。キャリア僅か2年でイギリスの若手レーシング・ドライバーとして注目を浴びる存在となっていたハミルトンに、ここである運命的な出逢いが待っていた。
’95年オート・スポーツ・アワード授賞式。各カテゴリーの王者や著名人の集まるこのビッグ・イベントにカート王者として出席していた少年・ハミルトンは、会場でとある人物の前に立った。その人物とは、セナを愛し、セナと共に栄誉を分かち合ったマクラーレンの総帥、ロン・デニスであった。ハミルトンは臆することなく言った。「あなたの車に乗って、ワールド・チャンピオンになりたいんです」デニスはこの見ず知らずのカート少年に微笑み、「それは楽しみだ。9年後にまたおいで」とサインをした。
…..おそらく、この手の話はデニスの周りでは日常茶飯事なのだろう。実際、デニスは取り立ててハミルトンに注目していたわけでもなかった。が、「9年後」と言ったデニスは自らその約束を破らなくてはならなくなる。その後のハミルトンの成長/活躍を見たデニスは僅か3年後の’98年、ハミルトンをマクラーレンのヤング・ドライバーズ・サポート・プログラムのドライバーとして迎え入れる決心をした。若干13歳のハミルトンは、マクラーレンのサポートを受けながらフォーミュラ・クラスへとステップ・アップして行くことになったのである。
こうして”ロン・デニスの秘蔵っ子”となったハミルトンは快進撃を繰り広げる。’00年ヨーロッパ・カート王者、’01年はイギリス・フォーミュラ・ルノーのウインター・シリーズに参戦しランキング5位、翌’02年は同選手権のレギュラー・シーズンで3勝/ランキング3位。’03年は10勝して堂々のタイトル獲得。’04年にマノーからF3ユーロ・シリーズに参戦し、1勝。翌’05年にはASMからエントリーし、20戦15勝という圧倒的な強さでタイトル獲得。マールボロ・マスターズも制し、名実共にF3世界1のドライバーとなった。「’04年にはシルバーストンで初めてマクラーレンのF1マシンをテストしたんだ。だから、本当はすぐにだってF1にステップ・アップ出来るよ!(笑)」ハミルトンは’06年、名門ARTからF1の直下カテゴリーであるGP2へ参戦。ヨーロッパではF1のグランプリ・ウィークと重なり、前座レースとして多くのF1関係者/ファンの前で自己をアピール出来る最高の機会であり、同時にそこから先はF1しかないカテゴリーでもある。デニスは、ここで世界にハミルトンをお披露目すると決めていたのである。そしてハミルトンはその期待に充分に応え、なんと参戦初年度ながら5勝を挙げ、ネルソン・ピケJrとのタイトル争いを制して見事GP2王者となったのである。
…..こうして、満を持してハミルトンのF1デビューへの準備は整った。マクラーレンは’07年、キミ・ライコネンがフェラーリへ移籍し、ファン・パブロ・モントーヤがNASCARに転向したために、ドライバー布陣を新しくしなければならなかった。そのひとりはハミルトン、そしてもうひとりは’05、’06年とルノーで選手権連覇を成し遂げたスペインの若き英雄、フェルナンド・アロンソである。
ハミルトンのF1デビューは、事実センセーショナルであった。デビュー戦である’07年開幕戦オーストラリアGPで、既に3位表彰台を獲得。なんとそこから第2戦マレーシア、第3戦バーレーン、第4戦スペイン、そして第5戦モナコと連続2位。続く第6戦カナダGPで初ポール・ポジションを獲得、そのまま初優勝。「まるで違う惑星にでもいるかのような気分だよ!」更に続く第7戦アメリカGPを連勝し、第8戦フランス、第9戦イギリスを3位で終えたハミルトンは、なんとここまでF1デビューから9戦連続表彰台(2勝含む)という、新人らしからぬ速さと安定感を見せたのである。翌第10戦ヨーロッパGPでは予選のクラッシュが響いて入賞を逃すが、実に第16戦中国GP以外の全てのレースで完走を果たしているのである。
「僕とフェルナンドは全く同じマシンを与えられている。だったら彼に負ける理由なんてないだろう?」事実、世間はハミルトンの実力に驚いていた。2年連続王者のアロンソ相手に1歩も退かず、ポイント・リーダーとなり、最終戦までアロンソ、フェラーリのライコネンとタイトルを争ってみせた。しかし、特にアロンソとのチーム内確執は精神的にも技術的にも大きな問題となった。が、これは比較的アロンソ寄りの事情、と言えなくもない。何故なら、王者のプライドに懸けてデビュー1年目の新人に負けるわけに行かないアロンソの言動は特にマスコミでもクローズ・アップされ、同一チーム内でタイトルを争うドライバー同士の”良くある心理戦”へと影響を及ぼす。
