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おとうちゃんの生誕100周年

愛車の前でカッコつけるおとうちゃん山口正治。1m74cm、私より5cm長身だった。真ん中は4歳下の妹。最近、次女の結婚が決まった。時代は巡る。

◆今日12月20日は、22年前に亡くなった1922年(大正)生まれの親父の誕生日。関東大震災があった前年に生まれた9人兄弟の末っ子で、生まれたのは震度6の範囲の神奈川県相模湖町(現在は相模原市に統合)だったので、両親である私の祖父と祖母は大変な苦労をして育てたことが忍ばれます。ちなみに、関東大震災は、ルマン24時間の第一回と同じ年だった。

◆長男の私が生まれた少し後に、相模湖の湖畔でキャンプ場を開業、“相模湖の対岸、緑の離れ島”というキャッチフレーズで生計を立て、私と妹と弟を育ててくれた。町会議員を4期計16年勤め、近所では、“しょうちゃん、しょーにい(山口正治)”の相性で親しまれる存在だった。

◆2002年の2月に、急性白血病が発覚、体調が思わしくない状況を押して自分で運転して行った日赤病院で、もっと大きな病院に行くように指示を受け、向かった北里病院で「2~3日の命」と医者に告げられながら、4カ月生き延びる強い人だった。

◆亡くなる数日前に、病院食を食べる姿をみて、入院していた北里病院の委員長は、「このデータでモノを食べる人を見たことがない」と驚いていたけれど、親父は子供の頃、風邪などを患った時に、母親から「食えば治る」と言われていたことを思い出して無理やり食ったのだった。

◆妹が、野菜好きの親父を想いつつ作って病室に持参した野菜の煮物を「ウマイウマイ」といって食っていたけれど、白血球が激増する感覚では、ほんとうは全然うまくなかったはずだが母親の言いつけを信じて食った。

◆享年79歳。入院の前日には、キャンプ場の森の中を駆け回っていた。自分が築いた場所を最後に確認したかったのではないかといまは思う。

◆思い出はたくさんあるけれど、台風の晩の行動が強烈だった。ダム湖の相模湖は、大水に備えて水位を下げて大雨に備えるのが習わし。大雨で水かさがぐいぐいと上昇してきていたが、みの石滝キャンプ場は、入り組んだ入り江の奥にあり、水かさに合わせて、ボートを係留する桟橋を移動させなければならない。集中豪雨がさらに激しくなり、周囲の山から流れ込む雨水で水位がどんどん上がる。キャンプ場の脇を、いつもはチョロチョロと流れる小川が、激しい濁流に豹変した。

◆ぐいぐいと上昇する水位の関係で、対岸に係留してあった桟橋が、地面に打ち込んだ係留ロープにぴっぱられて沈没しそうになっていた。小川は対岸まで20mほどの激流になり、渦を巻きながら、時には根こそぎ抜き倒れた5mほどの檜が轟音を立てて流れてくる危険極まりない状況。しかし、このままでは桟橋につないである遊覧船もろとも沈んでしまう。

◆当時二十歳そこそこだった私は、50歳を過ぎていた親父の先に立って対岸を目指そうとしたが、一歩踏み出した瞬間に、進むのか無理だと悟っ。激しい流れが川底をかき回し、足を着いた瞬間に足の裏の土砂を全部持ち去って踏みしめることができなかったからだ。

◆それを見た親父が、オレが行く、とつぶやくと、ザブザブと川の中を進んで対岸にたどり着き、遊覧船を係留していた桟橋は無事だった。川底を踏みつける時間を最短にして、足がすくわれないうちに反対側に足を蹴りだす。怖いので踏みしめたいこちらとは正反対の勇敢なやり方で、桟橋と遊覧船を窮地から救ったのだった。親父の強さを目の当たりにして、戦争経験者は凄い、と改めて思った。

◆親父、100歳の誕生日おめでとう。そっちでも元気にやってますか。会えるまでもう少し時間がかかるけれど、待っててください。そっちに行ったら、二浪したり、本当は跡を継いでほしかったはずだと知りながら、弟の英治に押しつけて家を出てしまったことなど、いろいろ迷惑を掛けたことを、最初にお詫びするので、仲良くお願いします。好きだった二級酒、今はそうそう呼び方はしないけれど、一升瓶でお土産に持っていくので、楽しみにしていてください。では、お元気で。

Photo by 【STINGER】

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