F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集

F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集 F1 STINGER 【スティンガー】 > スクーデリア・一方通行 加瀬竜哉 >  > 2010年3月9日  F1遺伝子

スクーデリア・一方通行/加瀬竜哉

謹んでご報告申し上げます。
『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。

[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。

[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己

F1遺伝子

いよいよ目前に迫った’10年シーズン開幕。なんでも、F1世界選手権60周年記念イベント、としてバーレーンに”存命中の歴代チャンピオン・ドライバー全員(20名)”をゲストに招こう、という計画があるらしい。ただし、F1浪人となりWRCへ転向したばかりのキミ・ライコネン(’07年王者)と、昨年息子の”クラッシュ・ゲート事件“で少々人前に出づらいネルソン・ピケ(’81、’83、’87年王者)のふたりからは出欠を知らせる通知が返って来ていないらしく、残念ながら全てのチャンピオンが揃うことは難しそうではある。が、この試みはとても素晴らしいことだ。

その60年に及ぶF1史の中で、”ベスト・ドライバー”を選出するのはもちろん極めて難しいこと。何故ならそこには年月というリアル・タイム・ユーザーの幅が存在し、またレギュレーションを含めた”在り方”そのものにも大きな変化があるからだ。が、マシンを操るのが容易な時代だとか、逆にドライバーがマシンよりも重要だとかいう論議を年代別に始めるのは最も愚かなことであり、ドライバーは成績/印象/キャラクターという、あくまでも”個人”としての評価によってベストだったかそうでないかを問われる。ならば、全ての時代に於いてベスト・ドライバーに必要な要素は同じといって良い。逆の言い方をすれば、例えば「ファン・マヌエル・ファンジオの時代はライコネンの時のようなハイテク・マシンじゃなかったからファンジオの方が上」なんて言うのが最もナンセンス。同時に、ファンジオのリアル・タイム・ユーザーが’07年のF1を正当評価出来ないのはやむを得ないが、眼の前でライコネンのオーバー・テイクを観た人間が、知らないファンジオよりもライコネンの方が上だと言うのもまたやむを得ない。したがって、この60年間のどの世代にとっても、ベスト・ドライバーは本人にとって印象的なリアル・タイム・ドライバー、となる。そしてそこには既に親子2代以上の年月が存在する、ということでもある。

この10年間だけで、デイモン・ヒル、ジャック・ヴィルヌーヴ、マーカス・ヴィンケルホック、ニコ・ロズベルグネルソン・ピケJr中嶋一貴と6名の”二世ドライバー”がF1を走った。ちょっと年季の入ったファンの方なら、デビッド・ブラバム、クリスチャン・フィッティパルディやマイケル・アンドレッティらも覚えているだろう。筆者は残念ながらジャック・ブラバムとデイモンの父、グラハムの時代は知らない(グラハム・ヒルは’75年11月没。ブラバムはホンダのイベントでなら!)が、他は幸いにも父/息子共にその走りをリアル・タイムで知っている。ヴィンケルホックとフィッティパルディ家は”叔父”にあたる人物もF1ドライバーであり、更に皆さんが良く知っている名字を持つマティアス・ラウダ、ニコラス・プロスト、グレッグ・マンセルらもF1昇格を目指して闘っている二世ドライバーである。う〜ん、筆者のF1観戦歴も30年を超え、その間に相当な世代交代が起きた、ということだ。

…..ブルーノ・セナ。伝説のドライバー、故アイルトン・セナの姉、ビビアーニを母に持つ彼が、遂にF1のグリッドにその姿を現す。F1がブルーノの叔父であるアイルトンを失って16年、もちろん既にリアル・タイムでアイルトン・セナを知らない世代が相当数いる。
叔父であるアイルトン・セナは’84年にF1デビューし、’94年第3戦サンマリノGPで事故死、享年34歳。その間’88、’90、’91年の3度世界王者となり、161戦41勝、ポール・ポジション獲得65回を記録。伝統のモナコGP6勝は’06年引退時のミハエル・シューマッハーでも成し得なかった記録である。しかも現役時代にはプロスト/マンセル/ピケらと”四天王時代”を築き、多くの手強いライバル達を倒し、不世出の天才ドライバーと言われたブラジル人である。また、誰もが’94年イモラでの悲劇がなかったら更に勝利数/王座獲得数を伸ばし、シューマッハー時代はもっと遅かった筈、というほどの伝説の人物。既に現役F1ドライバーでセナを知る(F1で闘った、の意)のは復帰するシューマッハーと、最多出場記録を持つルーベンス・バリチェロだけであり、ルイス・ハミルトンやセバスチャン・ヴェッテルらは完全に「セナを観て育った」世代である。つまり、現在のF1に於いてセナは既にグラハム・ヒルやジル・ヴィルヌーヴ同様、伝説の存在なのである。
そのセナの遺伝子を持つレーサーが、遂にF1へとやって来る。が、その道程は決してその”ブランド名”のように光り輝いていたわけではなく、多くの困難に打ち勝ち、ようやく手にした座だと言える。

