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トヨタ7を知らない説明員?!

話題の、トヨタ7。1969年日本GPウィニングマシン。

◆幕張メッセで行なわれたAutomobil Councliに出品されたトヨタ7のことでフェイスブックで若干議論が持ち上がった。その内容じたいはまぁ、どうでもいいのだが、残念だったのは、その話題になったトヨタ7が、日本のモーターレーシング史上では要になる重要なクルマにもかかわらず、コメントをアップした自動車評論家本人も、それを説明したというトヨタ博物館のご担当も、このクルマのことを知らなかったのには、ちょっと驚いた。

◆話題のクルマは上の写真、1969年の11月に行なわれ日本CANAMに優勝した、ブルーのストライプの川合稔のマシンだったのだが、展示ブースにいたトヨタ博物館のご担当の説明が、「その前の富士1000kmを走ったクルマ」と、資料を見ながら説明したそうだ。明らかな事実誤認だ。

◆車体が実は改良を加えて、その前に日本グランプリを走っていて、さらにその前の富士1000kmに出ていた、というならわかるが、そのブルーのストライプで低いリヤウィングを装着したクルマが、日本CANAMの前に他のレースに出ていたという事実はない。

◆間違いは誰にでもあるのでそこを攻めたいとは思わないけれど、よりによって、この歴史的に重要なクルマを、間違う以前に調べなければわからないというのは、あまりに悲しいと思った。

◆1963年に始まった日本グランプリは、1966年に富士スピードウェイに舞台を移した。完成したばかりの富士スピードウェイは、元々NASCARを参考に、オーバルコースとして設計されたが、その後オーバルを辞めてロードコースとして完成した、とういう経緯があった。その流れから、テクニカルな鈴鹿に比べて広大で、長いストレートをもつ大きなコースとして誕生、そこに見合うマシンとして、大排気量エンジンが注目されることになった。

◆トヨタ7は、1968年に3000ccエンジンで登場し、翌1969年には5000ccに“格上げ”され、それぞれ10月に行なわれ日本グランプリに参戦、特に1969年は、ニッサン・ワークスとの熾烈な闘いを展開したが、レースを前に6000ccであることが発覚したニッサンにしてやられてトヨタは破れたが、その1カ月後に行なわれた、当時アメリカで一世を風靡し、若者の憧れだったアメリカとカナダを舞台に展開していたCANAMレースを招聘した『日本CANAM』に、トヨタはリヤに低いウィングを装着した進化型のこのトヨタ7で参戦し、本場のマシンを相手に雪辱を果たしたのだ。

◆当時は、6000cc、7000ccのいわゆるビッグマシンと呼ばれる大排気量マシンが闘うアメリカ/カナダが舞台のCANAMと、耐久レースの総本山であるフランスのルマン24時間がニッサンやトヨタの目標であり、日本全体の夢だった。その翌年、トヨタは、日本CANAMに勝ったトヨタ7をさらに進化させ、1000馬力といわれるターボ・エンジンを搭載してトヨタ・ニュー7としてCANAMに出場を目指していたが、69年日本CANAMで優勝した川合稔が、1970年8月の鈴鹿サーキットのテスト中にアクシデントで亡くなり、並行して日本の社会を襲ったオイルショックや公害問題で、その挑戦をあきらめることになった。

◆大きな富士スピードウェイに見合うマシンとして標榜されたビッグマシンの時代が終わるのだが、その最後を飾ったのが、このトヨタ7だったのだ。つまり、このブルーと白のトヨタ7は、ビッグマシン時代の最後にレースを闘い、金字塔を打ち立てた永久保存版と言えるクルマだ。1969年日本グランプリに優勝した黄色いニッサンR382と並んで、日本のモーターレーシングを語るキーの存在で、殿堂入りするにふさわしい、トヨタの誇るべき1台なのだった。

◆そのことを知らずに、資料を見ながら説明したという博物館担当者にガッカリした。最近、トヨタ7にお目にかかる機会が多いけれど、次の機会の前に、担当にぜひとも事前レクチャーをお届けしたい。

photo by [STINGER]

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