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“これがグランプリだ”と思った瞬間–私の中のF1GP・その1

 

1)1974年11月24日 富士スピードウェイ

◆これはレースではいけれど、間違いなくF1から衝撃を受けた最初の瞬間だった。

◆結果的に1976年に初開催される富士スピードウェイの日本GPの下調べの意味もあって、5台のF1マシンが初めて日本を走ったのは、1974年11月23日。富士スピードウェイグランチャンピオンレース最終戦のレース後だった。

◆出走したのは、エマーソン・フィティパルディ(マクラーレン)、カルロス・ロイテマン(ブラバム)、ロニー・ピーターソン(ロータス)、パトリック・ディパイエ(ティレル)、ジェイムス・ハント(ヘスケス)の5台。

◆写真家のであり、エクレストと親交の深かった間瀬明さんが中心になって、日本へのF1GP招聘を企画し、その第一歩として実行されたのがこの「F1デモラン」だった。

◆そもそも、F1を呼ぼうとした理由は、その前年とこの1974年に、富士スピードウェイでは連続して悲しいアクシデントが起き、日本のモーターレーシングの安全思考のクォリティを高めたい、というのか間瀬さんの考え方であり、バーニー・エクレストンが同調したものだった。

◆最終コーナーでこの模様を目の当たりにして、腰が抜けた。ピーターソンのドリフトはそこでは拝めなかったけれど、ロイテマンが、最終コーナーのアウト側の縁石から、タイヤを半分はみ出して走ったからだ。

◆ちなみに、このイベントは、当初エキジビション時だったが、最終的にデモランと呼ばれたのは、国際レースは4週間いないに存在できないという理由からだった。当時の日本自動車連盟は、F1のレースを許可しておらず、「競争はしないように、バラバラで走るように」という条件で認可を出した。

◆しかし、実はエクレストは、そんな規約をまったく守る気はなかった。間瀬さんから、F1の迫力と対応して安全性を伝えたいと言われていたからだ。当時、ブラバムのオーナーだったエクレストンは、チームのロイテマンを始め、参加ドライバーに、“全開で競争を見せてくれ”と注文し、前日の記者関係で、「スタートの迫力と、5台だけだが、本気のレースをお楽しみいただく」とコメントし、実際にその通りに20周の“デモラン”が行なわれた。

◆富士グランチャンピオン最終戦で、高原敬武、長谷見昌弘、高橋国光が表彰台に登った後に行なわれた5台のF1マシンの迫真の走りは、日本に“グランプリ”の一端を届けた。

photo by [STINGER]

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