リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第89回
JAF GPから日本グランプリへの転機を前にして

◆絶好のマシンテスト

----前回の話で、童夢の創始者である当時マクランサの代表だった林ミノルさんから譲り受けたアルファロメオの1600ccエンジンを搭載したマシンで、マカオGPにも参戦することになったお話でしたが。

「そうですね、ただ、このMWCは日本GPを中心に日本のモーターレーシングの移り変わりを語っていますから、あまりマカオのことになると本筋を外れてしまいますので」

----そうなのですがJAF GP後のフォーミュラカーによる大きなレースはありませんから、その合間を利用してマカオへの参戦になったのではないでしょうか。

「確かにそういった時期だったのと、翌1971年5月のフォーミュラカーによる新装日本GPには半年以上の空きがあって、その間にフォーミュラカーの大きなレースがないこともあって、マカオへの参戦になったのは自然の流れでもありましたのでさらっと触れてみましょう」

----いえいえ、さらっとでなくタップリ、タップリで(爆笑)。

「おやまあ、これじゃあ歌舞伎の大向こうだね(笑)。第一にレーシングカーを船で送るのは大変な作業でね、木枠で土台を作りマシンを乗せ、その左右/天井を板で囲み木箱の状態にして香港に送るのです」

----フムフム。

「それが香港に届いたら、ホンダと日産のデーラーをしている友人に港からの引き取ってもらい、木箱から出して保管してもらうのです。香港からマカオへはレース主催者が手配する貨物船で送るのですが、その船積みの波止場にマシンがずらずら並べられると新聞記者や色んなメディアがわんさか駆けつけ、もう取材合戦が始まって」

----へーえ、香港から、また船でマカオに送るのではレース場に着くのも大変ですね。

「そう、一遍に数十台のマシン運べないから何艘もの船で、夕方に出港の船が翌朝マカオの港についてマシン引き取り、現地デーラーのガレージや参加者の中にはホテルの中庭を整備場所にしちゃったり、もう大変(笑)」

----う〜、凄いですね。

「コースは街の中の一般公道だから、レース一週間前から一日何時間か道路を閉鎖して公式練習が始まりますが、その頃には、メディア情報で知った有力なマシンの偵察に、ドライバー仲間やチームマネージャーらがウロチョロし出すのです(笑)」

----早くも敵情視察が(笑)。富士スピードウェイや鈴鹿でも、相手のピットをチラチラコソコソ覗き回りますから同じですね。

「そうだね、でも、こっちでは平気で何馬力?だのエンジン重量は?なんて、ずけずけ堂々聞きにくる(笑)。その点1967年の時、いかにも日本の会社人間らしい技術者風の2〜3人が、あちこちで外国製フォーミュラカーを調べまくっていて、それがコソコソ、時には無作法な所作がみっともなくてね、現場のドライバーやメカ達なんか、最初っからスパイを見抜いてんのね(爆笑)。翌年(1968年)に参加した2台の三菱コルトF2を見て、“やはりコピーマシンだ”って冷笑されて、カッコ悪かったなー(笑)」

----まあ日本のお家芸ですから(苦笑)。

「とくに僕がブラバムシャーシーにアルファロメオのエンジンを積んでいるのがあっという間に広まっちゃって、へーイ、 リッキーなんて、やたらに集まってくる。アルファのジュリアだったかな、GTカークラスでは強いし、タスマンのフォーミュラに8気筒のアルファエンジン積んだのもあるからアルファロメオというのは人気も注目も大きいってこと初めて知りましたよ」

----完全なライバルにされてきた。

「うん、僕がマカオに出だした最初は、“ジャップの小僧、1、2回こっきりで止めちゃうだろう”なんて思われたらしいんだけど、もうオフィシャルもトップクラスのドライバー達も、すっかり対等なGPクラスのドライバー付き合いしてくれるようになって嬉しかったですよ。アルファを良く知っている人が多いから“アルファ・エンジンはここが弱いから、こう扱った方がいい”なんてアドバイスもらったり」

----なんか、いい雰囲気ですね。

「こっちは注目されてんのか、乗せられてんのか、かまっちゃいられない(笑)。とにかくエンジン載せるのに精一杯でろくに走ってもいないんだからね。でも富士SWの短い試走でコルト1600の標準的タイムの1分52秒には届かないけれど、コンレロ指定の設計図にあるエンジン排気管とマフラーが付いていれば同等のタイムが期待できそうなことも解ってきましたねー」

-----なるほど、そうなれば一刻も早く走らせたいでしょうね。

写真1

第二次世界大戦に関わった敗戦国日本から外国への渡航制限が徐々に緩和され始めた1965年、リキさんは金原達郎氏のプライベートチームから英国製トライアンフ スピットファイヤー(1200cc)で第12回マカオGPのスポーツカークラスに参戦、クラス優勝、総合6位を獲得。クラス優勝及び総合上位入賞者はGPクラスに出場できる規定からの参加申請は理由不明の却下。この時以来、リキさんは敗戦国民、言い知れぬ差別の壁を感じつつマカオへの参戦を続け、仲間と認められるには数年かかったといい、大きなリスクを伴うレース界の一端が窺われる。

