リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第83回
モンスターマシンと小排気量/プライベートマシンの混走は可能か

スケールの大きいサーキットが大排気量マシンのレースを標榜するのは当然だが、GPの度に参加者を集めるのは大きな問題だった。ビッグマシンを投入するメーカーも幅広い参加車両を確保するにはそれなりの体制やサポートも欠かせないことを考慮しつつ、1970年GP実現に向けて進んでいったが。

◆参加規定の改革案で1970年日本GP開催の意気込みは?

――どんなにやりくりしてもビッグマシンだけでレースを成り立たせるのはムリなんでしょうね。やはり、大中小それぞれ異なる排気量でも参加可能なレギュレーションでなければ参加者は集まらないようです。

「ええ、そこで、1970年GPは、前年の轍を踏まないよう小排気量車の参加を排除するのでなく、予選通過基準を予選総合1位のタイムの125%以内という基本条件を決めたのです」

――そうなると、具体的にはどうなりますか。例えば1969年GPのポールポジションは北野元&横山達組の日産R382の1分44秒77ですから平均速度194km/hくらいですか。

「そのくらいになるかな、125%となれば2分10秒ですね。と、なるとロータス47GT(高野ルイ&吉田隆郎組の1600ccのプライベートエントリー)が2分03秒、いすゞベレットR6(米村太刀夫&粕谷純一郎組の1600cc ワークス)辺りで2分06秒で、プライベートマシンに多く見られるフェアレディー2000やホンダS800などのエンジンでは、大方2分12秒くらいが限界でしたから、エントリー段階で参加断念になるでしょうね」

――それではプライベート・チームは殆ど切り捨てになってしまいますね。

「それと〈GP周回数は前年の120周から134周〉に増えていて、前年優勝の黒沢元治・ガンさんが、一人で3時間42分を走り切っちゃって、運転交代すべき砂子義一・ヨッちゃんの出番がなかったりもあって、『2名が交代でドライブしなくてはならない』、という規定にもなりましてね」

――134周って随分半端な周回数ですが、、何か意味あるんでしょうか?

「これもねー、当時の富士SWは1周が6㎞でしょ、これを134周すると804キロ、マイルだと502.5マイルになるのです」

――なるほど、なるほど!! 米国の長距離レースに多い500マイルですね、そこまで考えられていたのですか!!

「いやいや、考えていたかどうか知りません、が、そうゆうハ・ナ・シ(笑)偶然じゃないですか(笑)」

――偶然では でき過ぎですね(爆笑)。

「まっ、その邪推は別にして、日本の最高峰レースである日本グランプリが、米国カンナムレースに触発され、日産R382やトヨタ7の5000㏄、6000㏄大排気量マシンでなければファンの心を掴めないようなイベントになってしまいましたが、観客はわんさか押し寄せる。モータースポーツの振興なんて綺麗ごと言ったって、観客が来ないなら継続なんかできませんよ。メーカーだって億単位の開発費で製作のマシンを年一回のGPだけに使うなんて考えられませんよ」

――当然にカンナム挑戦の考えだって出てきますね。

「そうでしょうね、であるならば、GPもカンナム企画の一環であった方が都合良いですし、それに沿ったレース内容でなければ参加しにくいでしょう。どうしたって、そちらの要望に適ったイベントになってしまいますよ」

――そうなると今までの日本GPの存在意義は根底から崩れ、最高レベルのロードレースを目指すとともに、より多くの参加が可能なレギュレーションから、より最高レベルのマシン/チームが参加し易い内容が優先されるのでしょうね、そうなると参加窓口は狭くなる。

「その通りで、僕が喋る場がなくなっちゃたけれど(爆笑)、必然的に主催者はJAF(日本自動車連盟)でも、実際にレースを運営する人達は有力な自動車スポーツクラブの面々ですから、日本GPとは何なんだ、日本の自動車レース普及の頂点として位置づけられたGPが参加メーカーの意向と興業化の内容の強まりに、疑問や反論が大きくなってくるわけです」

――日本GPの全面的改革が出てくるわけですね!!

