F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集

F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集 F1 STINGER 【スティンガー】 > スクーデリア・一方通行 加瀬竜哉 >  > 2009年6月5日  トルコ・マイスターへの道

スクーデリア・一方通行/加瀬竜哉

謹んでご報告申し上げます。
『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。

[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。

[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己

トルコ・マイスターへの道

第7戦トルコGPで、フェラーリのフェリペ・マッサが”同一GP4連勝記録”に挑む。マッサはこのイスタンブールの新しいサーキットとよほど相性が良いのか、’06年から3年連続してポール・トゥ・ウィン。ちなみに初開催の’05年の勝者は現在チーム・メイトのキミ・ライコネン(当時マクラーレン・メルセデス)、F1トルコGPの歴史はマッサ/フェラーリと共にある、と言っても過言ではない。
この”同一GP4連勝”という偉業を達成したドライバーはF1の歴史上たった4人しかいない。
ファン・マヌエル・ファンジオ(アルゼンチン/’54〜’57年)
ジム・クラーク(ベルギー/’62〜’65年)
アイルトン・セナ(ベルギー/’88〜’91年)
ミハエル・シューマッハー(スペイン/’01〜’04年、アメリカ/’03〜’06年)
…..さあ今週末、この偉大なライン・アップにマッサが加われるかどうか。

’09年シーズンはジェンソン・バトン(ブラウンGP・メルセデス)が現在3連勝中。第3戦中国GPをセバスチャン・ヴェッテル(レッド・ブル・ルノー)に譲った以外は6戦5勝の快進撃である。…..こりゃどう考えても今年のタイトルはバトンのもの。何故なら、開幕からこれだけ勝って後半戦が防戦になったとしても、歴史的にシーズン前半に連勝を達成した者が逃げ切ることが多いからだ。現役ドライバーではフェルナンド・アロンソ(ルノー)が’06年に4連勝/’05年に3連勝を記録しており、いずれの年もタイトルを獲得。そのシーズン絶対的に速く、強いドライバー/マシンだけが成し得る記録なのである。反対に”史上最低レヴェル”と酷評された’08年は王者となったルイス・ハミルトン(マクラーレン・メルセデス)とライバル・マッサが2連勝を1回ずつ記録しただけで、どちらもシーズンを通して絶対的な強さを見せた、とは言い難い(事実、ドライバー/チームによるミスが目立ったシーズン)。
F1グランプリに於いて”連勝”するには、
・ドライバーがノってる
・クルマが速く、信頼性が高い
・ライバルが不調

などの複合要素が必要となる。特に、特定のドライバーが勝ち続けるためには、全く同じ道具を使うチーム・メイトを圧倒しなくてはならない。昨年はハミルトンの5勝に対しチーム・メイトのヘイキ・コバライネン1勝(初優勝)、マッサ6勝に対しキミ・ライコネン2勝。数字上ではタイトル挑戦者としてきちんと仕事をしているように見えるが、反対にコバライネンを含む3名の初優勝者(ロベルト・クビサ/セバスチャン・ヴェッテル)が生まれ、更にダーク・ホースであるアロンソの2連勝もあり、タイトル争いを行うふたりの”取りこぼし”が圧倒的な勝利数/連勝の少なさに反映されている。

