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	F1で巡りあった世界の空。山口正己ブログ

赤城明さんの訃報に触れて–レイトンハウスの衝撃と思い出・完

◆レイトンハウスF1チームの本拠地はイギリス。ヨーロッパラウンドで活躍するモーターホームのコックもイギリス人だったから、食事の美味しさは押してて知るべしだったのだが、赤城社長は、そこでランチをいただくことはめったになく、たいていはイタリアン・チームのミナルディ、現在のトロロッソで、こっそりと美味しいパスタを食べていた。

◆ヘリコプターやチャータージェット機に何度か乗せていただいた。ヘリは、イタリアのモンツァやイギリスのシルバーストンでお世話になった。89年のフランスGPの時には、ミラノのリナーテ空港からプライベートジェットのお世話になったが、出発が遅れ、当然到着も遅くなった。フリー走行が始まる時間が迫っていた。ポールリカールの空港が混み合っていて、なかなか着陸許可が取れなかったが、イタリア人パイロットは、強引に降りてしまった。管制塔に向って、「燃料がない」と叫んで緊急着陸してしまったのだ。こうして私はヨーロッパの生き抜く悪知恵、あ、いや裏技のいくつかをF1GPから学んだ。

◆レイトンブルーは鈴鹿サーキットで行なわれたF1の日本グランプリでも大人気で、ショップの売り上げは、新宿周辺のデパートの年末商戦と同レベルと言われた。マクラーレン・ホンダのマールボロ・カラーと共に、レースファンの枠を越え、レイトン・カラーは羨望の的だった。

◆1988年の日本GPの帰りに、赤城さんや、カペリ、グージェルミンなど10名ほどのレイトンハウスご一行と一緒に東京に帰った。新幹線の中で、修学旅行の女子高生が前から歩いてきて一行に気づいて、私の前で、“あの外人たち、どこでレイトンハウスのウェアを買ったのかしら”と振り返りながら話をしていたので、「ホンモノだよ」といったら笑われた。

◆派手なイメージとは裏腹に、レイトン・ブルーと呼ばれたチームカラーは、ホンダのシティ・ターボにあった色を参考にしたことや、レイトンハウスという名前は、イギリスのロンドン自治区の小さな街“LEITON”を参考にしたことなど、牧歌的な由来があった。

◆レイトンハウスがモーターレーシングの道を進むきっかけになったのは、1986年に、グループAのテスト中に急逝した萩原光(あきら)。最初のスポンサーとして赤城さんをレースの世界に誘った。萩原のアクシデントで、レイトンハウスの活動は収束すると思われたが、遺志を継いでほしいという遺族の願いから活動を継続することになった。光の弟の任さんが、その後チームの代表を務めて活動を牽引した。

◆萩原光の後、黒澤元治、星野一義、関谷正徳、影山正彦、影山正美、田中実、黒澤琢弥など、そうそうたるメンバーがレイトン・カラーを身にまとった。富士フレッシュマンレースから始まった赤城さんのレース活動は、F3000、グループC、グループAなどの国内の主要レースはもとより、F1、ルマン24時間にも広がった。

◆F1では、絶頂期の1988年にイーヴァン・カペリのマネージャーを務めていたチェザーレ・ガリボルディを交通事故で亡くす試練にも遭ったが、ガリボルディの頭文字のCGを、アドリアン・ニューウェイの出世作となるマシンのコードネームに付けてF1活動を続けた。

◆バブルを象徴する形で登場したレイトンハウス。独特な色合いのチームカラーは、まさに異色の存在として、世界中のレースファンの心に輝き続けている。

◆改めて、赤城明さんのご冥福をお祈りします。安らかにお休みください。合掌。

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