リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第68回
フォーミュラカーの夜明け

◆トロロッソ・ホンダ

――前回はビッグマシンのGPが挫折し、フォーミュラカーがGPマシンに代わっていく過程で、鈴鹿の1964年の第2回GPと、GPが富士スピードウェイに移った第3回GPでエキジビションレースの二つが現代のフォーミュラカーレースの基本になった話をして頂きました。

「そうですが、フォーミュラカーの話となれば、やはりF1。いまの話題はマクラーレンとのコラボを解消したホンダF1になりますね。ちょうど今回は、本年度F1開幕戦オーストラリアGP(メルボルン)が終わったところです。ホンダは新にトロロッソチームにパワーユニット(エンジン)を供給してF1活動を続けるとのことですが、開幕戦の現地で見た全体像というか見通しはどんなものでしょうか」

――いつもと違って、今回は逆に聞かれる立場から始まってしまいましたが(笑)。

結論から言いますと、開幕戦でのトロロッソ・ホンダは、とても無残な状態でした。テストの段階では、スピードはもう一つだけれど、信頼性が高く、そこを踏み台にステップしていくのが今シーズンと思っていたのですが、序盤でパワーユニットにトラブルが出てしまいました。

「残念だったですね」

――レースで好成績を出すにはいろいろプロセスがありますが、結果は結果ですので。ただ、開幕戦のアルバートパークのコースは、公道というだけでなく、うねりがあったり、コーナリング中にブレーキングが強いられたり、経験がモノを言うコースです。トロロッソ・ホンダのドライバーは、ここまでの経験では、ピエール・ガスリーがGP2(昨年からF2)のチャンピオンであり、ブレンダン・ハートレイが去年のルマン24時間のウィナーと、実績はありますが、F1では経験が浅く、アルバートパークを走るのが初めてだった、というまぁ、苦し紛れですが、そんな見方もできました。

もっとも、パワーユニットのトラブルは、ふたりの経験に関係のないところですので、ここは今年からテクニカルディレクターに就任した田辺豊治さんの言葉を信じて、"次"を待つしかないと思います。

「田辺さんは、ホンダF1第二期でベルガーのエンジニアでしたね」

――ええ、レースの基本を深く理解した非常に有能なエンジニアです。去年、佐藤琢磨がインディ500で優勝したときも、エンジンの責任者でした。彼は状況をよく理解しているので、余計な言い訳をしませんでしたが、心中察して余りあると思います。

「毎年、初戦から上手い具合にはいかないって会話ばかりで(爆笑)、そろそろ、今年は何勝できるかねーくらいの予想したいですねー(笑)」

――おっしゃる通りでなんともですが、今年は、本当にテストで好調だっただけに、開幕戦の結果は想定外でした。第2戦のバーレーンGPと第3戦の中国GPが、4月8日と15日の連戦ですので、そこでの活躍に期待しておきたいです。

「とにかく、今年のF1シリーズ全21戦でホンダ&トロロッソが"やったー!!"の歓声が上がるようになって欲しいものですね」

――同感です、皆で応援したいと思います。

◆フォーミュラカーレースの格上げ

――そこで本題に戻りますが、1967年、富士で2回目の日本グランプリで、フォーミュラカーレースがエキジビションから正規のレースクラスに格上げされ、本格的な普及を目指すようになったと聞いていますが、正規レースになって何が変わったのでしょうか、参加台数も多くなりましたか?

「それが意外と低調でね。もっとも、これがフォーミュラカーだけかとなれば違ってね、前年にプロトタイプスポーツカーがGPの主役になってプリンスR380が初陣を飾ったあと、会社自体(プリンス自動車工業)がニッサンに吸収合併されプリンスの名前は消えちゃった。ニッサンに移った380は、軽量化やエンジンパワーアップが施され、マシン名もニッサンR380A2となって登場、とまでは良かったけれど、対するトヨタ2000GTはGP欠場。結局、4台のR380A2と3台のポルシェカレラ6、2台のローラT70の僅か9台の寂しいGPで全然盛り上がらなかった」

1967年の富士スピードウェイで正式なレースとして行なわれたフォーミュラカーレース。三菱は、コルトF2で参戦して1-2を飾った。ゼッケン10は、その後評論家としても活躍した優勝の望月修。

――やはりトヨタの不参加が響いた。

「ツーリングカークラスは、圧倒的なレース経験をもつニッサンスカイライン2000GTにいすゞべレットGTやホンダS600などが入り込んで37台。GTカークラスも、ニッサンフェアレディー2000にロータスエランやホンダS600の606ccを791ccにしたS800など両クラスとも面白いですね。とくにホンダS800の小兵が2000ccクラスのスポーツカーと同一周回20周で9位、クラス1位(故矢吹圭三)になるなど内容も濃かったですが、トヨタはどちらのクラスにも参加に適した車種がないのですね」

