リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第65回
三たび方向転換を探る日本グランプリ

ビッグマシン/ハイスピードの後遺症

――1966年に鈴鹿から富士に舞台を移した日本グランプリは、広大な富士スピードウェイのコースに影響され、参加車両は年ごとに排気量をスケールアップしてゆきました。我々ファンはその迫力に興奮しましたが、1969年を最後にその勢いは終焉を迎えることになってしまいます。我々ファンとしては残念なことでしたが、これはどう見たら良いのでしょうか。

「状況からすれば、その通りでしょうね。ガッカリするのも無理はない(笑)。また一気に燃え上がった1969年GPの光景が、ファン目線では次回1970年GPは更にエキサイトするような期待になるのは当然でしょうが、1969年日本GP直後から呆気ない結末への方向が出てしまいます」

――あの狂喜ともいえる大迫力のスピードドラマが呆気ないという表現に変るとは(笑)。

「まあ、表現のしようが難しいですが、大花火大会で夜空に目一杯乱舞と轟音のフィナーレに歓喜した観客は、元の静かな夜空に戻った瞬間、呆然たる気持ちと、まぶたに残る先ほどまでの光景に酔いしれる、という状況に似たものでしょうね。ただ、GPの花火は二度と夜空を彩ることなく終わってしまいましたが」

――なるほどぉ。終焉の原因はなんだったのでしょうか?

「簡単に言えば"この大騒ぎは何だったんだろう!?"ですよ。それはちょうど、1964年に鈴鹿サーキットで行なわれた第2回日本GPが、日本の全メーカーを巻き込む覇権争いになってしまい、その反省がGP休止になる内容に似ています」

「1969年日本GPでは、決勝日寸前に急遽5000㏄から6000㏄エンジンに変えて冒険的勝利を掴んだニッサンと、最初から一貫して5000㏄で一周遅れの3位に甘んじたトヨタ7を対比すれば、"ニッサンが勝った勝った"といった評価もないし、どこが凄かったかとなれば、数々の大排気量マシンが野獣の如く咆哮し荒れ狂う爆走シーンに観客を取り込み、"これがレースというものだ!"と印象づけるように終わってしまったように思えてならないのです」

――う〜、確かに仰るような印象をファンとしては持ちました。

「つまり、トヨタ、ニッサンはGPの勝ち負けにこだわらないと言えば嘘になるでしょうが、両者とも本場のCAN-AM参戦への意欲がちらつき始めた時期の日本GPであることを考えれば、GPに費やしたエネルギーは膨大な成果に変わるでしょう」

――メーカーチームにとっては大きなメリットがある?

「ですね。それに対し、タキ・レーシングや黒沢レーシング初め、メーカー外の参加者にすれば、一番の目標は打倒ニッサン、トヨタ、それが叶わなくてもメーカーチームの一角を崩すぐらいのことはしたい野心はあります。それが達せられればスポンサーもつき、ニューマシンも買え、次回GPがビッグマシンであったとしてもGP常連チームの活動は続けられます。しかし、CAN-AM規模のレースに出られるマシンは買えるにしてもそれは商品であって、億の桁を開発につぎこむメーカーマシンには到底かないません。まあ、たまには街のコンストラクターマシンが名だたるメーカー勢に煮え湯を飲ませるシーンもありますが、レースの進化は両者のレベル差をどんどん広げて、"何千万ものゼニ叩いてメーカーに立ち向かうとは偉いヤッチャ"の称賛もなく、結局はメーカーの盛り上げ役で終わってしまうのがはっきりし出したのです」

「もっとも、いかに凄っごいマシンを揃えてもメーカーだけの出走ではレースになりません。そこに、主催者の車両始めレース規則の工夫でより多くが参加する・したい、をカバーする才覚が重要なのですが、残念ながら期待できるものはなかったですね」

「したがって、CAN-AMづいたメーカーがやめる筈がない、のGP運営方針が主流である以上、次回GPも同じレベルで続くとしたら、"いくらカネをかけたって勝てっこない、いや勝てない。それより、メーカーマシンに追従できるレベルのマシンを買うにしても千万単位のカネでは買えっこない"。結論は、出来ない・参加したくない、やるだけの意義がない、という意見が急速に高まって、1970年10月に開催予定のGPは中止となり、GPはまたもや存続危機を迎えるのです」