「同じチームにふたりトップ・ドライバーがいる以上、常にこうした緊張は避けられないんだ。ハンガリーでのレースから、フェルナンドは僕に話しかけて来なくなった。初めに僕がピットの指示に従わなかったのは事実だけど、何故そんなことになったのか解らないよ。でも、僕たちは再び団結しなくてはならないから、すぐに仲直り出来るさ」その第11戦ハンガリーGPでは予選Q3でアロンソがハミルトンの最終アタックをピットでタイム・コントロールして妨害する、という事態となり、結局アロンソが5グリッド・ダウンのペナルティを課せられた。こうした経緯を含み、最終的にはアロンソが予定を早めて1年でマクラーレンを離脱する、という事態となるのだが、見方を変えれば新人・ハミルトンが王者を追い出すほどのカリスマ性を持っていた、とも言える。何故なら最終的にハミルトンは4勝/アロンソと同ポイントとなる109点を獲得。ただし、最終戦ブラジルGPでの劇的な逆転劇でタイトルは1点差でライコネンが奪って行った。つまりシーズン終盤、マクラーレンのふたりはチーム内不和で自滅した、とも言える。しかし、この経験が翌年に向けたハミルトンのキャリアには極めて重要なものとなって行く。F1史上初のルーキー・チャンピオン…..その夢は叶わなかったが、僅か1年でハミルトンは完全にF1の中にその居場所を確保してみせた。
…..野次はスポーツ観戦に付きものである。が、最もやってはいけないこと、それは同じ人間のクセにライバルに対して人種差別を行うことである。
スペインのファンから、母国の英雄アロンソをマクラーレンから弾き出したかのような印象を持たれたハミルトンはバルセロナでのテスト走行中、スタンドに陣取った一部のアロンソ・ファンから人種差別行動を受けた。これにはFIAのみならずスペインの大臣も苦言を呈す事態となったが、ハミルトン本人は「少し悲しくなったのは事実だけど、僕はこの国が大好きだからね。バルセロナのサーキットも3本の指に入る。フェルナンドとの関係は問題ないよ。もう終わったことだしね」…..情熱の国では日常的なことも、決して許されることではない。ハミルトンのクールな対応に、スペインのファンは静かになった。
’08年、アロンソの抜けたマクラーレンはハミルトンのチーム・メイトとしてルノーから若手のヘイキ・コヴァライネンを獲得。アロンソがルノーへ戻ったことから、丁度交換トレードのような形となった。そして、この”チーム・メイトとの問題”から解放されたハミルトンは圧倒的フェラーリ有利、というシーズン前の評判を覆し、不調の王者・ライコネンに変わってフェラーリを背負うフェリペ・マッサと熾烈なタイトル争いを繰り広げることになる。
開幕戦オーストラリアGP。このGPを制する者がシーズンを制する。そんなジンクスに挑むハミルトンは予選ブッチ切りのポール・ポジション。決勝でも不調に喘ぐフェラーリ勢を尻目に快走し、優勝。しかし第2戦マレーシア/第4戦スペインをライコネンが、第3戦バーレーン/第5戦トルコをマッサが勝ち、フェラーリ勢が一気に逆襲に出る。第6戦雨のモナコでハミルトンが起死回生の2勝目。’08年シーズンは完全にハミルトンVSフェラーリのふたり、という構図と思われた。しかし、この後ロベルト・クビサ(BMWザウバー/第7戦カナダ)、コヴァライネン(マクラーレン/第11戦ハンガリー)、ヴェッテル(トロ・ロッソ/第14戦イタリア)、そしてアロンソ(ルノー/第15戦シンガポール、第16戦日本)らが勝者として乱立。そこにはタイトル争いのプレッシャーの中でもがくハミルトン、そして’08年のライバルとして残ったマッサの精神的ドタバタ劇が大きく影響していた。両者接触、ピット戦略ミス、そして多くのリタイア。勝てた筈のレースを、両者共につまらない形で落としてしまう。
天王山となったのはシーズン終盤、第17戦中国GP。ハミルトン84点/マッサ78点で6点差。予選はハミルトン、ライコネン、マッサ、アロンソの順。「マッサのタイトル獲得の役に立つんなら喜んで協力するよ」2連勝で絶好調のかつてのチーム・メイト、アロンソはインタビューでこう語った。真後ろから3人のライバルが追い上げる四面楚歌な状況で、ハミルトンは完璧なラップを重ね、勝利した。マッサはライコネンに2位を譲って貰う形となり、最終戦を前にハミルトンとマッサの得点差は9点。つまり最終戦ブラジルで、マッサは勝ち、ハミルトンは6位以下でフィニッシュしなければマッサの逆転王座はない。
