リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第98回
第98回 フォーミュラカー育成への路線が明確に

単座席でライトもない。公道を走ることをまったく考慮していないのがフォーミュラカーだが、逆に、走ることに特化しているという意味では、モーターレーシングの根幹をなすカテゴリーでもある。その頂点がF1になるが、1970年初頭の国内では、ツーリングカーやスポーツカーの人気が高く、フォーミュラカーへの注目度は低かった。そこに大きなうねりを興すことになるのが、フォーミュラカーによる1973年日本グランプリだった。

----“新たな日本GP”が3回目となる1973年日本グランプリになりました。

「そうなりますね。その背景は、国内大手メーカーが大馬力・ビッグマシンのレースから手を引き、モンスターマシンが咆哮上げて富士山をバックに大きな富士スピードウェイを舞台とするレースは幻の如く消え、国内レースを統括するJAF(日本自動車連盟)が、フォーミュラカーレースのトップであるJAF-GPを日本GPに格上げしてフォーミュラカーの振興策を打ち出し、これが日本のトップカテゴリーになるのか正に正念場になるわけです」

----三菱がフォーミュラカー路線を地道に進んだ成果がようやく実ったような流れですが、ジャッキー・スチュワートやジョン・サーティースの参戦もレベルアップ効果となり、レースファンの認識も高まってきました。

「そうですが、レースどころではない二つの大きな山にぶつかりましたね。この話は前にも若干触れましたが、もう少し詳しい内容を見ると、二つでなく三つの大問題になります」

----それは日本のレース界にとって大変なことだったのですね。

「いえいえレースどころか世界、日本では第二次世界大戦の終戦以来の出来事でね。最初の問題は、自動車先進国の米国は第二次世界大戦終結後、もの凄い勢いで経済発展し、自動車の台数が急増しました」

----ふむ。

「その結果は、自動車エンジンが排出する排気ガス公害で、アメリカは個々が独自の法律を持つ州で成り立つ国(合衆国)ですから、1950年代には各州で排気ガスへの規制がありました。とくに西側のカリフォルニア州の規制は厳しく、また、規制強化への裁判が各地に広まった時代です」

----日本もようやくマイカー時代に入り出した頃でしょうが、私はそういった話、よく覚えていないのですが。

「そう、排気ガスが有毒なんて思えなかったでしょうね。クルマが欲しい欲しい、の夢ばかり先行していましたから(笑)。有識者の間でも、あれは米国でのハナシくらいで大騒ぎになる話は少なかったなー(笑)」

オイルショックの影響が叫ばれる半年前の5月に無事に行なわれた1973年日本グランプリ。

オイルショックの影響が叫ばれる半年前の5月に無事に行なわれた1973年日本グランプリ。

----その公害、ずっと後になって輸入されて。

「そう、輸入ね、米国からは色んな物やことを売りつけられた時代ですから(笑)。それでね(笑)米国政府も中々厳しい法律には動かないから、長年この社会問題に取り組んでいたE・マスキーさんという上院(日本の参議院にあたる)議員がしつっこく法案提出を試みていてね」

----ああ、そのマスキーさんの名前で思い出しました、排ガス規制の強行な方でしたね?

「その話題が日本でもだいぶ知られ始めたけれど、日本の自動車メーカー関連の米国通の間では、“あんな法律できっこねーよ”、とタカをくくっていたのだろうけれど、1970年に入ったとたんに米国議会での審議が高まり、日本のメーカーも慌てだしたってことですね」

----それで1970年秋のビッグマシンによる日本GPがパーになって(笑)。

「そうです、良く勉強されて(爆笑)、ボクもそんな難しいこと解らないけれど、ただ、1960年代末のカリフォルニアに行った時、首都ロサンゼルスから南へ1時間弱のアナハイムの街から、今来た方向を振り返って見たら、遠くのビル群がぼやけているわけですよ。友人が、あれがロスの街さ、って教えてくれて、急増する自動車の排気ガスで街の上空が厚い雲に覆われたみたいになっていてね」

----お〜っ!

「広島と長崎を破壊した原子爆弾のガスが立ち上がったキノコ雲の写真みたいなデッカい円盤がロスの街に乗っているような、なんとも奇妙な光景だった」

----そんなにはっきり見えるものですか。

「うん、ボクも一瞬、クルマ・排気ガス・有害という、その図式が浮かばなかったけれど、ゾッとしてねー」

----う〜む。

「でも自動車ばっかりが悪いのでなく、工場や石油採掘の煙だって原因なんだろうって、クルマ擁護が出てしまうけれど、淡いオレンジ色の夕焼けの中にくっきりと、地上のガスが街の上空に、泥色の円盤のような形に溜まっているのを見ちゃうと、自動車排気ガスって、そんなに悪いのかなー、って寂しくなってねー。でも日本ではこんなことないからなー、アメリカだけの話じゃないのかなー、と自分で否定しちゃう(笑)」

----言われてみれば私が中学生の時、東京杉並の高校で生徒が目に染みたり息苦しくなった事件がありました。

「それは1970年夏に起きた光化学スモッグという公害で、一気に社会問題になりました。その前から四日市の工場群が吐き出す煙が原因など、日本でも公害への話題があったけれど、その頃の世論の意識は低かったから、ロスで見たようなことは特別みたいに思っていたなー」

----私も学生の頭では良く解りませんでしたが、なにかよくないことが起きている感じがしていましただ、それでオイルショックになっていくのですね。

「いやいや、それがまるで違うのです」

----えっ、違うんですか!?

