リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第77回
波瀾万丈の1970年JAFグランプリ

◆さらに内容濃いフォーミュラカーレースに

――前回は日本でフォーミュラカーのレースが波及するのか、その試金石にもなろうかという本格的な国際格式のJAF GPが行なわれ、日本唯一のワークスF2マシンである三菱コルトがどこまでのことをやるか、その興味が中心でした。

「そうですね、三菱は二人のワークスドライバーである益子治/加藤爽平と、欧州で活躍中の生沢徹の3名が、タスマンシリーズのV8気筒2500㏄マシンと1600ccF2の常勝マシン、それぞれ3台づつ計6台のオーストラリアからの参加を得てスピードも迫力も5000、6000㏄の2シーターレーシングカーによる日本GPに劣らないレース内容を示しましたね」

――そうでした。この時代、フォーミュラカーとなればホンダのF1挑戦ばかりに目が向いていましたから、F2やタスマンのフォーミュラなんて、どんなもんかの思いもありましたが、見直しました!!

「でもね、このJAF GPが1969年5月でしょ、その年の秋はビッグマシンの日本GPで、日本のレース界の頂点にふさわしい、というか絶頂期の年でしたから、翌年の1970年もふたつの『GP』で、日本のモーターレーシングは更に盛り上がるだろうと誰もが期待していたでしょう」

――私もそうでしたが、このシリーズ№60でビッグマシン時代が到来し、№64、65辺りで和製カンナムマシンの終焉をお話しいただいていますが、1970年JAF GPが行われた頃は、まだふたつのGP路線は崩れていなかったのでしたね?

「1969年10月がビッグマシンの日本GP、その半年後の1970年5月がフォーミュラのJAF GPですから、まあ前々からビッグマシンでのグランプリへのくすぶりはありましたけど、正式に1970年日本GP中止を打ち出したのは1970年JAF GPの後、6月にニッサンがGP不出場を発表してからですね。これから語り始める1970年GPの興奮とはまた別の興奮が秋にも味わえるもの、と誰もが思っていたのではないでしょうか。僕自身が1969年日本GP決勝前日に急遽5000㏄から6000㏄に積み替えたR382で優勝したニッサンに対してトヨタがどう出るのか、また、1周6kmの富士スピードウェイを120周ですから、720㎞の長距離レースのままいくのか、興味津々だったけれど」

――ニッサン、トヨタとも5000㏄エンジンの互角な激走を期待していたのですが、そうならなかった。このまま終わってしまっては、あと味まずいなぁ、と思っていました。

「まっ、レースファンなら誰だってそう思うでしょう。でもね、日本のレースって、大御所の都合でどうにでもなっちゃてね。この時代はとくに! ファンのことやレースイベントを確立させるセオリーやビジョンなんて持っていないエライさんばっかの頭でっかちだからね(シュン)」

――そうなのですね。傍から見ていても、雑誌記事もあおり記事ばっかりで、噂なのか本当なのか、という感じを持ちながら期待はしていましたが。

「ビッグマシンの1969年GPが終わるや、全国の有力自動車クラブらがGPを筆頭に日本のレースを統括するJAFスポーツ部門の在り方や、一部の学識者と称する者や有力クラブの会長などが牛耳っているとすることなどへの刷新を求める行動を起こしてね。改革できないならGPへの協力は一切行わない運動を起こしたのです」

――レースの普及とともにクラブマンの意識も高まってきたのですね。

「おっ、良いこと言いますねー(笑)、その通りでね。もはや大中小それぞれのイベントが色んなクラブ主催で行われる時代になりましたからねー」

――それで、今回からのストーリーになる1970年JAF GPは、クラブ代表者らが要求する事項も解決して開催が可能になった?