写真2

ロールバーに手をかけている青年は、レーシングメカニックの第一歩を記し、後にノバエンジニアリングを設立の猪瀬良一氏。

◆マカオも富士スピードウェイもコースの長さはほぼ同じ6km

「そりゃあ、どこのチームでも同じで、ドライバーなら誰だってそうゆう気持ちでいっぱいです。でも先に話したようにマフラーなど肝心なパーツが揃っていませんから、イタリア語で何て書いてあるのか解らない設計図を下にウチなりの製品で、暫定的に作った排気構造のままでガマンするしかないから余計に心配ですよ。それでも、エンジンは良く回るし、走行に危なっかしいこともなく安心できる状態だから何とか安心してね」

----三菱と同等程度といいますと1分52〜53秒、ですか? マカオのギアサーキットも富士の一周と同じ6kmくらいだったと思いますが。

「一周距離はほぼ同じ6㎞ですが、富士では6個のコーナーにだだっ広いコース幅で超高速が可能、マカオは街中と高級住宅街の公道で16のコーナー、道幅も2車線以下だから、6㎞の長さでの比較は無意味です」

----なるほど。

「1600ccのエンジンのF2であれば、ラップタイムは富士なら1分52秒辺り、それに対しマカオでは2分55秒くらいで、1分の差ですから、燃料消費量もギヤレシオもドライビングテクニックも、丸っきり異なるのです」

----両方とも一周距離は大体同じとはいえ、そういうことになるのですね。周回数や出走台数は?

「僕が最初に出た時代は60周360㎞! それで50台位が同時スタートだからゴチャゴチャ(笑)。その時代の一周タイムは3分30秒位だったですからレースの終わりまで3時間近くかかってね、大方午後1時半ぐらいにスタートするとゴールの頃は秋の夕暮れになっちゃって(爆笑)」

----大変なレースだったのですね!!

「そして、エンジン排気量は無制限!フォーミュラカー、GTカー、レーシングスポーツカーなど、ツーリングカーは除いて車種はゴチャゴチャ(笑)。とくに燃料タンクが小さいフォーミュラカーは途中給油しなければならないし、火災事故は多くて、毎年、ドライバー&観客の何人か犠牲者が出る、それで1968年から、60周360㎞が45周270㎞に短縮されたけれど、それでも長い」

----聞きしに勝る凄さというか時代錯誤というか(笑)、そのGPの出走も50台とか?

「そうですね安全性もあって30台ぐらいに制限されたのかなー、この頃日本でもお馴染みのオーストラリアのタスマンから、また香港の有力な輸入デーラーが必ずと言って良いほど、自社販売車種のレーシングマシンを欧州のF2チャンピオンやF1に出ていたドライバーを出場させるのです。この時もBMWデーラーがタスマンのデュエター・クェスターと2000ccBMWエンジンの最新型F2を出してきて、ここでも1600と2000のいざこざで」

----結果はスタート前から着いているような。

「結果はスタートからクェスターのぶっちぎりで、そうなると地元の観客もレース関係者も白けちゃって、トップなんか外して2位以下、次のポジションはどこが誰がになって、長い歴史で見る方も良く解っているんだね。それで、ボクは30台の出走の4番手でスタートして、6、7台が横に並んだまま毎回クラスター衝突起こす2台しか並べない第1コーナーへ突入、上手いこと4番手のままでね」

◆僅か20円のボルト一本で逃した入賞!!

----おーっ、やっとチャンスが訪れたようですね。

「うん、それで前を行く1600ccエルフィンのマルコム・ラムゼイを追いかけ追いかけ、ヘアピンの立ち上がりでようやく3位に浮上、2位のアルバートを抜いたとしてもクェスターの最新F2マシンのBMW2000㏄には追いつけないけど、彼だってクラッシュやトラブル起こすかもしれない。そんな思いが頭をよぎる34周目のマウンテンコース、残るは11周。アルファエンジンは絶対に大丈夫の確信を持った瞬間、背中からコクピットにドバッーと白煙が吹き出しフルフェイスのヘルメットの中まで濃霧状態でまったく見えない、急停止でマシンから飛び出した。3年前、このレースで親友ドライバーがクラッシュして大火災、爆死した無残な光景を思い出しましたねー」

----火が出ましたか!? この時代、マシンの火災で死亡する例が多かったようですから。

「そうなんです、F1ではニキ・ラウダが瀕死の重傷も火災ですから、コースオフィシャルも、そういった事故への対応が訓練されていたのでしょうね、直ぐそばのオフィシャル役の兵隊が消化器噴射させ大事にはなりませんでしたが、もーがっくり。レース後パドックに運ばれたマシンを見れば、オイルタンクからエンジンへオイルを送るパイプの中間に取り付けた円筒形のオイルクリーナーを固定するボルトがねじ切れ、パイプから高熱のオイルが噴き出したトラブルだったですが、たった20円もしないボルト1本ですべてがパーッですから、、、無情ですよねー、、」

----むむむ。

「それで年末に日本に戻ったエンジンを開けたらピストンリングが膠着していて、イタリアにリングやピストンなど発注して1971年5月の新装日本GPに備えたのです」

----上手くいくと良いですねー。そんな出来事を抱えて新装日本GPを迎えたのですか。次回は、その不幸な顛末からエポックメークな日本GPへの流れをお願いします。

「そうしましょう、新しいGPは、このトラブルも影響した経緯も話さなければなりませんが、その前に、新しい日本GPはどんな参加状況で、どのような予選内容で始まったのか、それを掲載しておいた方が解りやすいでしょう。編集長も読者の皆さんも、予選結果をご覧になって、どんな決勝になったのか想像しておいてください」

日本グランプリレース予選結果(1971年5月2-3日)



第八十九回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com


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