“さようなら、ネコちゃん”–金古真彦さんへの4人からの挽歌
2020年10月31日、『Masahiko Kaneko』のFacebookに、新幹線の車窓から撮ったと思われる雪を頂いた雄大な富士山の写真とともに、以下のようなコメントが残されている。
「皆様、ご心配をかけして申し訳ない。今はFBも、開くのと音声入力がやっとで、皆さんからの御便りにお返事できないのは残念です。今が境目、明日へ向かえる様運動も始めました。コロナで面会謝絶の孤独な毎日、一人頑張るしかありません。見守ってて下さい」
コメントには、多数のメッセージが寄せられたが、どれにも返事はなかった。
○日本のモーターレーシングが輝いていた1970年頃
1970年代前後、映画『栄光のルマン』が話題になる少し前、日本にモーターレーシングの黎明期と言える時代があった。このことはモータースポーツファンならだれもが知っているけれど、その時代に、ロサンゼルス在住の日本人が、深く、濃く関わっていたことは、あまり知られていない。
1962年に鈴鹿サーキットができ、1965年には東京から1時間の距離に富士スピードウェイが完成した。その時代に活躍し、パイオニアといえる人たちが、その後の日本のモータースポーツを支えることになる。その代表が、童夢創始者の林みのるであり、無限創始者の本田博俊であり、トムスを創った舘信秀であり、レーシングドライバーの鮒子田寛だが、4人には共通の友人がいた。
それが、愛称“ネコ”と呼ばれていた金古真彦さんだ。金古真彦さんは群馬県の前橋に生まれ育ち、実家は「金古製糸」というお坊ちゃんだったから、Sophiaに学び、その後、カーデザイナーを目指してロサンゼルスのArt Centerに留学した後は、亡くなるまでカルフォルニアで暮らしていた。そのArt Centerの学生時代にオリジナルなカーデザインという学校の課題に実物を作ってしまおうと日本に帰ってきて、友達となっていた本田博俊邸に居候してスポーツカー作りを始めた。そこに見学に来て巻き込まれて手伝うことになった林みのるとも友達になり、その繋がりでトムスの舘信彦やレーサーの鮒子田寛とも友達になる。
金古真彦さんは、Art Center卒業後は自動車メーカーには就職せずに、スズキのジムニーをアメリカに輸入したりアメリカ製の心臓のペースメーカーを日本に輸出したり、実業家として頭角を現しつつあったが、カーデザインの世界でも、まだ前例の無かった海外デザインセンターの設置をトヨタに提案してロサンゼルスにキャルティ・デザインを立ち上げたり、三栄書房に働きかけて「CAR STYLING」というカーデザイン専門誌を創刊させたり、若くから活躍していた。
金古氏がオレンジのハンティントン・ビーチにオフィスを構えていた1978年に、林みのるが「童夢–零」を発表して話題になったが、その後、金古氏が日本に帰った時に童夢を訪問した際に、熱心にアメリカでの車両認定の取得を勧め、余りの熱心さに根負けした林氏が任せることにしたことから、金古氏が「DOME USA」を設立することになる。
ご存じのように、それから1年も経たないうちに林氏は「ルマン24時間レース」にのめり込んで「童夢–零」の市販計画を放り出してしまうが、梯子を外された金古氏は怒ってルマンまで文句を言いにやってくるも、逆にレースの魅力に憑りつかれて、それから、レースの世界でも、いろいろと活躍するようになった。
もっとも、それ以前からアメリカのレースを目指した日本人のためにひと肌脱いでいた。三村健司がフォーミュラを持ち込んだり、鮒子田寛がドライバーとして挑戦した時は積極的に支援していたが、この頃は、あくまでお手伝いの域を脱していなかったようだ。
金古さんが自動車レースに憑りつかれてからは、日本からアメリカのレースを目指す人の窓口のようになっていき、ダンガー・ニーなどとの交流からも、様々なアメリカのレースシーンで金古さんが登場するようになる。
こうして、林みのるや舘信秀、本田博俊や富田義(トミーカイラ代表)や鮒子田寛などが、金古さんを通してアメリカのレース界とのつながりを濃密にしていった。
4人は当時、レースファンにとってあこがれだったCAN-AMやIMSAシリーズが隆盛を極めていたアメリカを目指していたが、アメリカの活動をサポートしたのが金古さんだった。4人が彼と出逢っていなかったら、今の日本のモータースポーツとアメリカとの深いつながりは、実現しなかったと言っても過言ではない。
○4人の証言
—-「百三つの男」 by 林みのる—-
