マン島の思い出。
マン島TTに初出場したRC142。先行して発送したRC141を4バルブ化、現地でヘッドを組付ける改造作業も河島さんの指揮で行なわれた。
◆ホンダの二代目社長の河島喜好さんが亡くなった。享年85歳。モナコ・グランプリの会場でお目にかかるたびに、奥様と一緒に笑顔を投げかけていただいた。
◆ホンダ創立50周年を記念して制作のお手伝いをしたホンダのレーシング・スピリットを訪ねる企画で、マン島の話を伺った時、青山本社のインタビュー会場のトビラを開けた瞬間に、”あ〜、あなただったの?! なんだ、そうならそうと言ってくれれば緊張しなくてよかったのに”と笑いながら言っていただいた。その一言が、河島さんらしさを現わす印象深い響きで、いまも脳裏に残っている。その時にお伺いした内容も、エンジンを設計されたエンジニアとしてよりも、人として響くエピソードだった。
◆河島さんが、1959年のマン島TTレースの挑戦を前に、英国に渡る部下たちに恥をかかせないようにそして失礼のないようにと、フォークとナイフの使い方を教えたのは有名な話だが、マン島のホテルの人たちにとっても、日本人を迎えるのは初めてだった。
◆”こちらと同じように、あちらも緊張されていたのでしょうね(笑)。いろいろ調べたらしく、布団が床に敷いてあったんですよ。日本人はベッドではなくて、床に寝るというので、気をつかってそうしてくれたんです。ありがたかったですね。おかげで国光(高橋国光さん)たちと、車座になって作戦会議ができました。チーム優勝ができたのは、そのおかげもありました”。
◆1954年に本田宗一郎の名でとうとうとマン島TTレースへの挑戦を謳いあげた”檄文”についての想いも興味深かった。実際には、その文章は、本田宗一郎さんの右腕だった藤澤武夫さんが作ったものだったが、河島さんの想像は、それが出される経緯にまつわるものだった。
◆1948年に、湯川秀樹が日本人初のノーベル賞を受賞し、アメリカの国際水泳大会で古橋広之進が金メダルを獲得した。そのことは、敗戦から3年、荒涼とした焼け野原を前にして殺伐とした日々を送っていた日本人に勇気を与えたのだが、勇気を与えられたその日本人の中に、本田宗一郎さんもいて、河島さんにこうつぶやいたのだそうだ。”オレも、みんなを喜ばせることができねぇかなぁ”。
◆”本当のところはわりませんけどね、私は、オヤジさんが、みんなを元気づけるためにマン島に行くことにしたのだと思います”。
◆マン島には1959年から参戦したが、当時のホンダのバイクは、ノートンやBSAなどの外国製レーシングバイクに比べて、”自転車にエンジンをつけただけのレベルだった”と河島さんはおっしゃった。しかし、ホンダはそこから僅か3年めにして、全クラス制覇という驚異的な進化を遂げた。チャレンジの中心にいたのが、河島さんだった。
◆非常にゆっくりと、低く響くけれどとても優しい河島さんの声が聞こえてくる。日本のレース界から、またひとり、大切な宝が旅立たれた。ご冥福をお祈りします。宗一郎さんとお会いになって、楽しくお過ごしください。合掌。
photo by HONDA