――トヨタS800はあっても戦力的には古い。このGPの後、夏ごろにトヨタ1600GTが市販されますが、もっと上手い時期に出せないものですかねー(笑)。

「市販車をレースの時期に合わせられればねー(笑)。この時代、レースの目的は市販車のPRの色彩が濃かったですから、レースとの兼ね合いを図って新車の発売時期を決める、ということがないとはいえませんでしたね。したがって、レースを市販車の販売合戦にするのでなく、メーカーの技術力を表わすカテゴリーをレースの中心とすべきだ、というロジックが台頭しプロトタイプのスポーツカーやレーシングカーがGPマシンになるのだけど、その一方に、GPはフォーミュラカーがふさわしいとする意見があっても、こちらは少々劣勢(笑)というか、その両論が背景にあって富士スピードウェイでのGPが始まったことは既に述べてきました」

――そうなると、フォーミュラカー支持派にとってエキジビションから正規のレース種目になるのは大歓迎。

「そりゃそうですよ。でもね、前年にエキジビションだったのが正規レースに格上げとなればフォーミュラ支持派はもっと燃え上がって参加台数も多くなると思ったのだけど、まあ、どんな内容だったのかは、レース結果表を見た方が解りやすいでしょう」

■1967年日本GPフォーミュラカーレースの結果 周回数25周
順位 ドライバー(年令) マシン名 シャーシー エンジン/排気量 周回数 タイム
1. 望月 修(37) コルトフォーミュラ2A 三菱F2A 三菱R46/1589cc 25周 53'10"03
2. 益子 治(30) コルトフォーミュラ2A 三菱F2A 三菱R46/1589CC 25周 53'42"62
3. 浅岡重輝(24) アロー・べレットF2 アロー いすゞG160/1579cc 24周 54'15"20
4. 長谷川 弘(33) コルトフォーミュラ3A 三菱F3A 三菱R28/997cc 24周 54'39"41
5. 米山二郎(22)     ヨネヤマべレット   いすゞG160/1579cc 24周 55'01"07
6. 成広不二夫(22) レクソルSPL デルMK3 いすゞG160/1579cc 24周 55'20"00
7. 真田睦明(25) デルコンテッサ デルMK3 日野/1298cc 23周  
8. 見崎清志(21)   レクソルSPL デルMK3 日野GR100/1251cc 15周  
9. S.ホーランド(28) ロータス41 ロータス ロータスフォード/1558cc    
10. 加藤爽平(25) コルトフォーミュラ3A 三菱F3A 三菱R28/997cc    

※望月 修の優勝平均速度=169.27km/h
※最速ラップタイム(望月 修)2'05"59(171.98km/h)

――三菱がこんなにもフォーミュラカーに熱心とは考えもつかなかったです。第一に三菱とレース、どーも結びつかないのですが(笑)、ツーリングカーレースにでも走っていれば身近な感じがしますが、それもない。

◆三菱の意外なレース活動

「今では三菱自動車工業ですが、その前身は三菱重工業という航空機や船舶、鉄道車両などデッカイ工業製品の大御所で戦争中のゼロ戦で有名ですから、その企業と自動車、さらにレースとなれば関連が薄いようなイメージがあるかもしれませんね。この会社は、戦争に負けて日本が外国の軍隊に占領された時代、三菱重工業は幾つもの企業に分割されてしまい、その中の中日本重工業が戦闘機の車輪や小型発電機のエンジンなど兵器だった残骸を寄せ集めて、戦後社会の日常物資輸送に役立つ二輪自動車を造ってしまうのです。戦争が終わった一年後には自動車の代わりになる乗り物をいち早く製造してしまったのですから、大きな見方をすれば戦後日本の自動車産業の先駆者でもあるのです」

――それが今の三菱自動車のルーツなのですね。

「敗戦後の同じ時期、やはり戦闘機や爆撃機を造っていた中島飛行機という企業が分割された一つが富士重工業、今は㈱SUBARUになりましたが、ここも飛行機の残骸を利用した二輪自動車を造って戦後社会の物資輸送に大きく貢献したのです。オートバイの一種であるこの二輪の乗り物は後年スクーターと呼ばれるようになるのですが三菱のスクーターはシルバーピジョン、富士重工業のはラビット,銀の鳩と兎、ともに平和を象徴するような名前に外国の軍隊は安心したかも(笑)」

――飛行機からスクーター、やはり結びつきませんが(笑)、それから四輪自動車メーカーになっていったのですね。でも、さらに、スクーターからフォーミュラカー、よく解らないですね(笑)。