「ネコはヒロちゃん(本田博俊)から紹介された。アメリカのアートセンター(ロサンゼルス)から帰国して、東京レーシングカーショー(今のオートサロン)に出品する『ライザGT-R』というクルマをヒロちゃん宅で作っているというから観に行って知り合った。ヒロちゃんが『カムイ』を出品して、ボクは『エバ・カンナム』のモノコックの開発を担当して、当時は珍しいFRPで作って悪戦苦闘していた頃だった」
「ヒロちゃんには“友人になりたい”と言って近づいたと聞いている。けれん味がない、というか、アッケラカンとしたネコのいつものスタイル。『ライザ』は、本田邸のガレージで製作していたのを見学に行ったまま何日も手伝わされたから、仲良くならない方がおかしい状況だった」
「ネコは4回くらい結婚しているが私と同じだから問題はないものの、私は後期高齢者になってから二人も子供ができて悲惨な老後となっているが、ネコの場合は、晩年は独り身で寂しそうだったから、どちらが不幸だったかは難しいところだ」
「最初の奥さんが素晴らしく美人で人柄も良い日本人だったけれど、彼女と別れて、その後は全部外国人。みんな会ってるけど、正直、趣味を疑ったね。ロスのビバリーヒルズの大邸宅には、スタジオがあって、神と呼ばれるラッパーのレコーディングに使ったり、新人育成のためにも提供していた。遊びに行くと、必ず泊まっていけと誘われたけれど、掃除もしていなくて汚いからいつも断ってホテルに逃げていた。金古宅には、当時の日本では見られなかった無修正の『ペントハウス』と『プレイボーイ』がズラッと並んでいたから、それを見るのは楽しみだったけれどね」
「いつも何かに燃え上がっていて、言い出したらそればっかりで、この世にそれ以外ないような勢いで捲し立てるから、つい話に乗ってしまう人も出てくるけど、次に会った時にはもう次の何かに燃え上がって話にも出ないという連続爆発型だけれど、総てが霧消する訳では無く、たまにはヒットも飛ばすから、私はいつも千三つよりはマシな『百三つの男』と紹介していた」
「最後は独り暮らしで寂しそうだったね。私が現在の家を建てる間の2年間ほどマンション暮らしをしていた時、違う階にもう一部屋を持っていたので、ネコはその部屋を気に入ってけっこう長く滞在していたし、ここに住んでも良いかなとか言っていたから、私も日本に帰ってくるように勧めていたけど、アメリカ国籍になっているから、そうなると家を売るととんでもない税金がかかるし年金の受給も受けられなくなるし、いろいろあって帰れないというような事情があった。以前の奥さんと結婚する時にアメリカ国籍の取得を条件にされていたらしいが、私から見れば、その女のアメリカ国籍取得の踏み台にされたのではないかと疑っている。このあたりのネコのナイーブさは私のホームページの『林みのるの穿った見方』のネコに関するコラムに掲載しているので、暇なら見てください』
—-「どうしょもないけどかわいい人」 by 本田博俊—-
「知り合ったのは小さなホーム・パーティで、付き合い始めたのは、大学を出てすぐだったから23歳の頃。『カムイ』を2年かけて完成させてからアメリカに行って世界一周をしたのだけれど、実は『カムイ』を造ったうちのガレージで、カネコは『ライザ』を造っていたんです。家の敷地の中に煙突が付いた離れがあって、そこの2階にボクが住んでいて、カネコは1階に居候していたから、家族全員が“ネコ~”と呼んでた。最後の姿を親しい人に見せたくなかったんだろうね。ツイッターでつながっていた人から訃報を聞きました」
「ネコは、117クーペをデザインしたイタル・デザインの宮川さんの弟さんと仲良しだったので、紹介してもらったり、音楽関係のエージェントもやっていて、世界的なラッパーのスヌープ・ドギー・ドッグを紹介してもらったこともある。ボクがアメリカに行くたびに、月に1-2回は会っていたね」
「アメリカ生活が長かったから感覚はアメリカ人だったけれど、奇麗な娘が好きで(笑)、『ライザ』って、彼女の名前じゃないのかな。それはいいんだけれど、パーティに連れてきた娘をほったらかして帰っちゃったりする。何度もそういう娘を家まで送って行きました。中には、“訴えてやる!!”なんて事件もあった。弟みたいな奴だったのでガンガン叱ったけれど、悪びれず謝りもしない。でも、かわいげがあるから、みんな、ネコちゃん、ネコちゃんってなるんです。どうしょもないけど、かわいい人でしたね」
—-「自己主張とインパクトの人。おかげで今日がある」 by 鮒子田寛—-
「1969年の12月に原宿のビルの2階にある喫茶店で、ヒロちゃん(本田博俊)から紹介された金古さんだよと言って、林(林みのる)から紹介してもらった。その後、強い勧めに背中を押されてアメリカに渡ってフォーミュラAとTrans-Amに参戦することになるんだけれど、その時は、いろいろお世話になりました」