…..このレースは以前このスクイチでも紹介したが、レース終盤の雨が演出したあまりにもドラマティックな結末でハミルトンは奇跡の5位フィニッシュ、僅か1点差で初の王座に着いた。F1史上最年少世界王者の誕生である。「今季は多くの失敗をした。そして、その分学び、強くなれた。僕はまだ23歳だけど、何だかもう何年もここにいるような気分だよ」若き王者の誕生。それはデニスが若き少年に賭けた夢が叶った瞬間でもあった。「彼がいなければ今の僕はない」彼らの初対面から13年後のことであった。
翌’09年、若き王者を擁するマクラーレンはKERS使用を含めた新レギュレーションによる開発競争に敗れ、スタートから低迷。しかも開幕戦オーストラリアGPでハミルトンはセーフティ・カー導入中にトヨタのヤルノ・トゥルーリを先に行かせた件で「意図的ではない」と発言したが、実際にはチームからの指示であることが発覚し、惨めな失格処分でのスタートとなった。またタイトル争いはブラウンGPとレッド・ブルの間でハイ・レヴェルな技術/信頼性競争となり、ハミルトンは第9戦ドイツGPまでに僅か9点。マクラーレンは完全に選手権から脱落した。それは通常ならチームがシーズン中のアップ・デートを諦め、翌年のニュー・マシン開発に力を注ぐことを意味する。しかし、マクラーレンは違った。もちろん翌年のマシン開発とは別にシーズン前半の遅れを取り戻すべくMP4/24を懸命にアップ・デート、ほぼBスペックとも言えるマシンを準備した。フェラーリのマッサの大クラッシュで幕を明けた第10戦ハンガリーGPで、遂にハミルトン自身10勝目となる’09年シーズン初勝利。これはKERS搭載車による歴史的な初優勝でもある。「ここまで本当に長く、苦しい道程だった。でも諦めずにマシンを開発してくれたチームを本当に誇りに思う」蘇ったマクラーレン/ハミルトンは第14戦シンガポールGPをポール・トゥ・ウィンで制し、最終的に選手権5位、シーズン後半戦だけで実に40ポイントを獲得してみせたハミルトンはやはり別格だった。
…..そして迎えた’10年シーズン。バトンはハミルトンに勝てる筈がなかった。チームとの信頼関係、若さ、そして旬。が、現実には4戦を終わってバトン2勝/ハミルトン0勝である。前述のように互いに紳士同士であることが幸いし、このままふたりの間に確執は起らない、と考える人も多いようである。が、忘れてはいけないのは彼らはレーシング・ドライバーであり、そしてワールド・チャンピオンである、ということである。少なくともマクラーレンというチームに於いて表面上だけでもジョイントNo.1制度が上手く機能していた試しはない。その最も象徴的な例がセナ/プロであり、最も最近の例がハミルトンとアロンソであった。
現状のライン・アップを考えた時、レース巧者のバトンはプロスト的であり、速さのハミルトンはセナ的と言える。が、今回違っているのは元からチームにいるのが若いハミルトンで、他チームで獲ったタイトルを持ってやって来たのがベテランのバトンだという部分。ハミルトンはマクラーレンの秘蔵っ子であり、バトンはあくまでも途中加入、しかもマクラーレンはフェラーリを離脱するライコネンとも交渉していた経緯があり、もしかしたらここまでの活躍は誰も予想していなかった、いやバトン自身すら考えていなかった事態なのかも知れないのである。尻に火が着いた形のファラオが、この先どうやって巻き返してくるのか。
「僕はジェンソンよりコンマ4秒速かった」開幕戦バーレーンGPを3位で終えたハミルトンは、7位フィニッシュのチーム・メイトとの差をこう評した。「ジェンソンは速く、強く、そして偉大なドライバーだ。差は重要ではないかも知れないが、チーム・メイトに勝つことは重要なんだ」GP2時代からのライバルであり親友でもあるニコ・ロズベルグを引き合いに出し、若さが重要なファクターであることを強調する。「今何歳であれ、ミハエル・シューマッハーが7度の世界王者であることを忘れちゃいけない。そして彼はニコに敵わなかった。それが現実さ」その若さが時に武器にならないことを、ハミルトンはこの4戦で学んでいるのだろう…..。
マクラーレンCEOのウィトマーシュは、バトンの移籍を”勇気ある決断”と評価する。「現在のライン・アップは最強だ。F1でふたりしかいない英国人ドライバー、それもふたりともチャンピオン経験者。正直、バトンには不安があったと思う。それでも彼は決断し、そして勝ってみせた。これは素晴らしいことだ」ロン・デニスはセナ/プロとの違いを強調する。「セナとプロストは国も文化も違っていた。しかし彼らは違う。なかなか良いコンビだと思うよ」この言葉が楽観かそれともフォローか、はヨーロッパ・ラウンドが始まればいずれ解るだろう。ともあれ、悩める若きファラオがこれから現役王者バトンにどう挑むのかが楽しみである。
「これからも1-2フィニッシュが出来ると良いね!」@’10年第4戦中国GP/ルイス・ハミルトン