F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集

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	F1で巡りあった世界の空。山口正己ブログ

“ヤマグチさん、デンポーですよ〜!!”。

20130816初めてのパドックパ.jpg

◆2年後の1976年に編集部員になるなんて夢にも思わなかった『オートテクニック』誌で募集していた読者プレゼントに応募した。当選者一名の、【藤田直廣選手(NOVAエンジニアリング)のピットパス】である。

◆ストレートにシケインが設置されたF2レースで、確か決勝日の日曜日は濃い霧が出ていたのだが、そのことより、思い出深いのは、この日付である。1975年7月12・13日。真夏の土日である。しかし、たった1枚、どうせ当たるわけがない、と思って葉書を書いてポストに入れた。


◆実家はキャンプ場を経営していた。7月といえばカキイレ時だ。中でも土日はピーク。当時400人ほど収容できた50棟のバンガローが満室になる。大学4年の長男のオレは、小型船舶の免許を18歳で取得して、55人乗りの送迎遊覧船の船長を含めた手伝いが必須のマジメな勤労青年だったのである。

◆そういう境遇だったから、それまで夏場のレースを現場で観たことがなかった。入場券を買う金もなかったけれど、それ以前に最初から、土日は拘留状態。ハナからレースを観ることは、あきらめていた。というより考えてもみなかった。

◆レースの数日前の木曜日だったと思う。たぶんその運命の7月10日夜、相模湖郵便局の配達人が我が家の玄関のガラス戸を叩いた。”ヤマグチさ〜ん、電報で〜す!!”。差出人は、文京区本郷の『オートテクニック』編集部。”トウセンオメデトウ。シキュウレンラクコウ”てな電話番号付きの文面だった。

◆当然、家の手伝いが必須な青年は大いに迷い、悩んだ。しかし、ピットでレースを、それも関係者のポジションで見物できるなんて、千載一遇の百倍くらいのチャンスである。オヤジに懇願したが、OKを出せるはずもない。結局大喧嘩して、日曜日だけご相伴に預かることになった。

◆この読者プレゼントが、故本田耕介さんのVICIC(ビクトリー・サークル・クラブ)と『オートテクニック』誌の共同アイデアだったことを知り、終わった後に、素晴らしい企画に対する感謝とお礼を便箋につづってVICICに届けた。本田耕介さんがそのことを大変喜んでくれたことを、オートテクニックの編集部員になった直後に、ご本人から伺ってまたまた感動した。

◆9cm角のボールの紙切れの思い出。こいつと勝負できるインパクトがある出来事に、最近トンと出会っていない。
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