「タレントの武井壮は、息子のように親しくしていて、冬帰国するときは、よく彼のところに滞在していたようだった。分野を問わず付き合いの広い不思議な人」
「アメリカのレース業界の関係者もドライバーもよく知っていた。いつも、そんな人脈を自慢していたけれど、あれを男前がしゃべったら厭味な感じがするかもしれないね(笑)。話を聞いて、期待して行ったら、なんだ、ということも多々あったけれど、まぁ、彼の口車に乗ってアメリカに行ったから今のボクがあると思います」
「ネコのフェイスブックはよく見ていた。手術が成功したとも書いていたけれど、長い間、投稿がないな、と思っていた。残念ながら、病との闘いには勝てなかったけれど、好きなことをやりたい放題やって、本人は自分の人生に満足していると思うから、よしでしょう」
—-ネコちゃん、ありがとう by 舘信秀—-
「ネコちゃんには、シュニッツァー・セリカのパーツを流用して童夢で造ったセリカ・ターボでルマンに行く前の年に、足ならしの意味で、セブリングとリバーサイドのIMSAに参戦したんだけれど、その時に、チームを紹介してもらったり、ガレージを見つけてもらった。センターラジエターで冷却空気がうまく当たらなくていきなり燃えちゃったりグタグタのクルマで、チームともぎくしゃくしたけれど、ネコちゃんが間に入ってまとめてくれた」
「ルマンを見に来るようになって、2008年と2012年にルマンで会った。トムスは参戦してなかったけど、童夢のマシンでマッチと右京が出ていて、私はテレ朝の解説者で行っていた時だね。ネコちゃんはそれ以前からルマンには来ているんだけど、一度観たら、即、ハマっていたみたいだけど、ルマンに行くと、みんなに会えるというのが一番の理由だったんじゃないかな」
「会った日から親友になれるようなアメリカ人的感覚で、ネコちゃん、タッちゃんと呼び合っていたけど、とにかく女の子が好きで、日本に来るときは直前に連絡が来て、“美味しいものと奇麗な子を用意しといてね”と。面倒みのいい人なので、こちらもご所望の注文を用意しておいたら、毎回頼まれるようになっちゃった」
「もし、コロナがなければ、ボクもみのる(林みのる)も間違いなくアメリカにすっ飛んで行ったと思うよ。寂しい最後だったんだろうなと気がかりだったけど、みのるから聞くと、最後の一ヶ月は、日頃は疎遠だった娘が付きっきりで看病していたそうで、その娘のお母さん(最初の奥さん)によると最高に幸せな一ヶ月を過ごしたと思うよということだったらしいから、ちょっと気が楽になっている。フェイスブックのメッセージが最後になったけど、もっといろいろ伝えたかったことはあると思う。多分、スマホを持つ力もなかったんだろうね」
「最後は切なかったけれど、1年に1回は会えるハッピーな仲間だった」
※鮒子田寛さんのコメントのI「MSA」を「Trans-Am」に修正しました。
ご迷惑をおかけしました。[STINGER編集長] 山口正己 2021.02.01
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○ネコさん、安らかに
金古さんのフェイスブックの最後の扉は、笑顔ではなく寂しげな陰りのあるボートレートと、ビバリーヒルズの豪邸からのロサンゼルスのダウンタウンの夜景が使われ、寂しさと人恋しさが表現されていた。
金古さんは、冒頭の富士山の写真とコメントの他に、力を振り絞って10月31日にもう1枚の写真を、フェイスブックに投稿していた。
左から金古さん、舘さん、林さんが写った笑顔の写真には、以下のようなメッセージが添えられていた。
「私にはもう1人大切な旧友がいる。時期的には林より短くなるが、トムスのアメリカでのレース活動を一緒にした 舘信秀。
これは久し振りの再会で宿泊先ルマンの古城での3ショット、8年前になる。出来れば又ご一緒したい。
Kaneko Masahiko(金古真彦)
Kaneko Enterprises, Inc. Owner
以前の職業: Calty Design Research (Toyota Design)のFounding member & Operating Officer
出身校: Art Center College of Design Industrial & Automobile Design
出身校: Sophia University, Tokyo International Division
前橋高等学校に在学していました
ロサンゼルス在住
群馬県 前橋市出身
ご冥福をお祈りします。
合掌。
[STINGER]山口正己
photo by Masahiko Kaneko / M.Hayashi / H.Fushida