リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第70回
1968日本GPとフォーミュラの日本スピードカップレース

◆フォーミュラカーレースに変化の兆し/国際化の流れに

――鈴鹿サーキットが講習用に使用する目的で所有していたとされる約20台のフォーミュラカー(シャシーや一部エンジン付きのコンプリートマシン)が希望者に売り渡されたことも影響して、フォーミュラカーレースに出場するプライベーターが急激に増加した、というのが、前回のストーリーでした。

「そうでしたね。で、そのフォーミュラカーがどう生かされたのかとなれば、その効果は見事に現われましたね。さらにレース区分の扱いがフォーミュラカークラスではなく〝日本スピードカップ・レース〟という日本GPに並ぶ格式に昇格したのですから、自動車レースって、やはり台数が揃わないとダメなんだねー、いや当たり前か(笑)」

――そうなると、グループ7などのレーシングスポーツカー、座席が二つのマシンですね、それらの車種の最高峰レースが日本GPで、座席が一つのフォーミュラカーの最高レースが日本スピードカップになるのですね。

「そうです、解りやすくて良いですねー(笑)。それで1968年の日本GPは二つのビッグレースと通常のGTとツーリングカーでの開催です」

――フォーミュラカーへの参加者が増えて、日本のレース界は大きな変化になるのでしょうが、鈴鹿にあったシャシーを入手したチームはそれを母体にしてどのようなマシンに仕上げていったのでしょうか。それと、売り出したというのであれば一体どのくらいの値段だったのでしょう。

「おっ、すっごい質問というかレース記者の本性が現れたようで(爆笑)。そこなんですよ問題は。それまで日本に入ってきたポルシェ906や910、ローラなどの2座席レーシングカーはエンジンが付いた、というか完全に出来上がったコンプリートマシンですが、通常フォーミュラカーといいますのは、まず車体(シャシー)があって、それにどんなエンジンや変速機(ギヤボックス)を組合せて一つのレーシングマシンに完成させることですから製作の自由度は大きいのです。鈴鹿に有ったマシンの多くはヒューランドという名前のギヤボックスが付いていたようですから問題はエンジンでしょうね。それと鈴鹿が売った価格ですが、鈴鹿が保有していたのはシャシー/エンジン/ギヤボックス/ホイール&タイヤといったすべてが組立てられ、整備すれば直ぐにでも走れるものもあったし、シャシー&ギヤボックスいわゆるエンジンレスなど状態が異なるものバラバラでしたから、価格は当事者間の話合いが多かったようです」

――ポルシェがいくらだったとか誌面には結構出ていましたから別に秘密でもなんでもなかったように思いますが。

「ポルシェなんかですと、GPの話題の一つになるでしょうが、この場合はシャシーというか、まあ部品ですからね、それと輸入会社の販売と違ってサーキットが売り出し、、じゃあないなー、レース普及目的の好意的な譲渡だからねー」

――そうなると秘密のような、そうでないような(笑)。ではリキさんが買われていたとすれば、いくらぐらい。

「どーも食い下がるねー(笑)、基本的には鈴鹿が保有していたといっても中古扱いですからね。当時F2のシャシー、エンジン無しの中古、といっても1年間レースに使った状態のもので300万円程度の話があったのを記憶していますから、ブラバムBT16のF3用だったら150万円辺りが相場のように考えますがねー。仮にそれが高いか安いかは購入者の判断ですし、それにエンジンを搭載する/タイヤも必要/いろいろな補機部品も必要、などなど、完成車にするには結構大変なんですよ」

――そうゆうことなんですね、簡単な話と思っていてスミマセン(笑)。エンジンの選定はマシン規定の排気量に合わせるわけですが色々なエンジンがあるから難しいでしょうね。

「その通りなのですが、特に新たな日本スピードカップという名称になった1968年のフォーミュラカーレースは外国からの参加も視野に入れたのでしょう、エンジン排気量は3000cc以内であれば、即ちF3(1000cc以下)、F2(1600cc以下)でも、極端な話F1マシンでも良いってことなんだろうけど(爆笑)、鈴鹿にあったシャシーは1000〜1600cc用ですから自ずとエンジンは限られてしまいます」

――3000cc以内なら良いとなればホンダF1も走らせようと(笑)。

「まあ規則上は大有りですがー(爆笑)、この時代、日本に近い海外のレース、マカオやシンガポールなどだけでなく、特に南半球のオーストラリアやニュージランドではタスマンシリーズというレースが盛んでね、そこのエンジン規定が2500ccの特殊な規定で、そのマシンでの参加がマカオ始め東南アジアのレースには結構多かったので、彼らへのアプローチもあったでしょう。尤も、この数年後には、日本GPに、オーストラリアとニュージーランドを中心に戦っていたタスマンシリーズのチームが本格的に参加してくるのだけど」

――なんだかフォーミュラカーの環境が一気に変わってきたようで。

「そう、大きな変化ですね。そこで、鈴鹿にあったフォーミュラカーのシャシーはどんなエンジンを積んだマシンに仕上げられていったのか見てみましょう。まずF3規格(1000cc)では、ニッサン・サニーや三菱コルトのエンジンを搭載したのが多いですが、中でも三菱コルトの1000㏄エンジンはOHVですが小型軽量なこともあってフォーミュラカーには向いていたようです。それとフォード・エンジンをコスワースがチューンしたものもありましたが、これは鈴鹿から出たエンジン&ギヤボックスもついた完成車で1600㏄ですからF2規格になります。とくにブラバム・シャシー&フォード・コスワース・チューンドエンジン(1600cc)の組合せはF2規格の代表的マシンでした。ちょっと余談ですが、現在、袖ケ浦サーキットのオーナーで元衆議院議員・法務大臣だった中村正三郎さんは、レーシングモデルのロータスエランに積んであったコスワースエンジンを使ってレースに出ていました。その他にはいすゞベレットのエンジンを積んだマシンもありましたが、国産車のエンジンでフォーミュラカーに搭載できるような小型・軽量・改造し易いものは極めて少ないので、それぞれが大きく工夫され、手こずったマシンが多かったですよ。でも、今振り返れば、そういった時代って夢がありましたねー」