歴史を振り返ると、伝説のフェラーリ・ドライバー、アルベルト・アスカリが’52年ベルギーGPから翌’53年開幕戦アルゼンチンGPまで7連勝。F1グランプリ黎明期のこの時代ならではの記録である。同じ’50年代、という括りでもファン・マヌエル・ファンジオの3連勝(’54年)が続くだけで、レースに”絶対的ナンバーワン・ドライバー”という考え方がないとこうは行かない。複数台数の出走によってチーム・メイト同士の争いが勃発した時、この戦略は極めて難しいものとなる。逆の見方をすれば、チームが特定のエース・ドライバーに確実にタイトルを獲らせに行く際に、連勝という現象が起きる。従って、連勝記録をセカンド・ドライバーが持つことは極めて難しい、ということでもある。
’93年、既に引退を決めて最後/4度目のタイトル獲得に挑戦したアラン・プロスト(ウイリアムズ・ルノー)は、この年初めてトップ・チームに加入したチーム・メイトのデイモン・ヒルを圧倒、シーズン中盤まで10戦7勝で数字上のライバル・セナ(マクラーレン・フォード/3勝)に大きく水を空けていた。特に中盤の第7戦カナダから第10戦ドイツまで4連勝し、これでほぼ4度目のタイトルを確実なものにした。
…..そこからプロストに余裕が生まれたのか、それともプレッシャーに負けたのか。ミスの連発で最終戦までの6戦全てを未勝利で、プロストはF1ドライバーとしてのキャリアを終えた。ただし、4度目のタイトルは獲得している。これは、ポイントの積み重ねによる、プロストらしい効率の良いタイトル獲得劇、と言えなくもない。反対に前年弱小チームでF1デビューしたばかりのヒルは、第11戦ハンガリーでの初優勝から3連勝を記録した。チーム自体がプロストの勝利に拘る必要のないポイント差があったとしても、これは異例なことである。どの道引退を決めているプロストの勝利に固執することなく、翌年以降もチームに留まるヒルに勝利の味を覚えさせる、という考え方は常勝チームならでは、である。

ここまでの”同一グランプリ連続優勝記録”保持者はアイルトン・セナ。前述のベルギー/スパ・フランコルシャンでの4連勝を越える5連勝を’89〜’93年に記録。それも、舞台はモナコ/モンテカルロである。生涯モナコ6勝は最多記録でもあり、それ以前に5勝をあげたグラハム・ヒル(3連勝+2連勝)と並んで”モナコ・マイスター“と呼ばれる所以である。F1デビューとなった’84年、下位チームのトールマン・ハートで予選13位から雨の中最速ラップを更新しながら追い上げ、トップのプロストにあと僅か、というところで無念の赤旗終了、F1初表彰台なのにニコリともしなかった。そのセナは’87年にロータスでモナコ初制覇、翌年マクラーレン・ホンダに移籍、予選2位/チーム・メイトのアラン・プロストに1.4秒の大差でポール・ポジションを獲得、レースも2位以下を周回遅れにしようかというブッチ切りでトップを快走。しかし残り12周、ポルティエで突如ウォールに激突し、リタイア。セナは自らのミスを悔い、翌’89年から自身最後のモナコまでの5年間、誰にも勝利を譲らなかった。奇しくもセナの没後最初のレースとなった’94年モナコGPでは、ポール・ポジションがセナのために空けられ、同じ’94年サンマリノGPで死亡したローランド・ラッツェンバーガーと共にフロント・ロウを空白グリッドとした。それほどまでにセナはモナコの象徴だったのである。
F1ドライバーとしてのキャリア10年間の中で6勝。’88年の不可解なリタイアを含め、その間モナコGPは明らかににセナのためにあった。’85年はポール・ポジションを獲得するもエンジン・トラブルでリタイア。’86年は予選3番手、レース中盤トップに立つがピット・ストップの結果3位フィニッシュ。…..つまりデビュー年の’84年(2位)以外、なんと全てのモナコGPでトップを走っているのである。
中でも’92年モナコは語り草である。シーズンを席巻したウイリアムズFW14・ルノーナイジェル・マンセルの独走で終わると思われたレース終盤、マンセルのリア・タイヤにトラブル発生、緊急ピット・インを強いられたマンセルは残り僅か7周でトップをセナに明け渡す。ここからはセナとマンセルによる、一瞬も気の抜けないテール・トゥ・ノーズのバトルが繰り広げられ、狭いコース幅を最大限に活かした巧みなブロックでセナが勝利。これにより、マンセルは開幕6連勝の夢を打ち砕かれた。モナコの勝利の女神は、マンセルの開幕6連勝より、セナのモナコ4連勝の方を選ばれたのかも知れない。
セナは明らかにモナコを”得意”としていた。それは同様の道具を使用するチーム・メイトとの比較に於いて非常に顕著である。’88年のプロストとの予選1.4秒差(2位)、という数字は、’84〜’86年に3連勝を記録し、セナ以前のモナコ・スペシャリストであったプロストがまさに”歯が立たない”状況だったことを物語る。セナ以降、モナコで最も多くの勝利をあげたのはシューマッハー(5勝)だが、15シーズンに渡るキャリアの中での5勝は、他の記録と比較した場合、決してモナコが彼の得意とするレースだったとは言えない。
次に”道具”である。セナのモナコ5連勝は全てマクラーレン在籍時。エンジンは最後の’93年のフォードV8を除いてホンダ、連勝記録に入らない’87年のモナコ初勝利(ロータス)がホンダV6ターボ、’89年からの5連勝がNAエンジン(’89〜’90年V8、’91〜’92年V12)である。この時期はF1がターボ・エンジンから自然吸気へと規制が変更され、各チーム/メーカー共に激しい開発競争が行われていた。速さと信頼性の両立が求められる中、ホンダの安定感は突出しており、反対に当時のライバルであるフェラーリ、ルノーらが信頼性では明らかに遅れを取っていた。が、その力関係が破綻した’92〜’93年の連勝ではライバルの脱落もセナに味方した。同じ道具を使うチーム・メイト(’90〜’92年ゲルハルト・ベルガー/’93年マイケル・アンドレッティ)も、モナコに於いてセナの脅威とはならなかった。仮にプロストが’90年以降もマクラーレンに留まったとしても、既にモナコでのセナの優位は揺るがなかっただろう。セナとプロストはマクラーレン・ホンダでジョイント・ナンバー・ワン契約を結んでいたが、結果的にプロストは若きセナを警戒するあまり政治的な策略を繰り広げ、結局はチームを去った。モナコGPはセナのものであり、もしあの事故が起きなかったならば、最終的にいったいどれほどの勝利をあげたのか、想像もつかない。