「いえ、何でもかんでも要求通りにはいきませんよ、相手はケンリョクやシハイケンを握っているんだから(爆笑)。それでもクラブ側は満足ではないけれど、ある程度の改善は見られることで、JAF GP開催の見通しがついていくわけ」

――う〜ん。

「そこでね、前回までのフォーミュラカーレースの概要は、本来ならばF1の下に位置する1600ccエンジンのF2レースが理想的なのですが、日本には心細い台数しかない。マカオやシンガポールなど日本周囲の海外レースも、エンジン排気量混合のレースが主流だから前回と同じ排気量上限3000㏄までのエンジンを可として、『フォーミュラリブレ』と呼ばれるクラスにして1970年5月に開催するのです」

◆びっくり話満載のGP

――それで前回より充分な台数になった?

「クラス分けを見れば、ホンダS800のエンジンを積んだ850㏄〜1600ccのGP-Ⅰ、1601cc〜3000ccのGPⅡの2クラスがあって、ヨーロッパから1800㏄が2台、1600ccが1台、すっかりお馴染みになったオーストラリアのタスマン勢の2400㏄が1台、2000㏄が3台、1600ccが1台、日本勢は三菱コルトF2Cを進化させたF2Dが3台、それ以外に、850㏄や2000㏄など参加申し込みは22台ありました。ただ、純粋な1600ccF2は少数派で、フォーミュラリブレ特有の総合上位は大きい排気量が有利と読むマシンが目立ちます」

――前年の優勝が、タスマンのV型8気筒2500ccのL.ゲオゲーガンでしたから、やはり大排気量エンジンが有利に? となると三菱コルト1600ccは、またもや辛い立場になるわけですね。

「それもあるでしょうが、もっとビックリ仰天なのは、ジャッキー・スチュワートが、1800㏄のコスワースFVCエンジンを積んだブラバムBT30で参加するって話でね。もっともスチュアート選手は、1966年の日本インディにも出場し優勝もしていますが、あのイベント、果たして純然たるレースって言えるのかなー。ワーッと騒いで終わっちゃった興行イベントの色彩ムンムンだったからねー。やはり正規のレースとは異なりますし、JAF GPに参加となれば、やはり特例ですよ」

――ジャッキー スチュワート(Jackie Stewart)といえば1969年のF1世界チャンピオンですからね! フランスのメーカーであるマトラのドライバーで現役バリバリ。そんなドライバーが日本で走る!ってんで、猛烈に興奮しました。

「いやー、これは僕だけでなく誰もがビックリですよ。トヨタ7のエンジンを積んだフォーミュラカーの話がまともに語られる世界ですからねー(笑)、ホントかね? ですよ最初は、でも実際に参加しましたからねー」

――この時代ってホント凄いですねー。GPがあっちこっちフラフラするかと思えば、まさか?と思えることがホントになったり!! 現役F1ドライバーが日本のレースにヒョイっと、かどうか知りませんけど参加したわけですから。

「確かに前代未聞ですね。かつて、ロータスのF1ドライバーだったジム・クラークが、1966年の春、出来上がったばかりの富士スピードウェイを、スピードウェイ所有のフォーミュラカー、F3だったかな、で走ったこともあって、その年に開催された日本インディにJ.スチュワートと同じく参加した経緯があります。しかし、2年後の1968年に、ホッケンハイムのF2レースで事故死してしまいました。そういえば、クラークさんの事故死といえば、この時代、フォーミュラカーも2シーターレーシングカーもシートベルトが無かったんですね」

――もてぎのコレクションホールに展示されているホンダのF1を見て、シートベルトがなかったので驚きました。何かの間違いじゃないかと思いました。

「いえいえホント。僕はね、この当時マカオGPに出ていましたから、最初ね、GTカーのトライアンフにシートベルト付けていたら、車検で“ダメだ”って言うの。良く聞いたら、この時代、英国流の解釈では、“シートベルトでしっかり座席に固定していると、ドライブし易くなるから”ってことで、冒険の意味が薄れる、ってことなのです。へーえ、ですが、それでジム・クラークも、コースアウトして立木だかに激突した時に身体が放り出されて亡くなったようなんですよ。それでもシートベルトは国際的ルールにはなっていなくてね、今話している1970年JAF GPのフォーミュラカー車両規定は、“シートベルト装着は任意とする”、になっているのです。だからベルトや燃料タンクなど車両安全規定が厳しくなるのは1970年代初頭なのです」