ブルーノ・セナ・ラリは1983年10月15日、ブラジル・サンパウロにて実業家であるフラヴイオ・ラリと、伝説のF1ドライバー、アイルトン・セナの姉ヴィヴィアーニとの間に生まれる。ブルーノが生まれた頃、叔父アイルトンはイギリスF3王者となり、トールマンとの契約を済ませ、まさに翌年F1デビュー、という時だった。そんな環境で育ったブルーノは幼い頃からモーター・スポーツに大きな感心を寄せていたが、特別に早い時期からカートにのめり込むようなことはなかった。叔父アイルトンが3度の世界王者となった時、9歳のブルーノは叔父と共にカート・コースでレースをして楽しんでいた。が、そこでアイルトンはブルーノの才能に気づく。何故ならブルーノはアイルトンと変わらぬラップ・タイムで走行していたからである。しかしブルーノは母ヴィヴィアーニの言いつけを守り、学業に専念した。これはアイルトンが父・ミルトンから受けた教育と同じ理念であり、ブルーノはビジネスのための学位を取るべく学業に励んだ。しかし、その心の中は尊敬する偉大な叔父・アイルトンのようにレーシング・ドライバーとなることだった。「誰もが僕がそうすると思っていたし、事実僕自身もそれ以外のことは考えなかった」ブルーノは母からの言いつけを守りながら、叔父の活躍に目を輝かせていた。
…..’94年5月1日、F1第3戦サンマリノGP決勝中に叔父・アイルトンはこの世を去った。その後、今度は父であるフラヴィオがオートバイの事故で他界した。母ヴィヴィアーニは当然の選択をし、ブルーノにレースを辞めるよう告げた。「母は明らかに恐怖を感じていた。母は僕がどうすることが幸せなのか、の判断が出来なくなっていたんだ」まだ幼いブルーノは静かにヘルメットを置き、ひとりぼっちとなった母の側にいることを選択した。

’04年。アイルトンの没後10年が経ち、ひとりの男が動いた。アイルトンの良き友であり、チーム・メイトだった元F1ドライバー、ゲルハルト・ベルガーである。ベルガーはレースをしたくてウズウズするブルーノに力を貸し、ヴィヴィアーニの説得に回った。アイルトンの没後、FIAの懸命な努力によってF1のレース中に於ける死亡事故は減り、ドライバーの安全性は飛躍的に高まった。こうして既に20歳になっていたブルーノにようやくレース活動再開のチャンスが訪れ、彼はイギリス/ロンドンへと飛ぶ。
ブルーノはブランズハッチで行われたフォーミュラBMW選手権にスポット参戦するといきなり予選フロント・ロウ獲得の速さを見せ、ドライヴ経験のないフォーミュラ・ルノーでは初戦で2位表彰台を獲得。そして、たったこれだけのアンダー・フォーミュラ経験でブルーノは翌’05年、ライコネン・ロバートソン・レーシング・チームから伝統のイギリスF3選手権へと出場するのである。が、既に21歳となっていたブルーノにとって、それはむしろ遅過ぎるステップ・アップだった。「こんなに遅く始めて成功したドライバーなんていない、ってことは解ってる。でも、僕はレースするために生まれて来たんだ」ブルーノは自身初のF3マシンに手こずりながらも、シーズン終盤にはポール・ポジション1回/表彰台フィニッシュ3回を記録し、ランキング10位の成績を残した。
翌’06年はイギリスF3選手権開幕前、オーストラリアでのF1のサポート・イベントで初勝利。イギリスF3選手権ではシーズン・ランキング3位となる活躍を見せた。しかし既に23歳となっていたブルーノには、もう1年かけてイギリスF3王者を狙う時間は残されていなかった。ブルーノは’07年、アーデン・インターナショナルからF1への登竜門・GP2選手権への出場を決めた。
この頃になると母・ヴィヴィアーニとブルーノの姉であるビアンカがブルーノの応援に現れる。…..そう、セナ家はとうとう”諦めた”のだ。偉大な叔父・アイルトンの遺伝子を受け継ぐブルーノを、もう誰も止められない。ならば精一杯の応援をと、弟を奪ったレーシング・サーキットへヴィヴィアーニは足を運んだ。
ブルーノはスペインでGP2初勝利を挙げたが、選手権ランキングは8位。タイトルはティモ・グロックが獲得し、翌年のトヨタF1チームのレギュラー・シートを得た。ブルーノは焦った。何故なら、彼よりも若いハミルトン(’06年GP2王者)やロズベルグ(’05年GP2王者)らが、既にF1でトップを争って走っていたからである。悲壮な決意で望んだ翌’08年、ブルーノは前年のチャンピオン・チームであるiスポーツへと移籍し、元F1ドライバーのベテラン、ジョルジョ・パンターノと熾烈なタイトル争いを繰り広げた。多くの勝利者が生まれた波乱のシーズン、モナコ/イギリスと2勝を挙げたブルーノは最終的に3勝のパンターノに9ポイント届かず、GP2タイトルを逃す。しかし、叔父アイルトンが3度の世界タイトルを獲得したホンダが、’09年シーズンに向けブルーノにF1のテスト・ドライヴのチャンスを与えた。「ようやく夢が叶った。本格的にレースを始めてまだ4年だけど、準備は整っている」ブルーノはバルセロナの合同テストでホンダRA108に乗り、印象的な走りで’09年ホンダF1チームのドライバー候補に浮上。遂にセナの名がF1に帰って来ると、誰もがその動向に注目した。