――結局、プライベートが参加できないようではGPは成り立たない。

「プライベートといったって、千万単位のマシンが買えるチームのことで、ホンダのエスハチ(S800)が買える買えないというレベルとは違いますよ(爆笑)」

「やはり、メーカークラスやそれに近いチームとか、ある程度レベルが揃わないと。要するに、この時代、チームが増えたとはいえ、それはビギナークラスであって上位レベルは数える程度しかなかったのです。これだったら日本カンナムを日本GPにしちゃって完全な興行(見世物)にすれば良かったのに(爆笑)。そうそう、GPが中止はビッグプライベートチーム達の活動が続かないことを地で行くように、翌年中旬だったかな、タキ・レーシングが解散しましてね」

――一世を風靡したタキ・レーシングですね。倒産だったのですね。

「倒産というのかどうか、とにかくチームを解散する、もうレースはやらないって。瀧さんが個人レース始めたのが1965年だから、それからポルシェカレラ6を買って1966年のGP、次の年にチーム立ち上げたけれど2年で終わってしまいます。結局、国内のサンデーレースや選手権シリーズのようなレベルでの活動なら継続できても、国内外のメーカー、あるいはそれに準じるマシンとドライバーが中心のGPやビッグレースで活動できるチームは少なすぎるのです」

「日本は経済大国といっても個人的に裕福なお金持ちは少ないし、欧米の有産階級とはケタが違いすぎる。まあ、そうした国の税金制度で貧富の均衡を図り普通人が主流ですから、個人の財力・見識をスポーツ、芸術、福祉などに活かし普及に尽力できる背景が薄いのです」

――そうなると1969年日本GPのようなレース活動が継続できるようなエントラントは、減っていくわけですね。

「そうですね、とくにビッグレースにも出られる活動内容のチームですが、それにはGP初めいくつかのビッグイベントの運営が、ドライバー、メカニックも、またマシンオーナーも、チーム全体が継続活動できる最低限の費用が得られ、勝てばそれなりの賞金がボーナスになるような運営体制にしなければダメでしょう」

「サンデーレースのようにレジャーとして個人の出費で参加できるレースが底辺にあって、その頂点にレースで食えるプロシステムが日本には今でも育っていないのです。1969年日本GPが凄かったといっても、ドライバーへの優勝賞金は300万円で、GP以外のツーリングカークラスでは15万円!ですからね、話になりませんよ。まあ、勝つのはメーカー所属ドライバーですから会社から大枚もらっているから良いじゃないか、の理由がなりたった時代ですが、それは根底から間違っていますよ」

――なんだか、そのままの流れで、現代の日本のレース運営内容にもつながって、問題大有りですね。

「これは1969年日本GPの話に限ったことでなく、レースには賞金が付きものですから賞金額が大きいに越したことはありませんが、賞金だけでなく多くの観客に観てもらえる、スポンサーになってくれるレース全体の仕組みをリストラしないとレースは廃れますね」

「日本のGPも6回を数えたものの、旧態依然の運営内容に平均年収数十倍のビッグプライベートチームオーナーやドライバーも、さすがにカネが続かなくなってしまったのです」

「さらに、米国では数年前から検討されていた自動車排気ガス規制が実施されることになり、この規制値をクリヤーしないと米国への輸出はダメ。米国市場が頼りの日本のメーカーはこの対策への技術開発が急務になったのです。これは1970年5月に行われたJAF・GPの直後に起こった出来事で、日本の自動車製造技術の試金石にもなる大問題だったのです」

――社会情勢の煽りを受けるわけですね。

「ニッサンもトヨタもプライベートチームのGP撤退に拘わらず、6月の全日本富士300マイルレースで、半年前のGPで優勝のR382を2台出走させてワンツーフィニッシュのニッサンが開発中のR383、7月の富士1000kmレースにデモ走行ながら姿を現した新型トヨタ7ターボ、どちらも米国市場拡大の尖兵としてCAN-AMへの本格参戦する準備が進んでいたと言われる時期ですから、両者のデモンストレーションが華々しくなりそうな傾向にあったのではないでしょうか」