――そうでした、その安全対策を積極的に推進したのがジャッキー・スチュワートだったというのも、偶然ですね。

「そうだったですね。そのスチュアート選手の参加は、ふらふら迷走する日本のGPゆえの大バクチ打ったみたいで(笑)でも、ホントの話になってJAF GPへの期待は大きくなっていきました。また、フォーミュラカー育成を本気に行う動きも出てね、GP以外に新しいクラスが設けられたりね」

――新しいクラスと言いますと

「GP以外にTS(ツーリングカー)、GT(グランドツーリングカー)は通常ですが、FJ(フォーミュラジュニア)のクラスが正式採用になったのです。これもクラブ側の改善要求の一つですが」

――FJは、軽自動車のエンジンを積んだミフォーミュラですね、これがGPクラスに?

「このシリーズに時々便りを寄せてくれる読者(二宮賢一さん)からも、フォーミュラカーレースが始まってからミニカーレースの中にはフォーミュラとツーリングカーが一緒に走るレースがあったのを知って驚いた、との感想も頂いていますが、確かにオープンカーとクローズドカーが一緒のレースなんて、危なっかしくて今じゃ考えられませんけれど、そうやって成長してきたサンデーレースのカテゴリーが正式な競技に認知された証ですね」

――大舞台で混走のレースだったのですか?

「うん面白いかも、そんなわけ無いでしょっ(笑)。まあ、ミニカー全盛のことは当ストーリの第72回、第73回辺りで詳述しているけど、要するに気軽な遊びで始まった360㏄軽自動車エンジンの改造車がサーキットレースだけでなく、ちょっとした広場でのジムカーナなど、いろいろなミニカー競技は、正にモータースポーツの底辺拡充に欠かせないポテンシャルに富んでいることを知ったのですね。日本ならではの現象ですよ」

――そうなると、見向きもされなかったミニカーが一躍脚光を浴びることになるわけですね。

「そうです、何てったって、ミニカー競技にワークスマシン&国際二輪レース経験豊富なワークスドライバーまで参加し出すのですからねー、大変な騒ぎ(笑)。それで、ミニカー競技を正式なカテゴリーにするには車両規定から整備することになって、底辺の360cc にいろいろな制約を設けるのは自由な発展を妨げることもあって、排気量600ccまでの[フォーミュラ ジュニア]という名称のクラスを作り、このGPのプログラムに入れ、GP、GT、TS、FJの4クラスになるのです。僕もFJにエントリーしてました」

――リキさんもFJにエントリーですか、当然、メインのGPにも参加で。

「いっけねー、つまんねーこと言っちゃったなー」

1970年JAF GPで、サポートイベントとして軽自動車のエンジンを使ったFJクラスが初めて併設された。中央が、メインイベントと並行して出場したリキさん。左手前は、その後CAN-AMにも挑戦する風戸裕。

――え、え??

「以前に、本シリーズの№65辺りで話しましたがモンスターマシンによる1969年秋の日本GPあと、瀧レーシングが解散声明を出した時、僕はね、「瀧さん、レース止めちゃうんなら、トヨタ7のエンジンを積もうと計画したF2のシャーシーなんかどうするんだろう?」ということで彼の所に行ったら、「もーレースの計画もないから、リキちゃんが買ってくれれば有難いんだけど」ということで、僕が分割場払いで購入したのです」

――シャーシーは何でしたっけ?