――何かいきなり本格的になったようで(爆笑)。やはり鈴鹿の大英断は凄い!?(笑)。

「いやいや、そんなに鈴鹿を立てなくても良いんであって(笑)。確かに鈴鹿効果というのは大きかったでしょうが、それが刺激になって、改良が進んだ純国産シャシー「デル」にニッサン・フェアレディーの1600ccエンジン、マツダのロータリーエンジンやスカイラインのエンジンを積んだマシンもありますね。変わり者というか、スバル1000のボクサーエンジンを使い、足回りもスバルのもの、もっと凄いのは、デルシャシーにトヨタ・クラウンのV8気筒2800ccエンジンで、正にF1クラス(笑)など、レーシングマシン造りが最も華やかになった時代かもしれない」

――そんな時代にレース界のど真ん中にいらしたのですね。羨ましいです(笑)。

「まあ偶然的運命で(笑)、とにかくね日本でレースが始まって5年、それまでのワークス中心から、ようやくプライベートチーム、ドライバーの層が厚くなったような気がします」

◆三菱の本格的な取り組み

三菱が1968年の本格フォーミュラ・レースの幕開けとなったスピードカップレースに送り込んだコルトF2。飛行機出身の技術者の作品らしく、レースでは取っ払われるが、テールに尾翼が着いていた。

――そんな流れのなかで、レースに興味を持った私にとって興味深かったのは、三菱の姿勢でした。外からみると、非常に積極的にフォーミュラカーに取り組んでいたように見えましたが、その辺りはいかがだったのでしょうか?

「このストーリーの初期、とくに日本グランプリが鈴鹿から富士に移った経緯で、GPはどうあるべきか?けんけんがくがくだったこと、その結果はプロトタイプスポーツカーによるGPへの道がつけられたことは度々話しました。また、その中で、自動車レースは市販車に無関係な部類、即ちマシンの製作技術とドライバーの運転技術をモットーとするフォーミュラカーを普及させるべきとする意見がありましたが、これは少数派でした。しかし国際的に通じるカテゴリーはフォーミュラカーであることは誰しも認めるところでしたから、将来的な見地から富士最初のGPにエキジビションとしてフォーミュラカークラスを設けさせた。これを強く推したのは三菱だったことも話しましたが、三菱は早くからフォーミュラカーの開発を進めていました」

――その後、といってもグループ7モンスターマシンの行き過ぎや排気ガス規制問題、やがてオイルショックによる自動車レース冬の時期になってしまう1970年代前半ですが、富士スピードウェイで盛んになった2000cc2座席スポーツカーの『富士グランチャンピオンシリーズ』でも、フォーミュラで開発が進んだ2000ccの『三菱R39B』が活躍していますが、三菱の取り組みはどんな風に受け取られていたのでしょうか。

「三菱の取り組みといっても?何を中心としての話か良く解りませんが、要するに1969年に5月はフォーミュラカーレースの祭典とするJAF GP、10月はグループ7カーによる日本GPとに分類したのですが、翌1970年の日本GPはニッサンもトヨタもタキレーシングなどのプライベート組も不参加ということで、日本GPそのものが無くなってしまった。一方、フォーミュラカーのJAF GPは、1969年を皮切りに毎年開催し、1971年5月には、崩壊したビッグマシンに代わってフォーミュラカーによる日本GPになっていくのです。そうゆう系譜を辿れば三菱が主張してきたレースの方向は良かったわけでフォーミュラカーレースに対する三菱の努力と一貫性は大きな功績でしょう」

――国内レースでの活躍は知るところですが、外国のレースに参加した話はあまり聞いていませんが。

「外国といってもF1でなくF2ヨーロッパ選手権への参加計画は当然にあったようですが、その前にフォーミュラカーレースが行われていた近隣国の代表はマカオGPで、ここのレースの上位陣は欧州のF2と同等のマシン&ドライバーですから、1968年の日本GPから日本スピードカップという名称と格式に昇格のフォーミュラカークラスで活躍した益子治、望月修の両氏がコルトF2Bで参戦しましたが完走ならずでした。翌1969年には益子治、加藤爽平が参戦し加藤が3位に入りましたが、ブラバム&コスワースやタスマンシリーズのマシン、ドライバーには追いつけない程、まだまだの感がありましたね」

――欧州への参戦は?

「結局、マカオへ二度参戦しただけですが、ちょうど1970年を前にしてF2のエンジン排気量を1.6リッターから2.0リッターに変更する動きが強まってきました。しかし、欧州の自動車メーカーの思惑がいろいろあったようで2.0リッターは良いものの、気筒数や市販車エンジンをベースにするか、生産台数は、などなど混乱し、F2レースそれ自体が存続できるのか、不安定な状況になってしまったのです。そんな状況では、三菱だって開発のしようがありませんからね。もっとも、この話は1970年になってからのことですから、その前に本格的なレースクラスの立場になったフォーミュラカーレースで三菱の活躍、ビッグマシンに取って代わる内容に育っていったのか、次回、日本スピードカップレースの話題を挟んでから見ていきましょう」

第七十回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com


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