…..悪夢はその数週間後に突然やって来た。ホンダF1撤退。最終的にマネジメント・バイアウトでチームを手に入れたロス・ブラウンは、自らのチームに’08年同様ジェンソン・バトン/ルーベンス・バリチェロの残留を決めたのである。これによりF1へのステップ・アップが叶わなかったブルーノはやむなくル・マン24時間レースなどに参戦しながら次の機会を待った。次の機会とは、FIA会長・マックス・モズレー(当時)のパジェット・キャップ案による新規F1チームの参入である。ブルーノはスペインの元F1ドライバー、エイドリアン・カンポス率いるカンポス・グランプリと早々と契約を結び、’09年最終戦アブダビGP開催中に’10年シーズンの契約概要が発表された。しかしこの時期、多くの自動車メーカーの撤退で揺れるF1サーカスに救いの手を差し伸べる者は少なく、このセナの冠を手に入れたカンポスでさえもスポンサー集めが上手く行かず、チームは深刻な資金難へと陥り、一時は’10年の参戦に黄色信号が灯った。「僕は生まれつきリラックスしたタイプなんだ。黙ってことの成り行きを見守るよ」最終的には投資家のホセ・ラモン・カラバンテがチームを買収、開幕直前になってカンポスはチーム名を”ヒスパニア・レーシング・チーム(HRT)“と改め、ようやくブルーノも無事F1デビューを果たすことが決定したのである。
ただし、ダッラーラによるHRT第1号車は開幕直前の3月5日にようやく記者発表されたが、この時点で既にFIA合同テストは全行程を終了。既にUSF1が’10年シーズンの参戦を諦めたことから、唯一”開幕戦がぶっつけ本番”のチームとなってしまった。ブルーノ自身「僕らにとって、開幕戦はテストを兼ねることになる」と認めており、HRTにシーズン序盤からの戦闘力、などというものは望むべくもない。そして混迷を経てF1デビューに辿り着いたブルーノ本人も「”セナ”だからF1に来れたわけじゃない」と自らの能力を信じる。が、F1のグリッドに”セナ”の名が帰って来るのも事実である。