「えーと、確か1970年初冬だったかな、英国のウイリアムズ・レーシングが持っていたブラバムBT23CというF2用シャーシー/ホイール/ヒューランドFT200のギヤボックスが付いた、いわゆるエンジンレスの中古じゃなくて新古と言うのかなー、程度は良いものでした」

――そうなると、問題はエンジンですね

「そうです。これも、まだフォーミュラカーの知識に疎かったゆえの落とし穴にはまっちゃってね。純粋にF2用の1600ccエンジンを選定しておけば良かったものの、参加マシンは3000㏄までのフォーミュラリブレだから、少しでも排気量が大きい方が有利だろう、また、値段も後のメンテが安く上がる国産市販車の2000㏄エンジンを物色したわけなんだけれど、、(クシュン)」

――そうだったのですか。良く解りますが、まだ一般的な市販車の中からレースに向いたエンジンとなれば??

「当時、レース活動に向いた市販車となればスカイラインGT(2000㏄)フェアレディSR(2000㏄)、トヨタGT(1600㏄)、ホンダS800(800㏄)などですから、その中でフォーミュラカーシャーシーに積めるエンジンとなれば、トヨタ7じゃないですよ(爆笑)、SRの4気筒2000㏄を選んだのです」

――いやー、この選定も良く解りますよ。当時、市販車で200キロ以上の最高速度を誇っていましたし、スカGは6気筒ですからフォーミュラシャーシーに搭載ならば4気筒、ということになりますね。

「仰る通り、ブラバムシャーシーに無理なく積め、ヒューランドギヤボックスとの合体もばっちりでした。このSRエンジン、鈴木誠一さんや久保和夫さんら東名自動車が最高のチューニングを施して頂いた逸品です」

――-聞いている私もぞくぞくしますねー、リキさん、やっとマシンに恵まれたようで(笑)。

「僕もそう感じましたねー。でも、慣熟走行から本格的トレーニングに入り出したらエンジンオイル噴き出したり、オーバーヒートしたり、ついにはエンジンが焼き付いたり、もー手が付けられなくてね。エンジン全取りかえしても同じ現象が止まらない、結局、予選走行も満足に走れず決勝スタートラインに並べなかったってこと。まあ、結果論だけど準備不足と誤ったエンジン選択だね」

――でも、フェアレディーSRは、トラブルも少なく強固なエンジンで定評だった気がしますが。

「そう、優秀なエンジンですよ。ただ、後で判明したのはフォーミュラカーには適さないということ。つまり、市販車エンジンの殆どはエンジンの潤滑はウエットサンプといって、簡単に解りやすく言えば、エンジンの一番下の位置にオイルタンクであるオイルパンがありますね、そのオイルがピストンを上下させるクランクシャフトの回転でシリンダー内部を潤滑する構造で、それは問題ないのです。でも、フォーミュラカーの動きって、走行中の前後左右、即ちブレーキング、加速、コーナーリングでの[G:重力加速度]がもの凄く強烈だから、オイルパンのオイルが異常に片寄るから時として潤滑オイルが途切れてしまうようなんです。要するにエンジン位置も高く、縦横Gの限界が低いGTやツーリングカーとは全く別物の知識がなかったのです。だから市販車でもレーシングカー並みの高性能車になると、オイルタンクからオイルをポンプで圧送するドライサンプ構造が多いのです、とにかく幼稚だったんですよ」

――レース自体が成長過渡期ですから、リキさんだけでなく多くの人の勉強、研究、失敗、いろいろで今があるのでしょうね

「いやーっ、そんな言われ方すると照れちゃうね(爆笑)まあ、そんなことで、次回は、JAF GPの内容に詳しく触れてみましょう。それと前に述べましたが、このJAF GPではGT、ツーリングカークラスに、僕もエントリーしたもう一つの新規クラス、フォーミュラジュニアの話もしますが、これもシャクに触って、思い出すのも嫌なんだけど」

――何か、また失敗のご披露を頂けるようで(笑)。

「失敗じゃなくて、僕に違反があったって言うんだけど、、オレ絶対にやってねーって(ムッ)、まあそれはFJの話でするけれど、次回は、GPの予選内容から決勝に入っていきましょう」



第七十七回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com


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