CAN-AMもいいけどグラチャンも!!
◆1960年代終盤のCAN-AMに哀愁を感じている人が思いの外たくさんいらして嬉しくなった。ということで、グラチャンことフジ・グランチャンピオンシリーズの話題も展開しておきたい。古き佳き時代というよりも、知らない人に伝えたいあの興奮、なので。
◆相模湖の実家から富士スピードウェイまで約80km、中央道ができてからは、クルマで1時間ほどになった。下道をとことこ走っても2時間はかからない。1969年に、相模湖-河口湖が開通した。まるで、オレが富士スピードウェイに行き易くするかのようで恐縮した(違うと思う)。
◆一方、日本のレースは、1970年辺りを境に、CAN-AMとルマンの影響を受けてデカクなったエンジンを積む“ビッグマシン”の時代が影をひそめていく。オイルショックが拍車をかけて、“♫小~さいことはいいことだ♫”という森永エール・チョコレートのオマケのちっこいミニカーがヒットした。ハッピーセットのセリカに似ていなくもないこの現象も手伝って、1970年代に入ると、2000㏄のエンジンの時代になった。
◆面白いのは、富士スピードウェイがスポーツカー、鈴鹿サーキットがフォーミュラカーの路線になったことだったが、その辺りは、【STINGER】がお届けしている大久保力さんの『マイワンダフルサーキット』をご覧いただくとして、富士スピードウェイでは通称グランチャンが大盛況、常に5万人を超える観客が押し寄せる人気レースだった。
◆マシンは、マーチやローラ、シェブロン、GRDなどのいわゆる2リッター2座席スポーツ。三菱エンジンを積む国産のベルコも興味を引いた。
◆さらに当時は、空力が注目されてまだ10年以内、試行錯誤でいろいろな形が出てきて、そこがまた面白かった。とんがったシェブロンと丸っこいローラ、みたいな感じでね。そして、富士スピードウェイに隣接してガレージがある同い歳の由良卓也さんのムーンクラフトのスペシャルボディが登場したり、創意工夫がてんこ盛りで、毎戦、次は何が出るか興味津々だったのだ。
◆マシンのバリエーションに加えて、オイルショックでメーカーが表立った活動ができなくなった結果、ニッサンの三羽がらすの高橋国光、北野元、黒澤元治の職人ドライバーや、セミワークスで若き天才と呼ばれた長谷見昌弘の参戦が話題を呼んで、ますます盛り上がり、最盛期には30台を越すマシンがグリッドに並ぶ盛況だった。
◆ちなみに、私はグラチャンというのが好きだけれど、グランチャンという人もいる。チャパラルなのかシャパラルなのかも同じですね、どっちでもいいけど。
◆そして、面白かったのは、メインレースのグラチャンだけではなかったのだ。
(次回につづく)
※今後のテーマ:バンクとS字/ロングテール/番外レース/スロットカー/選手紹介/田中健二郎の解説など
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