片山義美さん訃報
あの、マツダの侍、片山義美さんが亡くなった。3月26日のその訃報に触れたのは4月7日だった。神風と言われた度胸が服を着て歩いているような片山さんらしくなく、しかし、寡黙という意味ではまさに片山さんらしく静かな別れになった。
思い出は山ほどある。とはいっても、片山さんが頂点に君臨したのは1970年を境にした頃であり、1976年からこの世界に入った新参者は、特に、マツダ・ワークスのエースとしてGT-Rとの壮絶な闘いを展開した最盛期は、金網の外からしか拝見していない。マツダ勢の中で一人だけ別格のオーラが出た方だった印象が深い。
実をいうと、私はニッサン・ファンだったので、ロータリーエンジンという、なんだかズルイと思えてしまうエンジンを積んだマツダがあまり好きではなかった。
スタンドで応援していると、最初は周囲のほとんどがGT-Rファンだったのに、ロータリークーペからサバンナRX3に移行してスピードをつけていい勝負をするようになるにつれて、マツダ・ファンの数というか声援が増えて行き、GT-Rが50連勝を達成するものの、サバンナに軍配が上がり始めた1972年の終わり頃には、両車のスピードをそのまま反映するように、マツダ・ファの方が多くなった気がして複雑な気分になったことを思い出した。
スーパーツーリングと呼ばれる富士グランチャンピオンシリーズのサポートレースが大好きだった。
グランドスタンドで観ていると、ロータリーのパワーでストレートで速いサバンナがバンク手前までに前に出るのだけれど、テクニカルなS字でなのかその手前のバンク内なのかスタンドからは見えないけれど、ふたたびスタンドから見えるヘアピン手前に姿を現す100R出口では、”熟成した足を活かして”ポジションを逆転して、GT-Rが前にいる、という展開がどのレースでも定番だった。
熟成という言葉はGT-Rで覚えたと思うくらい、GT-Rに似合う言葉だったが、熟成もやがて、新進気鋭のロータリーエンジンの前に為す術なく終焉を迎えることになる。
ニッサンとマツダは、それそれ、名うてのドライバーを揃えて闘った。ニッサンは、高橋国光、北野元、黒澤元治、都平健二、長谷見昌弘などの職人的精鋭、対するマツダは、片山義美さんを中心に、武智俊憲、従野孝志、増田建基、岡本安弘、寺田陽次郎の”チーム戦”を展開した。
チームはある時には、調子が上がらないマシンをピットインさせて、1周待って先頭グループの前でピットアウトさせ、よく言えばブロック、悪く言えば邪魔をして自分たちに有利な展開にしようとしていた。それは観ている我々をある種プロレス的に引き込む魔力を持っていたが、ニッサン・ファンの記憶の中では、そのズルイ行為のほとんどがマツダ陣営のものだったが、片山さんはそうしたことを一切しない正々堂々とした武士に見えた。
これまで300戦ほどのF1GPを含めて世界中のレースを見物してきたが、スーパーツーリングは、”このレースなら世界中の誰に見せても自慢できる”と思える面白さだった。
一昨年だったか、どこかの席でご一緒した時に、[STINGER CLUB]でいつか囲む会をお願いしますとお伝えしたら、ニコニコしながら、私なんて誰も興味がないですよ、とおっしゃった。思わず、「片山さん、自分が誰だかご存じないでしょう?!」とボケをお伝えしてしまったが、囲む会はもう叶わなくなった。
片山さん、たくさんの思い出をありがとうございました。安らかにお休みください。