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何度も泣いた30回目の鈴鹿

今年、泣かせてくれるのは誰?

30回目の鈴鹿サーキットでの日本グランプリが始まった。今日は金曜日、フリー走行1と2が行なわれる。思い出すのは、最初の鈴鹿だ。

◆オゼッラという、今ではほとんど忘れられているイタリアのチームのピットは、1コーナー寄りの端っこにあった。初めて日本のサーキットをF1マシンが走る瞬間を、私はそのピットガレージで待っていた。

◆1987年11月1日、鈴鹿サーキットで初めてのF1GPが行なわれた。現在であれば、その2日前の10月30日金曜日にフリー走行1が行なわれるところだが、当時は、初めてF1GPを開催するコースは、木曜日に特別走行枠が設けられていた。つまり、公式行事として鈴鹿サーキットをF1マシンが走ったのは、10月29日木曜日だった。

◆それまで、中嶋悟や星野一義のドライブで、ウィリアムズ・ホンダのテストが行なわれ、さらに時代を遡れば、1963年にホンダF1がテストで走っていたが、グランプリとしてF1マシンが鈴鹿を走ったのは、10月29日が初めて。要するにその日は記念すべき日だった。

◆その10年前の1976年と1977年に、F1日本GPは富士スピードウェイで行なわれていたが、1977年のアクシデントで一端中断していた日本のF1GPの歴史が再開した瞬間でもあった。

◆そして、その10月29日木曜日に初めて行なわれたフリー走行で、真っ先にコースインしたのは、外でもない、日本人初のフルタイムF1ドライバーの中嶋悟だった。“日本のサーキットを”、“日本のエンジンを搭載したF1”で、“日本人ドライバーが走った”その瞬間を、私は、鈴鹿サーキットの1コーナー寄りのオゼッラのピットガレージのモニターで見上げ、感激で涙があふれたのを昨日のことのように思い出す。

◆当時は、現在のように、チームのセキュリティが厳格ではなく、ウィリアムズ・ホンダであろうがフェラーリであろうがマクラーレンであろが、ピットガレージにいつでも自由に入ることができた。もちろん、黄色いキャメル・カラーのロータス・ホンダのガレージでも“見物”はできたのだが、オゼッラを選んだのは、そこに日本人関係者が誰もいないことがわかっていたからだった。感激で泣く姿をみられたくないと思って、歴史的瞬間をそこに逃げ込んで観ることにしていたのだ。

◆ひっそりと、アレックス・カフィという日本ではほとんど知られていなかったイタリア人ドライバーがステアリングを握る貧乏チームのオゼッラのピットガレージで、思った通り、泣いた。なかなか周到な準備だったわけだ。

◆ちなみに、前年のワールドチャンピオン、アラン・プロストとステファン・ヨハンソンのマクラーレン・ポルシェがゼッケン1とゼッケン2。これまた当時は、前年のワールドチャンピオンのプロストがチャンピオン№の1を着けていたが、参加したのは28台。26台がフルグリッドだったから、2台が予選落ち。最下位チームのオゼッラが、アレックス・カフィが乗っていたことも、アルファロメオエンジンを搭載していたことも、そして予選を通過したことも、すっかり忘れていたが、ピットを後にして1コーナーを回り込み、S字をゆっくりと駆け上がっていく中嶋悟さんの黄色いロータスが、涙でぼやけた視界の中で、まばゆく光り輝いていたことははっきり覚えている。

◆翌年の1988年は、アイルトン・セナが初めてのワールドチャンピオンを鈴鹿で決めて泣き、1989年にはセナとプロストがぶつかってシケインの観客が泣き、1990年には鈴木亜久里が日本人初のF1表彰台を見上げて鈴鹿全体が泣き、1994年には、セナのヘルメットのカラーリングのヘリコプターが、お姉さんのビビアーヌさんを乗せて舞い降りたのを観て泣いた。2006年、一端途切れる最後のレースで、エンジンから白煙を巻き上げた皇帝ミハエル・シューマッハのフェラーリを観て泣いたファンもいるはずだ。

◆2014年以降、鈴鹿はメルセデスか連勝している。ポイントリーダーのルイス・ハミルトンが3勝だが、鈴鹿が世界一といって憚らないセバスチャン・フェッテルは4勝している。感涙の舞台の今年、どんな涙がまっているのだろうか。

photo by [STINGER]

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