リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第6回
鈴鹿のルーツはマン島だった!!

塩崎らのヨーロッパ視察団に、オランダのザンドフォールト・サーキットのマネージャーであるジョン・フーゲンホルツを紹介したのは、ロッテルダム(オランダ)のホンダ販売店社長だった。彼フーゲンホルツは、日本の“鈴鹿プロジェクト”に加わることを快諾。1961年が明けるとすぐに来日した。

フーゲンホルツという玄人が加わり、サーキット・レイアウトの最終デザイン完成に向けて、プロジェクトはダイナミックに動き始める。レーシング・コースのデザインが最終的に決まったのは、1961年の5月だった。

「《鈴鹿》って、最初に二輪のレースをやったせいか、あるいはホンダ=二輪という当時のイメージがあったせいか、できあがった後に、二輪専用のコースだから四輪はやらない、四輪のレースはできないっていう噂が広まったけど、それは違う」

「フーゲンホルツが関わっていたザンドフォールト・サーキットは四輪コースだし、鈴鹿も、コース幅は9~10メートル以上、四輪でも充分な追い越しができるというレイアウトが、すでに考えられていた」(リキさん)

コースレイアウトは、ベースを設計した上で欧州査察を行い、改修したデザインにフーゲンホルツ氏のアドバイスを仰いで進められた。

デザイン決定後、プロジェクトは“コースつくり”の段階に入った。基礎工事を終えると、コースの表面、つまり「路面」をどうするかということになる。

リキさんは言う、

「塩崎さんたちが、海外レース経験のあるホンダのライダーたちに、サーキット建設に関する意見を求めた。そのときに、ライダーの谷口尚己や田中楨助たちが強く希望した路面がありました」

「鈴鹿につくろうとしているコースは、クローズドなサーキットであるけれど、それはやはり一般道の延長線上にあるものにしたい。じゃあ、その一般道ってのはどこの道なんだ? そのとき、谷口らホンダのライダーたちがイメージしていたのは、『マン島』の路面だったんです」

――それは、鈴鹿のコースは市販車のためのテストロードだという認識が、谷口さんにあったから?

「それもあったでしょう。でも、それ以上に、彼が1959年から実際にマン島TTレースに出場していて、どのGPレースで勝つよりも、何より『マン島』で勝ちたい! その思い入れから、“疑似マン島路面”が必要と考えたのでしょう」

「もちろん、一般車のテストにも都合がいいように。だから、その両方でしょうね」

とはいえ、簡単に「マン島の路面」といっても、ライダーが走ってきたマン島のレースコースは実は公道。アスファルトからコンクリート、さらには石膏と、表面は多種多様で、そしてずっと使われてきた道路であるため、その表面は経年変化もしている。

リキさんの著書『サーキット燦々』には、そんな複雑な路面を《鈴鹿》で再現してくれと求められた建設担当の日本鋪道・門間達雄による、こんな“困惑のコメント”が載っている。

「欧州視察に行った人たちは、それ(注・年を経て変化・劣化した路面)を見てきているんですね。だから、いまつくったばかりのものは、十年経てばこれと同じになりますって説明するんですが……。(略)最初から、風雨にさらされ、年月が経ったものと同じ舗装をつくれ……ですから、むずかしい注文でした」

「でも、そういう難題に挑むのは、日本の技術者の常だからね!」

リキさんは、こう言ってニヤッとした。そして、「時代はまさに、欧米に追いつけ追い越せ、だった」とつづけた。

そして、ホンダ視察団が欧州から持ち帰った“石ころ”が、日本鋪道の研究陣に渡る。各地の石や砂利を調べた研究陣は、木曽川流域の各務ヶ原(かがみがはら)で取れる玉石を割って砕石状態にすれば、ホンダ側が希望する路面になりそうなことを発見するのだ。

鈴鹿で、コースのなかで基礎地盤ができた部分に試験的にそれを用いて舗装し、ホンダのライダーたちが走った。「うん、マン島の感じがよく出ている!」という意見があり、一方で、「いや、ちょっとイメージと違うなあ?」という話も出る。こうした模索とともに、シゴトは進む。

トライ&エラーを重ねつつ、そして、その後の日本の高速道路建設のためのノウハウも大量に蓄積しつつ、ついに《鈴鹿》は、1962年の9月、サーキット完成披露の日を迎えるのであった。

第六回・了 (取材・文:家村浩明)