『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。
[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。
[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己
スカラシップの意義を問う
今季、ダラーラ製のシャシーにコスワースのエンジンでF1に初参戦したHRT(ヒスパニア・レーシング)。5月のダラーラとの契約終了の報も驚かされたが、去る7月21日には昨年いっぱいでF1を撤退したトヨタF1チームがHRTと提携する、という話がイタリアで報じられた。元々トヨタ(TMG/トヨタ・モータースポーツGmbH)はマシン・デザインやエンジン開発分野でのサービスを中心とした新たな業務形態に関しての情報を公開していたが、HRTはこのシステムに絡むのではないかと報じられている。確かにトヨタはF1参戦最終年となった’09年、勝利こそ掴めなかったものの第4戦バーレーンGPでは予選フロント・ロウを独占し、表彰台フィニッシュ年間5回達成の潜在能力を持つマシンであるTF109をベースとした幻の新車、TF110を所有している。このマシンは当初今季のF1参戦へエントリー外から申請を行っていたステファンGPによって運営され、ドライバーには元ウィリアムズ・トヨタでTDP(トヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム)所属の中嶋一貴が有力候補として上がっていた。しかし最終的にステファンGPにはFIAからのエントリーが認められずこの話はなくなったが、トヨタ側はF1撤退発表以前に開発を続けていた’10年用の新車をスクープ的な扱いで公開、他社との業務提携が充分に可能な状態であることを示そうとしていた。その後も幻のTF110に関しては元GP2チームのデュランゴとの提携話や、’10年からタイヤ供給を行うピレリのテスト用車両の候補に上がるなど、多くの噂が出ている。もっとも、だいたいわざわざ新たに真っ赤にペイントされた”幻の新車”などという公開の仕方にトヨタの下心が丸出しであり、明らかに高価な資金を用いて”作ってしまった”TF110を何とか無駄にせず活用しようと必死な状況が見て取れる。
更に去る7月21日、トヨタの山科忠専務が山梨県富士吉田での記者会見でWRC(世界ラリー選手権)へのカムバックを匂わせる発言を行った。現状ではあくまでも「WRC及びWTCC(世界ツーリング・カー選手権)への参戦に向けての調査を開始した」との表現だが、’09年の突然のF1撤退劇から僅か数ヶ月のこの時期、例えトヨタの業績そのものが回復基調にあるとは言え、時期的に見てもある意味衝撃的な発言と言える。この他DTM(ドイツ・ツーリング・カー選手権)への参戦も候補に入っているとされるが、あくまでも市販車ベースの国際レースへの参戦/復帰案は、完全にヨーロッパでの量販車販売を強化する狙いであり、性能と知名度勝負のF1は高額な参戦費用を理由にそこから落とされた。8年間/140戦やって勝てなかったF1を見切り、かつてはタイトルを獲得したラリー分野での復帰はトヨタの現状と今後を予想するには、極めて解りやすい状況と言える。事実、こうしてトヨタが海外カテゴリーで王座獲得の実績のあるラリーへの興味、またTMGの木下美明社長はグループA時代にWRC用ののエンジン開発に携わった大のラリー・ファンであり、こうした噂の出所も落ち着きどころも納得の行く範囲内だと言える。
…..とまあ、昨年いっぱいでF1を撤退したトヨタのモータースポーツ部門にいくつかの動きが見える昨今、ザウバー・フェラーリで連続ポイント獲得などの活躍を見せ、既に来季のトップ・チームへのシート争いにも名を連ねるようになった小林可夢偉。彼のレーシング・スーツには今もTDPのワッペンが取り付けられていることからも解るように、現在でも可夢偉はTDP所属のドライバーである。「可夢偉/一貴らの支援は継続/TDPは縮小」と言うのが昨年11月のトヨタF1撤退会見での山科専務の言葉だが、現状TDPはいったいどのような活動状況なのだろうか。
