F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集

F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集 F1 STINGER 【スティンガー】  > F1に燃え、ゴルフに泣く日々。 >  >     最高の瞬間をもう一度。

	F1で巡りあった世界の空。山口正己ブログ

最高の瞬間をもう一度。

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1988年モンツァの表彰台を見上げるティフォージ。なんだか涙が溢れて止まらなかった。

◆モンツァは1986年に初めて行った。それまでF1見物は、ロングビーチとラスベガスだけしか行ったことがなかったが、写真家の間瀬明さんが、”やまちゃん、そろそろアメリカは卒業だね”と言って、本場ヨーロッパラウンドのど真ん中であるモンツァのイタリアGPに招待してくれたのだ。

◆アメリカラウンドにはないトランスポーターとモーターホームの”F1村”を初めて拝んだ。腰が抜けてしばらく動けなかった。上の写真はその2年後である。イタリアGPは思い出深いグランンプリである。

◆1986年は、夕暮れ迫るモンツァの森の中のサーキットに、孫娘の手を引いたおばあちゃんが現れて、ホンダのモーターホームで働いていた川井ちゃんに、帽子をオネダリした。川井ちゃんが、F1とサッカーに詳しいヨーロッパで一番売れているピンクのスポーツ新聞”ガゼッタ・デ・ラ・スポルト”のオマケに付いていた帽子をあげると、もらったおばあちゃんは、遠慮がちにステッカーも所望。HONDAのステッカーを渡すと、孫娘の手を引いて、時々振り返って孫娘の頭を軽く押し下げて、グラッチェと何度も言わせて暗闇の中に消えて行った。こんなおばあちゃんを日本で見られるようになる日は来るのだろうか、と思ったのはすでに25年前。いまだにそういうおばあちゃんを日本のサーキットで見たことはない。

◆1987年は、イタリアで人気のネルソン・ピケが優勝した。表彰台の下に集まる大勢のファンの一人になりたくて、群衆に揉まれてその夢を実現した。しかし、表彰式が終わってパドックに戻ろうとしたけれど、トドメを知らない人の大河に押し流されて、思った方向に戻れなかった。なんとか濁流から逃れてパドックに戻って一安心して気がつけば、ポケットからサイフがなくなっていた。

◆翌年は、16戦15勝したプロストとセナのマクラーレン・ホンダが、唯一落したイタリアGPだった。プロストは、エンジンに新たに投入したメカが原因で、プラグの中心電極が溶けるトラブルでリタイアし、セナがトップを独走していた。2位と3位にフェラーリのベルガーとアルボレート。モンツァのファンにとって、2-3位は夢のようなポジションだ。その上アルボレートがファステストラップを記録するもんだからその度に、まさに割れんばかりの大歓声がモンツァの森にこだました。その状態の中でセナが、マンセルの代役としてウィリアムズに乗っていたシュレッサーに接触してリタイアしたのだ。場内は一瞬、シーンと静まり返った。

◆2-3位で充分だったのに、これ以上どう喜べってんだ、というようなムードがモンツァの森を包み込み、観客全員の目が点になった状況が何秒も続いたようでもあり、0.2秒くらいだったような気もする。ともあれ、一端静まり返ったモンツァは次の瞬間、まさに爆発したような大歓声に包まれた。

◆まさにセナのマクラーレンがウィリアムズに接触したその1コーナーで見物していたオレは、表彰台に向かって足早に歩き始めた。同じく、興奮気味の若い日本人カメラマン(誰だったか覚えていない。こっちも興奮していたのでゴメンナサイ)に、前年のサイフ摺り取られ事件を伝えて注意を促し、前年学習していた、前の連中が振り回す旗で全然見えなかったことを活かして、表彰台の反対側のガードレールの上に不安定に立ち上がって表彰式を見上げた。

◆ベルガーとアルボレートが、3位のエディ・チーバーを従えて表彰台に登り、興奮のティフォージが、まさにチフス菌患者のように狂喜乱舞するその瞬間が上の写真だ。全員の手が赤いレーシングスーツを着た二人に伸びる神々しい場面だった。ファインダーから目を離して、何故か分らないけれど”これがグランプリかぁ”とつぶやいたら、涙が溢れて止まらなかった。

◆1986年からの連続見物記録は、去年でストップした。今年は諸事情で、フンギポルチーニとTボーンステーキがおいしいモンツァに行けなかった。来年また、イチから出直しだ。

◆表彰台は、その後、コース上に突き出す形になった。そこを見上げたら、今度はどんな気分がするのだろうか。アロンソとライコネンが1-2だとしたら、と心配しながら想像したら、年甲斐もなく、心拍数が高くなった。
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