――当然、1970年10月の日本GPへの参加は決まっていても、ビッグマシンのプライベートは欠場ですから、メーカーだけのGPになりそうで。

「プライベートの大御所が不参加表明だからGPは中止なんてヤワな主催組織じゃないですよ(笑)。これをチャンスに出たがる新たなプライベートも現れるし(笑)、メーカーはレースの舞台があれば覇権を懸けるものです。ところが、GPが中止になり、その原因は富士スピードウェイとJAF(日本自動車連盟)の間で、コースレンタル料金問題が発生したとされるのですが、確かにそういったやり取りがあってもおかしくありませんが、決定的なのはニッサンが排気ガス公害対策を優先して、R383の開発中止を決定した」

――ニッサンは、1970年6月8日に1970年の日本GP参戦を取りやめたことを発表し、9月21日にR383の開発中止を伝えました。

「トヨタも同じ状況であったところに惨事が重なったことが、事態に留めをさした形です」

――8月に、トヨタ・ニュー7がアクシデントを起こしています。

「69年日本GPで3、4、5位に入、その後の日本CAN-AMで優勝したトヨタ7のV8気筒DOHC 5000㏄エンジンを、ターボチャージドに開発して530PSから800PSの大馬力に高めたトヨタ7ターボの最終的テストと言われる試走を鈴鹿サーキットで行っていたのですが、ドライバーの川合稔が原因不明のコースアウトで死亡(享年27才)しました。前年(1969)2月の福澤幸雄の事故死に続く惨事でした」

1969年日本CAN-AMで、本場のマシンを破って優勝したトヨタは、ターボでパワーアップしたニュー7でCAN-AM挑戦を目論んでいた。

――R383もターボでしたが、川合稔のアクシデントは、ショッキングなニュースとして伝わりました。なんだか、"ターボ"という響きは、魔物のような印象を覚えました。

「結局、トヨタもニッサンも10月のGPやCAN-AMへの挑戦どころではなく、両者ともGP不参加を表明。ビッグマシンGPはモンスターがあえなく滅びる如く破滅したのです」

――余りにも強烈な印象が残るGPが、とてつもなくでっかいモンスターが崩れ去るアニメを見ているようで、茫然自失だったことを覚えています。でも、それでGPが消滅したわけでなく、従来のレースカテゴリーとは異なる内容のGPが始まるのですね。初回のGPから4度目の変貌ですが3度目の正直は過ぎてしまいましたから、4度5度があるのかどうか。

「こうなったら4度でも5度でもいいですよ、落ち着く所まで行っちゃえば(爆笑)。やはりGPは看板だし、おカネも入るイベントだから失くすわけにもいきません。ただ、ガラリと変えるにはいい機会です」

――それがレーシングスポーツカーからフォーミュラカーへの転進になるわけですね。

「このストーリーで何度か話しましたが、GPの在り方を巡ってどのマシン(クラス)を頂点に置くのが良いのか、それぞれの立場から言い争われてきました。とくに自動車レースとは何ぞやとなれば、市販車向上への技術進歩、レーシングで培った技術を市販車にフィードバックすること、が第一義に日本の自動車レースは始まったわけです」

「さらにレースを支えるには自動車メーカー及び関連産業の協力が不可欠ですからクラブマンの理想よりか、日本内外の市場戦略に有利な商品開発に役立つ技術開発、また、自社技術の優秀性を誇示する舞台としてのレースでもあります。結局、そういったレース界の背景で日本GPは二転三転してきたのですが、1964年にホンダの電撃的なF1参戦の影響は大きく、日本に入る国際レースの情報が一挙に増えたこともあってGPへの考えも変化してきました」

――これは度々話しましたが、私が高校生の頃レースにのめりこみ、1968年日本GPになると、ビッグマシンが登場し、翌1969年にはビッグというよりモンスターばかりになってヒョーッ スッゲースッゲーって(爆笑)となった。
次のGPはもっと驚くようなことが起きると思っていた、というより期待していたのですが、事態は思わぬ方向に向いてしまった。その影響で日本GPは又もや混迷するようですが、このままでは日本のレースは国際化に向かえないような心配があります。

「編集長の言われる通りです。日本のレースはどうなるのか、ガラパゴス化してゆくのか検証していきましょう」

――よろしくお願いいたします。

第六十五回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com


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