’10年、TDPは’95年にスタートしたFTRS(フォーミュラ・トヨタ・レーシング・スクール)を基幹プラグラムとし、世界及び日本のトップ・カテゴリーで活躍出来るレーシング・ドライバーの育成/正しいドライビング教育によるモータースポーツ底辺の健全な拡大、を謳い文句として活動中である。もちろん、成績優秀者には翌シーズンのレース参戦のスカラシップ権が与えられ、全面的及び一部の支援が約束される。TDPのウェブサイトには”主な卒業生”として可夢偉(F1世界選手権)、一貴(未定)の他、ワールド・シリーズ・バイ・ルノー参戦中の国元京佑、フォーミュラ・ニッポン参戦中の平手晃平、石浦宏明、大嶋和也、井口卓人、全日本F3選手権参戦中の蒲生尚弥、国本雄資ら若手の名が連ねられている。
そして、現状で元来FTRSが目指していたF1世界選手権への参戦を果たし、継続出来ているのはご存知の通り可夢偉のみで、昨年までウィリアムズ・トヨタのレギュラーだった一貴は前述のような経緯で現在はシート浪人中である。つまり、TDPのスカラシップに於いて最大のメリットだった”F1に於けるトヨタ関連のシート確保”というご褒美は完全に失われ、昨年後半2戦の代打出場で見せた可夢偉の走りが今季のザウバーとの契約に繋がった以外(もっとも、これもペーター・ザウバーが個人的に可夢偉を評価しての結果である)、F1を目指してTDPに所属して頑張って来たドライバーには既に”優勝商品”がない状況、と言える。現状、TDPに出来るのは有望なドライバーを無関係なチームに紹介することだけとなり、少なくともF1に於いてその効力は恐ろしく低くなってしまった、と言うことが出来る。
…..そもそも、スカラシップ精度が齎す恩恵とはどういったものなのか。最近、このスカラシップに関して興味深かった動きが筆者にはふたつあった。ひとつは、ニュージーランド出身の若手ドライバー、ブレンドン・ハートレイがレッドブルのジュニア・チームから解雇された、というニュース
である。
’89年生まれ/若干20歳のハートレイは13歳という若さでニュージーランド・フォーミュラ・フォード選手権を制した若手有望株で、’05年に現トロ・ロッソのハイメ・アルグエルスアリらと共にレッドブルのドライバー・サーチ・プログラムに合格し、レッドブルのスカラシップ・ドライバーとなった。昨年にはレッドブルF1チームのリザーブ・ドライバーに就任する話が出たが、参戦中のフォーミュラ・ルノー/ユーロF3へ集中したいという本人の意向でこれを辞退、代わりにアルグエルスアリがF1へとステップ・アップした。ところが今季、ワールド・シリーズ・バイ・ルノーで同僚のダニエル・リチャルドにレース結果で及ばず、去る7月21日にレッドブル側からハートレイの放出が発表されたのである。…..ハートレイは筆者個人的には注目のドライバーであった。ま、その多くの理由はイケメンの上にブロンドの髪を肩まで伸ばしたそのルックスが若き日のロニー・ピーターソン(F1ドライバー)やチープ・トリックのロビン・ザンダー(歌手)を彷彿とさせるからだったのだが、ほぼレッドブルによって将来を約束されたも同然だったハートレイがこうしてシーズン中に解雇されるというニュースには驚きを隠せなかった。が、目線を変えれば現在のレッドブルがそれだけ”レベルの高い”チームであるということの表れでもある。うかうかしていてはせっかく掴んだチャンスを棒に振りかねない、という良い例と言える。
もうひとつは昨年の第10戦ハンガリーGP予選での事故で長期欠場を余儀なくされたフェラーリのフェリペ・マッサの後任ドライバー人事と、その後のフェラーリの対応により誕生した若手育成プログラム”フェラーリ・ドライバー・アカデミー(FDA)”のエース、ジュール・ビアンキの骨折〜長期離脱事故である。
まず”フェラーリ・ドライバー・アカデミー”の発足について。当初フェラーリは第11戦ヨーロッパGPにキミ・ライコネンのチーム・メイトとして’06年に引退し、当時フェラーリのアドバイザーだったミハエル・シューマッハーの電撃復帰を模索した。しかしシューマッハー本人は数ヶ月前のバイク事故の後遺症もあってこの復活は叶わず、結局フェラーリはふたりいるテスト/リザーブ・ドライバーの中から’00年から10年に渡ってテスト・ドライバーを務めるルカ・バドエルの起用を決定した。しかし10年間の実践ブランクか年齢から来るものかバドエルは全く近代にF1に付いていけず、フェラーリは第13戦地元イタリアGPからフォース・インディアから現役レース・ドライバーのジャンカルロ・フィジケラを引き抜いて起用。