「ホンダがF1を撤退すると発表したあと、僕には多くのオファーがあった。ル・マン参戦もそうだが、もう1年GP2を走るとか、メルセデスからはDTM(ドイツ・ツーリング・カー選手権)への誘いもあったよ。でも、長期的に何処かのカテゴリーにシートを得るのはF1参戦への妨げになると思ったんだ。今回のことでは”必要な時に必要な場所にいる”ことの大切さを学んだよ」セナは冷静だった。もちろん自身の年齢や、遅いレーシング・キャリアのスタートが齎す不安はあった筈だが、決して自らを安売りすることもなく、焦って他チームにサード・ドライバーとして売り込みに走ることもなかった。
「彼はとても興味深い。我々も適切な時期に彼を必要とするかも知れない」フォース・インディアのボス、ビジェイ・マルヤはホンダの撤退によってF1デビューが延期となったブルーノに眼を付けていたひとりである。「ロス(ブラウン)が何故ルーベンスを選んだのかは解らないが、ブルーノは非常に有望な若手のひとりだ」彼らは実際、’09年シーズン中にフェラーリのフェリペ・マッサの事故によりジャンカルロ・フィジケラがフェラーリへと移籍することとなり、既にカンポスと’10年の契約を結んでいたブルーノの起用は果たせなかった(フィジケラの代わりにフォース・インディアを駆ったのはヴィタントニオ・リウッツィ)。

当初、F1チームがブルーノを起用するということは、祖国ブラジルの大手企業”ペトロブラス”からの巨額のスポンサー・シップを受けられる、というメリットが囁かれていた。事実、南米系のカンポスもある程度その恩恵を期待した筈である。が、実際には当のペトロブラスは「ドライバー個人との契約には興味がない」とし、HRTのマシンにはブラジル企業として通信会社のエンブラテルのみのロゴが描かれている。またブルーノはスペインのサンタンデル銀行のスポンサードも受けていたが、彼らはフェルナンド・アロンソという現役の”スペインの英雄”と組むことを選んだ。「神に誓って、僕はペイ・ドライバー(資金持ち込みドライバー)じゃない。ただし、今季は契約金も給料もないよ!(笑)」世界不況は、不世出の天才ドライバー、アイルトン・セナの甥がF1のスターティング・グリッドに着くのをサポートすることさえ、ままならなくしてしまった。

実際、ブルーノが’10年の開幕戦で確実にF1デビューするという確証はなかった。今季の新規参入チームに関しては事実USF1が3月に入ってから今季の参戦を断念、既にUSF1とドライバー契約を結んでいたホセ・マリア・ロペスが、巨額の資金を持ってカンポスへと売り込んで来た、との噂も立った。そしてそのカンポスそのものもチーム存続の危機に瀕し、参戦権を持たないステファンGPがダッラーラのマシンごとカンポスを買い取る、などという話まで出た。この騒ぎの中で当然ドライバー契約は一旦無効とされ、ブルーノのシートが安泰だとはとても思えない状況だったと言える。しかしブルーノは慌てず、余計な発言もして来なかった。自らの契約を信じ、そして今HRTのドライバーとして、F1デビューが確実になったのである。「正直、フェラーリ以外の全てのチームと話をしたよ。そして、殆どのチームが持参金として約5百万ユーロ程度を要求して来た。そして、僕はカンポスとの契約に合意した。そういうことさ」

…..現在まで、親子2代に渡るF1世界王者はグラハム(’62、’68年王者)/デイモン(’96年王者)のヒル親子しかいない。ヴィルヌーヴは父の果たせなかった夢を掴み、ピケは父の偉業に追いつけず、現在未だ未勝利ながらメルセデスGPへと抜擢されたニコが父ケケ・ロズベルグを越えられるか、が二世ドライバーとしての興味の現状である。
今季F1デビューするのはブルーノとそのチーム・メイトであるインド人ドライバー、カルン・チャンドック、ウィリアムズのニコ・ヒュルケンベルグ、ルノーのヴィタリー・ペドロフ、そしてヴァージンのルーカス・ディ・グラッシの5人。昨年途中デビューとなった小林可夢偉がザウバーで3戦目、トロ・ロッソのハイメ・アルグエルスアリが9戦目で”ほぼルーキー”のような存在である。
そして、この一見ルーキーで若返ったかのように見えるF1グリッドに、全く同じタイミングでブルーノの叔父と闘った伝説の王者、ミハエル・シューマッハーが帰って来る。

…..セナVSシューマッハー。自動車レースという競技の特性上、それを今すぐ望むのは難しいことかも知れない。でも、そのひとことだけで、なんだかまた子供のようにワクワクしながらレースを待つ自分がいる。憧れだったアイルトン・セナの背中を追いかけて走ったシューマッハー、今度はそのシューマッハーを追いかけるセナの遺伝子…..彼らが素晴らしいレースを魅せてくれることを心から願う。

「僕のことを速いというなら、甥のブルーノの走りを見てからにしてくれないか」
/’93年、アイルトン・セナ

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