1964年ドイツGPの番傘。
◆電車の中でスマホを見ていて、思わず”えっ!!”と叫んでしまった。小林彰太郎さん、という文字を見つけたからだ。慌てて中身を追った。83歳のお別れだった。
◆ほんの数回しかお会いしたことがないにも関わらず、どこかにぽっかりと穴が空いた気分になった。もっと近くの周辺の人々の空虚な気分はいかばかりかと思うと、寝ころがって足をバタバタしたくなる、たまらない気分だ。
◆ホンダが第三期をスタートしたときにお話を伺った。『HONDA Sounds』という、本田技研工業株式会社の社内報の記事を創った。原稿の内容は忘れてしまっていたけれど、その時に拝借した写真は、記憶の端っこに鮮明に残っていた。
◆小林さんは、発売されたばかりのホンダS600を携えて、1964年の夏、欧州に飛んだ。F1にデビューするホンダRA271を観るためだ。もちろん、S600を欧州の道を走らせ、カーグラフィックにインプレッションを書くこともこなしていたが、7月11日のイギリスGPでのデビュー予定が伸び伸びになり、8月2日決勝のドイツGPにやっとのことで姿を現わしたホンダF1を間近で観て、カーグラフィックにレポートを寄せた。これが、日本人の手で書かれた最初のF1グランプリのレポートになった。
◆こうした事実を、さらに印象的にしたのが、その写真である。小林さんは、番傘をホンダRA271に差しかけている。その番傘は、”こういうときのために日本から持って行った”のだった。嗚呼、なんたるウィットが効いたグローバルなセンスと気遣いなのだ!!
◆こんな発想をされる方が旅立たれた。F1GPというモーターレーシングを、きちんとクルマの雑誌に位置づけていた方が天に召された。
いまはただ、安らかにと祈るばかり。
ご冥福をお祈りいたします。小林さん、ありがとうございました。