F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集

F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集 F1 STINGER 【スティンガー】  > F1に燃え、ゴルフに泣く日々。 >  >     花輪さん、やすらかに。

	F1で巡りあった世界の空。山口正己ブログ

花輪さん、やすらかに。

◆花輪知夫さんが亡くなった。長く病床に伏していたことを風の便りで聞いていたが、3月21日午後9時25分、急性呼吸不全だったという。残念。

◆現在のチーム・ルマンの母体であるルマン商会を立ち上げ、20代でマーチやローラ、シェブロン、BMWエンジンなどの代理権を取得するバイタリティあふれる方だった。もちろん、レース界にさまざまな影響を与えたが、10年ほど前、箱根の別荘にお邪魔して、昔話を聞かせていただいた。猛烈に面白い話ばかりだった。

◆バテさんと松浦さんが、それぞれ、シャシー専門、エンジン専門になったきっかけの話は、興味深かった。現在、チーム運営を行なうセルモを率いるバテさんこと佐藤正幸さんと、エンジンチューナーとして名高いケン・マツウラでお馴染みの松浦賢さんを連れて、花輪さんは1973年初頭にロンドンのヒースロー空港にいた。その後、隆盛をきわめることになる富士GCのシャシーであるマーチと、BMWエンジンの代理権をルマン商会が持っていた。

◆当時、メカニックといえば、シャシーとエンジンの両方を手がけるのが常識だった。”両方やるからさ、忙しくテバテちゃうから、バテって呼ぶようになったの”。髪が長いからバテレンみたい、ということでバテさんという説もあるが、花輪さんの説の方が話としては面白い。

◆それはそれとして、花輪さんがヒースローに二人を連れて行ったのは、シャシーコンストラクターのマーチ・エンジニアリングと、エンジン・サプライヤーのBMWで、”メカニック研修”を受けるためだった。バテさんと松浦さんは、その代表として渡欧したのだ。

◆”二人一緒に行くより、別々の方がいいんじゃないと思ってさ”と花輪さんは、二人に、「どっちにする?」と訊き、バテさんはマーチを選び、松浦さんはBMWを選んだ。シャシー/エンジン兼用だった二人の以後の人生が、そこで明確に分かれた。二人が違う道を進むようになったきっかけを作ったのが花輪さんだったのだ。

◆麻雀で社員のボーナスを稼いだという逸話もあったが、もっとスゴイ話をしてくれた。

◆1973年、グラチャンに登場したマーチとBMWは、特にエンジンが”ボコボコ壊れて”(花輪さん)、クレームで大変だった時期を乗り越えて、グラチャンのメインシャシーとエンジンとして定着するようになるのだが、その”ボコボコ壊れていた”1973年シーズン前、バテさんと松浦さんの人生を決めたそのロンドンのカジノで、花輪さんは大儲けしたらしい。

◆「ロンドンのカジノでさ、ルーレットやったんだけど、女房の誕生日かなんかの数で買ってったの。一緒にいた風戸や桑島が、”大丈夫ですか。もう止めた方がいいですよ”って心配してたけど、どんどん当たっちゃって、かなりの大金が手に入ったの。カジノを出たらさ、目の前にロールスロイスのデーラーがあったんで、買っちゃおうかと思ったけど、ビーエムのエンジンがボコボコ壊れていたときだからさ、あいつはこれで儲けやがった、なんて誤解されそうだからやめたけどね」。

◆40年前の話である。花輪さんは享年69歳。つまり、それが20代の話だったことを知れば、豪快さを窺い知ることができるだろう。とてつもなく濃い人生、お疲れさまでした。ご冥福をお祈りしますm(_ _)m。

◆通夜は25日(日曜日)18時から、告別式は26日(月曜日)10時から、それぞれ、港区の青山斎儀所で執り行われる。
記事が役に立ったなと思ったらシェアを!

PARTNER
[協賛・協力企業]

  • CLOVER