「スクーターの次にフォーミュラカーを造ったわけじゃないですよ(爆笑)。そう、肝心な話に戻らないとね(笑)。それからスクーターとともにオート三輪車・みずしま号の製造もするのですが、分割された企業が再び合併して三菱重工業になるのですが、この時代になると、政府も自動車の必要性から庶民にも手に入る乗用車[国民車構想]を打ち出し、自動車造りへの助成を大々的に行い今日の自動車社会になっていくのですが、この国民車構想に基づいて製作した三菱の本格的乗用車が〝三菱500〟なのです」

――三菱初の自動車は小型車だったのですね。

「もっとも三菱500の前に三菱ミニカという軽自動車を先に造っていましたから普通自動車への仲間入りでしょう。ただ、驚くのはこの500で早くも外国のレースに出ているのです。それも1962年(昭和37年)ですからね」

――えっ、鈴鹿サーキットでオープニングレースがあったのは1962年と聞いていますし、それもオートバイレースだから四輪車のレースは無かった時代。

「そうなんです、日本の自動車メーカーが海外の競技に初出場したのを調べますと、1957年にトヨタがオーストラリア一周ラリーに、1958年にニッサンがオーストラリアラリーに、そして二輪では、1959年にはホンダのマン島TTレース初陣、ホンダの四輪では1964年にF1ドイツGPに参戦が代表的事例ですが、三菱が1962年のマカオGPのツーリングカーレースに出場して750cc以下クラスで優勝しているのです。つまり、戦争時代の兵器技術が日本の自動車産業の基盤に如何に大きく関わったか、ということですよ」

――飛行機の胴体とフォーミュラカーは似ているから、これも、その流れで?(笑)。

「どーも単純だなー(笑)、それで(笑)、三菱はスクーター、みずしまオート三輪車から軽自動車、三菱500へと三菱重工業が本格的な自動車産業に進出し1970年に独立した今日の三菱自動車工業になっていくのですね」

――大変な時代、市販して2年後にはマカオに出るということは、自動車造りにレースが及ぼすメリットを早くから認めていた、ということでしょうか?

「そこまでは知りませんが(笑)、発売当初のエンジン排気量493ccは一年後には594ccに拡大するなど小型車といえどもニッサン、トヨタの中型車に劣らない性能や質感を目指した形跡が窺えますから、マカオGPで得たものは大きかったのではないでしょうか。その後、同社はFR駆動・4ドアの〝コルト1000〟で1964年の第2回日本GPに出場するほどモータースポーツ活動も積極的になっていくのです」

――そういったレースへの下地があってフォーミュラカーに至ったのでしょうが、ツーリングカークラスにも三菱の車はあまり名前が出ないメーカーが、なぜフォーミュラなのでしょう。ホンダと同じく将来のF1への布石とか?

「F1への道を目指したかどうか僕も知りませんが、富士スピードウェイ移ってから、GPマシンはレーシングスポーツカーやプロトタイプスポーツカーが良いとか、エンジン排気量も無制限にしようなどなど、方針が定まらずモンスターマシンに迷走していったわけですが、その流れの中で国際基準に基づくレース内容とマシンの種類を普及させるべきとする意見と、注目を集め始めたエンジン・車体とも自由度の大きいグループ7レーシングカーの推奨派の対立の中で、三菱は国際基準のフォーミュラカー育成に熱心な側でした。

――なるほど。

「三菱にはコルト・モータースポーツ・クラブがあって、ドライバーには望月修、益子治、加藤爽平、長谷川弘など、海外のオートバイレース経験者が多かったことや、三菱500でマカオに参戦してしまうなど進取の気性に富んでいたのかなー、とにかく、レースとはかくあるべき、の論理で自らの方針を具現したものと僕は考えるのです」

――そうなると最初の富士スピードウェイの1966年日本GPのエキジビションでF3を登場させたのですから早くからフォーミュラカーの研究をしていたわけですね。

「そうだと思います。F3の1000ccエンジンは、市販車コルトのエンジンがベースでしたが、この1967年GPのF2エンジン(1600cc)はフォーミュラカーシャーシーに合わせ開発したもので、日本初の本格的F2マシンです。ちょうどこの年からヨーロッパF2選手権シリーズが開催されるようになりました。それまでF1以下のクラスはマシンの規定がごろごろ変わり、ようやくF2エンジンは1300〜1600ccに落ち着きましたので、このF2カテゴリーは世界的に広まるだろうと期待されたのです。三菱が独自のモーターレーシング活動をするにあたってF2にのりだしたのは、そういった時期でもあったのでフォーミュラカーの開発には良いタイミングだったのではないでしょうか」

――その国産初のF2に1000ccなどのマシンが混走するのは国内の台数から止むを得ないですが、フォーミュラカーレースがデモンストレーションから正規のレースになったのは一歩前進ですね。