「要するに、排気ガス問題はアメリカが強力な法律で排ガスを抑制しようとして始まり、その法律に合わないエンジンは米国で販売禁止になる。となると日本のメーカーも、その対策に忙殺されることになるわけです」

----なるほど。

「そして次の第二の問題となるわけです。オイルショックというのは、排ガス問題が浮上した時期に、イスラエルとエジプトを始めとするアラブ諸国が戦争になり、アラブの産油国がイスラエルを支援の国々に対し原油の輸出量を減らし出したことで、米国側の日本にも原油不足に襲われたのです」

----どちらも、レースには冷たい風が吹き荒れることになりますね。

「夜風が身にしみるぜー、笑いごとじゃあない(爆笑)。排ガスもオイルショック、どちらも大敵だけれど、どっちかとなればオイルショックだろうなー。石油不足は家庭生活に直接影響するものだら、こんな状況でレースなんて、一体なに考えてんだー!!ってんでブーイングまちがいなし(笑)」

----そうなると、今回のテーマである1973年日本GPの開催は難しくなる、というか中止に!?

「1973年日本GPは5月だから問題ありませんでした。オイルショックは、このGPの後ですから」

----そうなのですね、安心しました(笑)。

「確かに、イスラエルが地中海と死海に挟まれた中近東に建国された1948年以来、周囲のアラブ諸国との紛争は日ましに高まり、既に三度も戦争があって、四度目の中東戦争がいつ起こってもおかしくなかったのです」

----排気ガスと戦争ですか!?

「だから排気ガス公害対策は長いスパンにわたるけれど、戦争が原因の石油不足は間近に迫る大問題。国が保有する備蓄石油は2か月分くらいしかないから、産油国が輸出しなくなったら即座に日本の社会なんか崩壊しちゃう。これが現実味を帯びたのは1973年10月だったから、日本GPの5月当時は、石油がなくなる、ガソリン価格が一挙に何倍にもなるなんて考えられなかったのです」

----でも、石油がなくなってトイレットペーパーもなくなるぞぉっと、ワケもわからない話になったこと覚えていますけれど。

「うん、それはGP後の10月半ば、ほんとにアラブが戦争になって産油国が原油の輸出金額を一気に7割も値上げしたってんで、担当大臣が、“新聞やトイレの紙を作るにも高熱で乾燥させる石油が必要だから紙のムダづかいをしないように”とコメントして、それが、紙からカミ、トイレの紙、と伝播して、西の方のオバちゃん達のトイレペーパーの買い占め騒ぎ起き、政府が慌てて鎮静PRに走ったけれど、その甲斐なく全国で大騒ぎ。デマや悪いことはあっという間に広まりますから(爆笑)」

----排ガスへの法律や石油不足も1973年なので混乱しましたけれど、これでスッキリしました(笑)。

「いや笑えないのですよ(笑)。トイレペーパー問題が完全に払拭された訳ではないし、この年の秋から年末、翌年へと日本の石油不足は深刻になって、ガソリンスタンドでは満タンの販売をしない、一台当り20リッターまでなどの制限、予備燃料タンクへの販売中止、当時の1リッター70円弱の価格も約120円に急騰しましたね」

----そんな高くなりましたっけ!

「決まってるでしょう、原油が輸入できないんだから(爆笑)」

----それではレースどころじゃありませんね。

「だから今ではオイルショックの始まりは1973年という認識が強いから、富士や鈴鹿のレースはどうしたんだろう?という話になるけれど、ガソリン価格を始め、社会生活への弊害が出たのは1973年ま末からで、1973年日本GPは5月だったから問題なかった。富士でも鈴鹿でも、その年のレースプログラムは予定通り開催できたのです」

----オイルショックと聞けば何もかもガタガタだったような気がしてました(笑)。

「うん、そう思われている傾向は大きかったですね。まあ、1974年日本GPは当然に中止だったけれど、1979年には、またもや第二次オイルショックと呼ばれた石油危機に見舞われてね」

----1970年代というのは、波乱の時代だったわけですね。燃料がなければレースできませんから全部中止、あるいは禁止などの目にも遇う可能性なあったのではないでしょうか。

「そうゆう世論の声もありました、まあ当然と言えばそうなるでしょう。けれども、ガソリンが足らないのなら、こうすれば/ああすれば、という知恵や工夫が、ドライバーだけでなくマシンビルダーやメカニック、オフィシャルなど、色んな意見も生まれてね。レースはなくさない、という関係者の信念だろうね」

----どんな考えや工夫があったのでしょう?

「その話はキリがないから別の機会にお話するとして、よもや、日本がそんな目に遇うことなんか思いもせずに1973年日本GPは開催されるのですが、ようやくフォーミュラカーレースの路線が敷かれてきた好機と見たのでしょう、JAFもフォーミュラカーに積極的な推進施策を打ち出すのです」

----ようやく、リキさん念願のフォーミュラカーレースに向かい始めた(笑)。

「まっそうゆうことかなー、結構なことで(笑)」


第九十八回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com


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