直前の第12戦ベルギーGPではチーム初のポール・ポジションを獲得し、レースでもライコネンに次ぐ2位でフィニッシュするという大活躍を見せたフィジケラだったが、KERS搭載のフェラーリF60がナーバスなマシンだったからか、名手フィジケラを以てしてもポイント獲得ならずでシーズン終了。この一連の流れにより、長く若手ドライバーの育成に興味を示して来なかったフェラーリが遂にスカラシップ制度”FDA”の設立を決断。ジュール・ビアンキを筆頭にGP2やイタリアF3参戦中の若手ドライバーを中心とした、”勝者優先主義”フェラーリの初の若手ドライバー育成プログラムがスタートした。
この動きは実に明確なものだった。何故なら、前述のレッドブルがセカンド・チームのトロ・ロッソも含め下から続々と将来有望な若手を輩出し、育てて来ている経緯も含め、’08年F1世界王者、ルイス・ハミルトンは完全にマクラーレンの秘蔵っ子であり、デビュー初年度からタイトルを争い、翌2年目には堂々と王座を獲得してみせた。それも、最終戦までタイトルを争ったポイント上のライバルはフェラーリのマッサであった。それに比べ、トップ中のトップ・チームであり、伝統と格式を重んじる天下の常勝フェラーリには”若手育成”という概念がそもそも存在せず、他チームでの活躍で既にチャンピオン争いが出来ると見なされたドライバーが移籍して来る、言うなれば”敷居の高いチーム”だった。そんなフェラーリが周囲を見渡し、且つ自らにその必要性が迫った際にこの若手スカラシップ制度の設立を早期決断したのは非常に明快な動きだったと言える。結局FDAは’09年ユーロF3王者でGP2参戦中のビアンキを筆頭に、若干11歳のカナダ人、ランス・ストロールら数名をスカラシップ・ドライバーとしてバックアップし始めた。しかしその矢先、’10年第12戦ハンガリーGPのGP2・第1レースでビアンキが大クラッシュに合い、第2腰椎骨折で入院生活を余儀なくされてしまう。これにより、フェラーリはビアンキのFDAからの一時的な離脱を発表。奇しくもビアンキが運ばれたのは1年前にこのFDA設立のきっかけともなったマッサが運ばれたAEK病院であった。ビアンキの1日も早い回復を祈りたい。
さて、我が日本のスカラシップ制度と言えば忘れてはいけないのがホンダ、SRS(鈴鹿レーシング・スクール)である。こちらも’08年でのF1撤退を受け、トヨタ同様最高峰カテゴリーへの参戦というご褒美はない。現状、ホンダのスカラシップで最も最高峰に近い位置にいるのは、それでもF1浪人を経てIRL(インディ・レーシング・リーグ)へと移籍した佐藤琢磨だと言える。
今思えば、日本のフォーミュラ・スカラシップの頂点は’01年であった。この年、イギリスF3を佐藤琢磨、ドイツF3を金石年弘、フランスF3を福田良がシリーズ制覇するという”事件”が起きた。そう、日本の若手ドライバー達が海外で暴れ回り、遂にヨーロッパの3大F3選手権でチャンピオンとなったのである。当時、日本ではこのスカラシップ制度も含め、若手ドライバーがキャリアの中堅にとつにゅうする以前、つまり従来よりももっと”早くから”海外/ヨー
ロッパで武者修行する必要性が訴えられていた。日本人F1レギュラー・ドライバーのパイオニアである中嶋悟(’87〜’91年/予選最高位6位、決勝最高位4位、最速ラップ1回)を始め、鈴木亜久里(’88〜’95年/予選最高位6位、決勝最高位3位)、片山右京(’92〜’97年/予選最高位5位、決勝最高位5位)ら先駆者の成績を上回れる人材育成のため、多くの若手ドライバー達が海外へと打って出た。特に前述の3人の内、琢磨は’02年にジョーダン・ホンダからF1デビューを飾り、’04年にはホンダ・ワークスのBAR・ホンダで予選最高位2位、決勝最高位3位の活躍を見せた。しかし琢磨はホンダがBARを買収/ワークス・チームとなった際に、エース・ドライバーのジェンソン・バトン(同年予選最高位1位、決勝最高位2位4回)との成績比較によりチームから弾かれ、スーパー・アグリ・チームへと移籍を余儀なくされた。ホンダはフェラーリからルーベンス・バリチェロを迎え入れ、ワークスとして本気でタイトルを取りに行く覚悟が伺い知れたが、結果的には惨敗に終わり、景気低迷の煽りもあって遂に’08年にF1撤退を決意する。当然この時点でホンダ系列のチームはF1のグリッド上に存在しなくなり、後ろ盾を失った琢磨は自らのマネージメントと共にこれまでライバルだったチームとシート獲得を目指して活動しなくてはならなくなった。テスト結果などからも最終的に最も有力と思われていた’09年のトロ・ロッソ加入の話が消え、’10年の新規参入チームの中からロータスと最後まで交渉していた琢磨だったが、結局移籍は叶わず、インディ・カー・シリーズへの転向を決めたのである。