前人未到の7回のワールド・チャンピオンとなったミハエル・シューマッハーは7連勝(’04年)、6連勝(’00年)、5連勝(’04年)を各1回ずつ、4連勝2回(’94年/’02年)、3連勝が6回(’95、’98、’00、’02、’03、’06年)、2連勝11回!(’94、’95、’96、’97、’99、’01×3、’03、’06年×2)を達成。…..シューマッハーが天才だったのか、チームが最強だったのか、それとも運が良かったのか…..多分全部だ。ベネトン〜フェラーリで築き上げたシューマッハー帝国、戦略家ロス・ブラウン/天才デザイナー、ロリー・バーンの存在…..そしてジョニー・ハーバートやエディ・アーバイン、ルーベンス・バリチェロらの”セカンド・ドライバー”、更にセナの死、プロスト/マンセルの引退、ミカ・ハッキネンの脆さ…..近代F1に於いてこうした記録を作れたのは、時代全てがシューマッハーに味方した/時代を味方に付けたシューマッハー、の成せる、あまりにも特殊な例と言える。少なくとも、バリチェロの造反によって”チーム・オーダー”が表面的にでも禁止となり、ドライバー同士が”正々堂々”闘う場面が求められる現在では極めて難しい。

…..現在、マッサを取り巻く環境は極めて厳しい。フェラーリがいくらヨーロッパ・ラウンドに入って復調の兆しが見えていると言っても、現実にまだ勝利に結びつく要素は証明出来ていないからだ。そして何より、マッサ以上に期待がかかるのがバトンの7戦6勝目である。トルコ・マイスターへの道は、まずバトン/ブラウンを崩さなくては見えて来ない。そろそろ結果の欲しいフェラーリにとっても大きなチャンスとなるトルコGP。セナを生んだブラジルの、小さなファイターの活躍に期待したい。

「ここでは全てが完璧なんだ!」’09年6月/フェリペ・マッサ

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