1960年代終盤を彩ったビッグマシンは、恐竜のように消滅の命運にあった。写真は、1969年グランプリの後、CANAM参戦をめざしてリヤウィングを装着してテストを進めるニッサンR382。以後、ビッグマシンは姿を消した。

1960年代終盤を彩ったビッグマシンは、恐竜のように消滅の命運にあった。写真は、1969年グランプリの後、CANAM参戦をめざしてリヤウィングを装着してテストを進めるニッサンR382。以後、ビッグマシンは姿を消した。

◆説得力が弱まるモンスターマシンの開発意義

「いや、そんな高度な話でなく(笑)、結果は、オイルショックは少し先の話ですから置いといて、米国の排気ガス制限の法制化が想像以上に進んで、これにパスしないと米国市場に入れない状況になってきます」

――う〜ん、これは問題ですね。

「日本のメーカーには深刻ですよ、最早、レースどころじゃあない。で、モンスターマシンのGP不参加が決定的となる。さらにリッチなプライベートチーム、と言いつつ、実は青息吐息の内情だったんじゃないのかな、こちらも“大メーカーが出ないのなら張り合いがない”、なんて強がり言って不参加。さー、こうなると主催者だって富士SWだって、どーしたもんじゃろー、だね」

――ならばフォーミュラカーで。

「あのねー、そう都合良くは進まないのよ、どーも編集長は気が早くて(爆笑)」

――すんません(笑)。

「いいんですよ肝心なことが早いのはね。それで、“ビッグマシンが出ないならGPにならないなんておかしい”という声が高まって、今までのGPでGPⅡやGPⅢクラスに参加していたプライベートチームを中心に参加者が増えそうな雰囲気になってくるのです」

――お〜、頼もしい動きですねー!!

「そうなのですが、案の定、エライさん達は“ビッグマシンが揃わないと観客が来ないだろう”ということで、早々にGP中止の結論になっちゃった。じゃあ、これからの日本GPはどーする?ということで、すったもんだして」

――ビッグマシンにはそれなりの迫力がありますが、元々2000㏄、3000㏄のR380やポルシェ・カレラ10などのレーシングスポーツカーがGPを牽引してきたのですから。

◆フォーミュラカーGP構想

「編集長の仰る通り、少し前の内容に戻そう、の話も強かったようですが、色々な意見が出る中、ようやくフォーミュラカーの話が浮上するのですが、元々フォーミュラカー普及の意見は小さな存在でね。1966年に鈴鹿サーキットから移った富士スピードウェイ初のGPで、フォーミュラカーといっても最初は“ビッグコースに不向きではないか”で、エキジビションレースでした。ところが、翌年も続けるとなったら鈴鹿サーキットが保有していたブラバムのシャーシーにプライベーターが様々なエンジンを搭載したフォーミュラカーが結構な台数になった。まあ、これには鈴鹿が逸早くフォーミュラカー・レースを始めた影響が大きいですが、何となく新たなカテゴリーの先行きが見えだしたようでした」

――その背景には三菱のサポートも。

「そうです。これは以前にも話しましたが、三菱自動車が同社市販のコルト1000㏄エンジンをチューニングし、シャーシーも自ら製作したF3規格のコルトF3Aを登場させるなどフォーミュラカーレース普及への姿勢を打ち出しました」

――そういった動きがエキジビションから次々と格上げされて。

「ええ、エキジビションがフォーミュラカー・レースになり、さらにスピードカップ・レースに進化してJAF GPに成長する。ちょうど、イナダがワラサからブリになる出世魚みたいだね(爆笑)」

――地味にコツコツ辛抱強くのし上がっていった(笑)。

「まあ、そういった背景が新たなGP問題で浮上したのかもしれません。既に日本GPとなれば、速さ、ド迫 力なマシン、空気をふるわす排気音など、ビッグ2シーターでなければならないような見方になってしまいましたから、果たしてフォーミュラカーレースがGPにふさわしいのか疑問もあったでしょうね」



第八十三回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com


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