松本恵二さん、安らかに。
最後にお会いした岡山国際サーキットである。新たなカテゴリーであるFIA-F4の記念すべき最初のレースの様子を見届けた。もちろん、傘はDUNLOPの黄色と黒。そして、童夢のロゴが入ったブルゾン。
「ワシを撮っても意味ないやろ」←大有りです!!とフェイスブックにアップした。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=857662697604923&set=a.211361212235078.49160.100000836011102&type=1&theater
◆松本恵二さんの訃報が届いたのは、5月17日日曜日、レッドブル・エアレースの後の食事会の会場だった。
数年前に、ごく親しい友人でさえ連絡が取れない病状だったと伺っていた。その後、サーキットに姿を見せるまでに回復されたのだが、考えるにそれは、みんなに最後のあいさつに回っていたのではないかと思えてきた。
そういう仁義を通す人だった。訃報に触れたとき、愕然としたけれど、悲しさではなく、そういう恵二さんを思って切なさと感謝の気持ちになった。
そばにいらした遺族の方々や、恵二さんの近くで行動を共にした人たち、私が知る範囲では、童夢の創始者である林みのるさんや、アッシーを務めた森本晃生選手などの心中を思うとなんともやりきれない。
松本恵二さんといえば、すぐに思い出す話がある。
◆シルブプレでややないか!!
ひとつは、恵二さんが応援していた中野信治選手が、プロストGPでF1に参戦していたときである。確かブラジルGPでタイヤトラブルが出て大きく遅れた。
中野選手は、レース後に恵二さんに報告の電話を入れるのが習わしだった。その模様を、翌週に富士スピードウェイで行なわれたレースの打ち上げ夕食会で恵二さんが披露してくれた。
「タイヤがおかしいのに、信治はピットインしなかったんや。ピットから指示が出ていなかったから言うてな。だから1周無駄にしたんや。そんなもん、”タイヤがだめや!! もう走れんからピットインする。プリーズ、プリーズ”と叫んでピットに入ってもうたらえかったんや」
そう仰ったので、”フランスのチームなので、英語が通じなかったんじゃないですか?”とボケをかますと、間髪入れずに、「そやったらシルブプレでえやないか!!」と切り返された。
外国が大嫌いで、その前に飛行機がダメでほとんど日本から出なかった恵二さんの口から、簡単なあいさつとはいえ、フランス語が飛び出したのでビックリして、周囲は爆笑の渦に包まれた。
◆あんなに怖いこと、二度とできへんで!!
1983年富士スピードウェイの全日本F2第2戦。ウェットのスタートで、ジェフ・リースが1コーナーでスピンして、縁石に”亀の子状態”で乗り上げてストップ。赤旗が提示されてレースは中断して再スタートになったのだが、この裁定を巡って、競技長と、星野、中嶋、松本が猛烈抗議を行ない、なんと、レースをボイコットして帰ってしまったことがある。
紛糾する競技長とのやりとりの中で、恵二さんの捨てぜりふが「あんな怖いこと、二度とできへんで!!」だった。
恵二さんの言った”あんな怖いこと”は、てっきり、スタート直後、水煙の中で1コーナーに向かう危険な状況を指しているのかと思ったが、後に恵二さんに伺って違うことを知った。300Rで、トップの星野と並んでブレーキング競争になったそのことだったのだ。
ヘアピンを立ち上がって、下りながら緩く右に曲がり込む当時の300Rは、水はけが悪く、雨が強まると川ができることで知られていた。フレッシュマンレースのドン速でも、股間が縮み上がる怖さである。それをF2で、トップ争いをした。あの恵二さんが、”怖い”と言ったのだから、相当な度胸試しだったのだ。
星野と松本の”度胸試し”は、イン側にいた星野に軍配が上がったが、恵二さんに敗北感はなかった。あれ以上できないことが分かっていたからだ。星野-松本のライバル関係は、星野-中嶋とは一味違う趣があった。
◆1コーナーまで1時間
F2時代のレース後に、童夢の林さんに電話でレースの報告をするのが、恵二さんのルーティンだった。林さんは、「そりゃ、スゴイで、恵二の分析は。いつも、1コーナーにいくまでに1時間かかるんやからな」とジョークを仰ったが、恵二さんの真摯なドライバーとしての姿勢を伺わせる逸話である。
カメラマンの友人は、”いつカメラを向けても、どんなときでもかっこいい人だった”と松本恵二を表現した。恵二さんは、隙のない存在だった。
いまはただ、毅然とした一生から開放され、ゆっくりされることを祈るばかり。
恵二さん、ありがとうございました。
安らかにお休みください。
合掌。