モデム焼失
◆いつだったか、多分1996年だったと思う。関谷さんがホッケンハイムのDTMに参加したとき、CG誌からの取材依頼。会社を止めて独立したばかりだったので、大変ありがたかったが、迷った。なぜなら、鈴鹿の日本GPと同じ日だったからだ。木曜日だけ鈴鹿に顔を出し、”参加”したことにして(笑)、ルフトハンザ。当時は、ネット初心者だったので、その道に熟達したM本H明に、ホッケンハイムのプレスルームで手ほどきを受け、何度も確認してもらってパソコン通信を”完璧にマスターした、はずだった。
◆当時の接続方法は、まず、電話機からモジュラーケーブルを抜いてジャックをパソコンに差し込み、事前に調べた各国各地の地元のアクセスポイントのダイヤルナンバーをパソコンの通信欄に入れてスイッチON。ピ~、ヒャラヒラャラヒャラ~、ジ~~、という祭の笛と電磁石の接点がすれるような音を交互に聞いていると、そのうちつながるのが儀式だった。その間、”つながるかなぁ”と毎回ドキドキしながら待つのである。つながったときは毎回イキそうなくらい嬉しかったが、それくらいつながらなかったってことだ。
◆待つのは長い。しかし、その昔、1960年代のホンダF1時代は、そんなもんじゃなかったことを故中村良夫監督に伺っていたので我慢ができた。当時は、ヨーロッパから日本の本社に電話しようと思ったら、「まず郵便局を見つけて、日本に電話をしたい旨申請する。指定されたボックスで待っていると、やがてつながる。もちろん、時間差たっぷりの会話なので、文字通り話になりませんでしたなぁ」。それに比べりゃはるかにマシだ。
◆しかし、なのである。プレスルームで完璧だったが、ひとつだけ問題が起きた。プレスルームの回線は直通。さらに今でも、周辺の通信状況の中で、最先端がプレスルームなのである。ホテルからの電話発信は、”外線接続”になる。「その場合は、ダイヤル番号の頭に”0-“を付けます。普通の電話の外線と同じです」。HMは、懇切丁寧に教えてくれた。こういう時のHMは、いつもの皮肉王とは思えない超越親切で頼りになる凄くいい人になるのである。
◆レース後、フランクフルト空港の前のホテルに移動して、400字詰め14枚ほどの原稿を書き上げ、いざ送信しようとしたところで問題は起きた。部屋の電話に”外線を使う場合はRボタンを押してください”と書いてあるじゃないか!! グァ~ン。頭の中でドラが鳴った。「ぜ、ゼロじゃないのぉ」と絶叫しながら(ホントに叫んだ)、ゼロの代わりに「R」を入れてみた。つながるわけはない。締め切り時間はもうすぐそこに迫っている。ジャジャジャ、ジャ~ン。キャンディーズなら、「もうすぐは~るですねぇ」と歌うかもしれない。と盛り上がっている場合じゃない。困った。
◆フロントで聞いてみよう。日本の朝の締め切りの前、こちらは深夜をとっくに過ぎたとんでもない時間だが、ビジネスセンターが空いていることを祈った。こういうときには普段の行ないをよくしておくべきといつも思う。無残にもというか当然のごとく閉まっていた。なんとか開けてもらえないかと懇願しているうちに、フロントの隣に電話ボックスがあることを発見した。細かいことはその後のショックで忘れたが、確か、料金を払えば直通だったのだと思う。Rを付けずに発信できる!!
◆接続。ピ~ヒョロヒョロまで、ある時間がかかるのだが、その時間がやたらと長い。これで爆発しちゃったりしてな、と冗談半分でモジュラージャックの位置をフと見たら、冗談言ってる場合じゃなかった。ポワ~ンとほのか煙が立ち上っているではないか!! 慌ててジャックを抜いてフーフー吹いた。冷静になって考えたら、燃えているのをフーフー吹いたら、酸素が供給されてもっと燃えるって!!(泣)。
◆かくてモデムは焼失して、原稿が送れなくなった。当時は、USBなんて便利なものはなく、フロッピーディスクでもホテルにパソコンの設備がなかった。モニターには原稿があるが、世界でこの文章を見られるのはオレだけ状態。全然得した気になれない(←当然だべ)。原稿用紙もない。困った末に、ホテルのメモ用紙が枡目付きであることを発見し、それを拡大コピーしてもらって、400字詰め×14枚ほどを、モニター見ながら、泣きながら書き移した。
◆カーグラフィックの編集部では、データで届くはずの原稿が、FAXで届き、それを担当のO谷君が愕然としながら入力したのだと思う。あの時はゴメンナサイm(_ _)m。モジュラージャックに種類があって、ドイツは電圧が違うことを、そこで覚えた。遅いって!!
その後、必携となったモデムチェッカー。今は無用の長物だがいろんな思い出が詰まった一品(決して逸品じゃない–泣)。