◆燃え上がらないフォーミュラカーレースに一条の光

「ええ、そうなんですが(笑)、冒頭で示しているように10台の参加で8台の出走じゃねー、前年の13台のエキジビションを考えればもっと増えると思ったのですが、正直がっかりでしたねー。1600ccのF2規定エンジンを積んだマシンは2台の三菱を含め6台ですから一応恰好はついているのだけど、国産初のF2とはいえ、やはりメーカーが直々に開発したマシンとの差が余りにも大きいということでしょう」

――上記の結果表を見れば3位から後のマシンは周遅れですね。

「確かにレース内容の結果は三菱F2の圧勝だけど、これは当然のこと。ただ、レース前にはマカオやシンガポールのレースに出ていて香港の自動車デーラー勤務の英国人スティーブ・ホーランドがロータス41にコスワースチューンエンジンを載せたマシンでエントリーしていて、このマシンはロータスがF2用に新しく製作したものだから、三菱も歯が立たないだろうなんて言われてたのです」

――GPクラスのポルシェやニッサンR380などの話題ばかりで、そんな注目のマシンがあったのですね!!

「日本でもフォーミュラカーレースが知られ始めたのかもしれませんね。でも、スタートでトップにたったのはカッコ良いけどヘアピンのずーっと手前、バンクあとのS字カーブと聞いていますが、そこでスピンしてお.し.ま.い(笑)。結局、望月、益子、2台の三菱F2が3位以下をラップしてワンツーフィニッシュ」

――何か情景が解るような気がします。

「ま、前年のデモランの方が面白かったかも(笑)。この時点で三菱F2が欧州で走っているブラバムやロータス、マトラなどと比較してどの位のレベルにあるのか解らないけれど、1967年のGPレース各クラスの優勝スピードなどが参考になるでしょう」

■1967日本GPのスピード比較
レースクラス 優勝平均速度 最速ラップ&速度 マシン ドライバー
GPクラス 173.28km/h 2分00秒8
178.80km/h
ポルシェカレラ6 生沢徹
ツーリングカー 148.35km/h 2分20秒2
154.00km/h
スカイライン2000GT 横山達
GTカー   151.43km/h 2分19秒2
155.10km/h
フェアレディ2000 黒沢元治
フォーミュラカー 169.27km/h 2分05秒5
171.98km/h
三菱F2 望月修

――前年GP優勝の砂子義一さんが2000ccのプリンスR380で平均速度が166.3km/h、最速ラップ2分05秒02で、172.7km/hです。やはりフォーミュラカーとは1600ccでも速いですね。

「あのGPは60周、フォーミュラカーは25周ですから一概に比較できませんが、それまでフォーミュラじゃあ迫力が無いのではないかという憶測はおかしいという裏づけにはなったでしょう。考えてみれば、1964年GPでフォーミュラカークラスがあったのは事実ですが、このマシンは当時フォーミュラジュニアと呼ばれた1000cc程度の初級者クラスでしたから、本格的F2を中心とするフォーミュラカーレースは初めての試みです。この当時、ホンダがF1に挑戦していたといっても、その走りを国内見た人は何人もいませんから、F1とF2では違うといえども、三菱F2によって〝これがフォーミュラカーというレース〟を示したものと言えるのではないでしょうか」

――確かにフォーミュラカーへの知識は低かったでしょうから、参加台数の少なさや三菱の独壇場だったことなど、レース内容はさておきフォーミュラへの関心を高めたと思います。

「この年からヨーロッパF2選手権が始まったことは話しましたが、欧州ではフォーミュラカーの規則を巡ってチームやコンストラクターの思惑や駆け引きでF1すら規則の安定が難しかったようですね。その影響がF2やF3にも及んでいたようですから、ヨーロッパF2シリーズでようやく落ち着いたみたいですね。だから日本の近隣諸国、マカオやシンガポールのレースでも逸早くF2規定を導入し、F2は盛んになっていき、後年、三菱もマカオGPに乗り出すのですが、やはり、モーターレーシングとい、やはり、モーターレーシングとい、やはり、モーターレーシングというのは車両規定がコロコロ変わったのではダメですね」

――そうなると、このフォーミュラカーレース開催で三菱以外にもF2に乗り出す気運が高まったということでしょうか。

「そういった傾向になってきたのは事実ですが、市販車を改造のツーリングカーやGTカークラスと違い、フォーミュラカーというのは特殊なマシンで、その製造は簡単にはいかないのですよ。でも、かつて'デル'シャーシーを手懸けた塩沢さんのクラブや外国製を参考にするコンストラクターも出始め、さらに大きな動きも出るのですが、これは次回に述べましょう」

第六十八回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com


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