つまり、既に日本のホンダ/トヨタという2大”元”ワークスのスカラシップ制度は、既にその効力を失っていると言っても過言ではない。前述のヨーロッパ3大F3制覇者の内、金石は現役のGT選手権ドライバー兼、そのSRS-Fの講師を務めている。一時はBARのテスト・ドライバーまで行った福田は第一線を退き、現在レーシング・ドライバーのマネージメント関係の仕事を行っているようで、’5月に鈴鹿で開催されたカート・ワールド・カップに姿を見せた。現在進行形の選手としては、その後フォーミュラ・ニッポンなどで活躍する松田次生に次のチャンスがという声もあったが結局実現には至っておらず、日本からF1世界選手権へと打って出るのは現状極めて難しい状況となってしまっているのである。
ちなみに、現在可夢偉と共に日本代表としてF1に参戦する山本左近(HRT)は’00年のSRS-F受講生であり、同年全日本カート選手権で3位、翌年全日本F3選手権で4位となり、同時に海外武者修行をスタートさせている。ただし経緯は同じであっても、左近は独自のマネージメント活動で自らの道を切り開いて来た。少なくともスパイカー/ルノー/HRT加入の経緯に日本の自動車メーカーが絡んでいないことは以前のコラムでも紹介した通りであり、既にスカラシップ制度が”崩壊した”と言える現在の日本に於いて決して特殊なスタイルとは言い難い。僅か20数席しかないF1のシートを得るために熾烈な争いが世界中で行われているのである。
さて、ではこのモータースポーツ・スカラシップ制度に未来はないのか。
スカラシップはあくまでも企業によるバックアップであり、ドライバーから見ればその対象がパーソナル・スポンサーなのかF1関連メーカーなのかの違いでしかなく、つまりメーカーがF1に存在してさえいれば極めて容易な道だったと言える。しかし結果的に…..例えばチーム・メイトのニコ・ロズベルグに惨敗した中嶋一貴(ウィリアムズ・トヨタ)はトヨタ・エンジンごとチームに見切りを付けられた。これはヨーロッパの名門メームから日本メーカーのスカラシップ/連れ子、という概念を否定された、と言わざるを得ない。そしてここには日本/トヨタの絶望があるが、反面、’09年最終2戦で彗星のごとく現れた可夢偉は経験不足などの要素を全て払拭する快走を見せ、堂々’10年のザウバーのシート獲得をやってのけた。人、タイミング、成績…..多くの要素が絡まる中、メーカーの思惑と選手の能力が見事一致した際、それらは完璧に機能するのだろう。ただ、日本にがまだその組み合わせが到来していないのだ。そして、スカラシップはその少ないチャンスを大きく広げてやれるチャンスであり、その場を奪ってしまった企業は今後、そのドライバーの才能をいったい何処で計り、伸ばすのか。”育成”は先行投資なくては成り立たない。
…..余談だが、ホンダの小会社、ホンダ太陽・大分工場は障害者の技術で成り立っている。ナンバープレートのランプ製造ではシェア9割を誇る。しかしそれは障害者の雇用などの問題解決とは違う、別の目的によって成り立っており、細かくシビアな作業を、仮に時間がかかってでも丁寧に行う、という理念から来るもの。つまり、目的は儲けではない。’78年、この工場を視察した本田宗一郎が「ホンダもこういうことが出来る会社にならなきゃいけない」と共鳴し、子会社化した。これはある意味先行投資であり、損得を超えた”先見の明”である。そしてそれは本田宗一郎というカリスマが、高度経済成長期という時代に生きたからこその出来事であり、エピソードである。
…..もっとも、何処の自動車メーカーもクルマの個性を訴える筈のTVCMの最後に揃って「減税!補助金!」とか子供に言わせてるような現在ではとても考えられない話だが。
「トヨタの若手育成プロジェクトには、様々なプログラムが用意されており、レース参戦前/参戦中もレーシングドライバーとして必要な資質を身に付けるためのサ
ポートを行っていく」/TDP