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	F1で巡りあった世界の空。山口正己ブログ

思い出のグランプリ(3)初めて観たF1バトル–1974年F1デモラン

その2からつづく)

富士スピードウェイにやってきた5台のうちの1台はワールドチャンピオンのエマーソン・フィティパルディのマクラーレンM23。

1976年日本GPで初めて生のF1を見てから43年が経過した。その間に、ざっと300戦ほどのF1GPを覗いてきたが、それぞれ思い出深い。

ひとつ選ぶとすれば、初めて生で観た1974年のF1だ。いや、日本に初めてF1GPがやってきたのは1976年だろ、というアナタの指摘は正しいが、その前に、同じ富士スピードウェイでF1マシンと現役F1ドライバーによるデモランが行なわれたのだ。そこでは生まれて初めてレースさながらF1を観て、あまりの凄さに腰を抜かした。

◆私が初めて観たF1GPレースは、1976年10月の日本GPだが、富士スピードウェイスでその2年前の1974年11月23日、富士グランチャピオン最終戦のサポートイベントとして、5台のF1マシンが来日してデモンストレーションを行なった。その時は、2年後に日本GPが行なわれることなど知らなかったが、現役F1ドライバーとその年のF1を走っていたそのまんまのマシンが富士スピードウェイにやってくると聞いて、富士スピードウェイにすっ飛んで行った。

◆姿を見せたのは、以下の5台。
*エマーソン・フィティパルディ(マクラーレン)
*ロニー・ピーターソン(ロータス)
*パトリック・デパイエ(ティレル)
*カルロス・ロイテマン(ブラバム)
*ジェイムス・ハント(ヘスケス)

◆ちなみにこの5人は、1974年ワールドチャンピオンのフィティパルディを筆頭に、シリーズランキングのトップ10のトップドライバー、ハント以外は優勝経験者だった。最終コーナーで観ていたら、タイヤが半分ダートにはみ出しているのにカウンターステアを当てたままアクセル全開で立ち上がっていくF1マシンの性能とドライバーのテクニックに度肝を抜かれた。

◆実はその日は、2年後に富士スピードウェイでF1GPを開催するために、F1の開催権をもっていたバーニー・エクレストンと日本側の窓口になっていた写真家でもあり、バーニー・エクレストンの友人でもあった間瀬明さんが、実績を創ってF1GPを実現するためのいわばこけら落としとして画策したものだった。

◆当時、日本のレースを統括するJAFは、やけに規則にうるさく、結果として排他的になり、F1を含めて海外のレースを国内で行なうことに対してある種の嫌悪感をもっているかのような対応で、F1は歓迎されたというよりお荷物的な存在だった。慣れないレースを主催して、責任をとりたくなかったのかもしれないが、ともあれ、当初は模擬レースとして5台を走らせる計画は却下され、デモランなら、ということで認可が降りていたのだった。

◆しかし、前日の記者会見で、エクレストが、「明日は全開のレースをお目にかけますので、F1の魅力をたっぷりお楽しみください」とJAFの役員が同席した記者会見でぶち上げて、その通りの模擬レースを敢行してしまったのだった。まさに、エクレストンと間瀬さんの作戦勝ちだった。

◆当時の日本でのF1は、1カ月遅れでテレビ放映されていた時代にそういう強烈な“バトル”を見せられた高校生の私が、腰を抜かしたのも道理、というわけだ。同時に、主催者やJAFサイドにも、F1開催の機運がジワリと高くなったのだった。

◆その2年後に、無事に日本で初めてのF1GPが富士スピードウェイで行なわれた。初年度のF1は、酷い雨に祟られ、翌年の1977年には、前車に追突してジャンプしたマシンが、1コーナーアウト側の立入禁止区間に入り込んでいた観客に飛び込むアクシデントが起き、やっと来日したF1GPは、2回だけの開催で中断となった。

(その4につづく)

photo by McLAREN

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