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	F1で巡りあった世界の空。山口正己ブログ

思い出のグランプリ(2)初の海外レース–1977年ロングビーチGP

その1からつづく)

ロングビーチは、その後CARTシリーズでも訪れた思い出のコース。

1976年日本GPで初めて生のF1を見てから43年が経過した。その間に、ざっと300戦ほどのF1GPを覗いてきたが、それぞれ思い出深い。

ひとつ選ぶとすれば、1977年のスングビーチGP。1976年の富士スピードウェイに続いて、初めて現場で見たグラプリだ。

初の海外レース–1977年ロングビーチGP

◆1977年4月3日がロングビーチGPの決勝日だったが、この日程は非常に微妙だった。前年の8月に『auto technic』編集部員の入社試験を受け、合格して4月1日から正社員として勤務が始まることになっていたからだ。当然、ロングビーチを優先して、入社を、帰国できる4月5日からの採用にしていただいた。スタートから勝手な奴でみません。

◆ロングビーチGPは、ロサンゼルスのダウンタウンからクルマで20分ほどのロングビーチ港の海沿いにコースがあった。当時、お袋の妹だから叔母さんがロサンゼルスのダウンタウンに住んでいた。戦後、横田基地で働いていた叔母は、アメリカ人の兵隊と結婚し、その関係でロサンゼルスに引っ越していた。その叔母がいたから、初の海外旅行だったロングビーチGPに行く勇気が出た、というワケだ。

◆ところで、叔母の英語は、猛烈なカタカナ英語で、例えば、乗っていたクルマは“ボックスワゴン”と言っていたが、それはフォルクスワーゲンのことで、「アンタ、クルマの仕事をしてるなモセリ買いなさい」というのは、「メルセデス」のことだった。

◆洗濯機はウォッシュミシン。マシンではなくてミシンだったから最初は何を言っているかわからなかったので、リッカーミシンの名前の由来を教えてあげた。“立川に本社があったから”というのがその理由で、タチカワではなくてリッカワからリッカーになった、という話には興味を示さなかった。だからなんだって話だけれど、ついでに、国立駅は、立川と国分寺の間なのでその名前になったって、知ってた?

◆さて、ロングビーチGPは、1976年に始まった。アメリカ2番目のグランプリとして注目を集めていた。市街地というのが、いかにもアメリカ的で、いまはアメリカGPといえば、パーマネントコースのサーキットof theアメリカスが舞台だけれど、ラスベガス、ダラス、フェニックスなど、市街地レースがアメリカの定番だったことがあったのだ。

◆市街地コースは、初の海外F1としては、手軽感でいけば、いまのシンガポールや中国GPと同じく、親しみやすいGPだった。かくて、F1に限らず、すべての海外レースの初体験が1977年のロングビーチになった。

◆ロングビーチGPは、前年にカレンダーから外れていたアルゼンチンGPが加わって最終戦の日本GPまでの17戦のうちの第4戦、アルゼンチンGPが1月9日に開催されていたから、すでに開幕から3カ月が経過していた。22台がグリッドにならび、トップ10は以下の通りだった。

1. ニキ・ラウダ フェラーリ
2. マリオ・アンドレッティ ロータス
3. ジョディ・シェクター ウルフ・フォード
4. カルロス・ロイテマン フェラーリ
5. ジャック・ラフィー リジェ・マトラ
6. ジョン・ワトソン ブラバム・アルファロメオ
7. エマーソン・フィティパルディ コパスカー・フワード
8. ジェイムス・ハント マクラーレン・フォード
9. ジャン・ピエール・ジャリエ ペンスキー・フォード
10. ロニー・ピーターソン ティレル・フォード

◆レースは、予選2番手のシェクター着リードで進んだが、終盤にアンドレッティがトップに出て優勝した。

◆レース内容はよく覚えていないけれど、バックに豪華客船のクイーンエリザベスが見えるロングビーチのコースは、その後CARTでも訪れた思い出深いコースだ。

その3につづく)

photo by [STINGER]

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