リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第101回
日本のレース界に新たな旋風を!

1973年は、日本のレースのベースができた年だった。1973年にF2で行なわれた日本GPに続いて、500㏄エンジンを積むFJ500、1300㏄のFJ1300という新たなクラスが正式に発足、さらには鈴鹿や筑波でフォーミュラカー・レースが行なわれ、日本のレース環境は、大きく次の一歩を踏み出したのだが、排気ガス公害への対策が多忙になったワークス参加の減少が顕著になった。そのような環境下、より多くのチーム、ドライバーが参加し易く、数年前のビッグマシンの迫力に劣らない新たなカテゴリーの創出に苦悩する男がいた。

 

◆新鋭フォーミュラマシンの台頭とオイルショック

----フォーミュラカーによる日本グランプリが年毎に充実する中で、旧来のフォーミュラカーシャーシーの構造ではクラッシュに対する防備が充分に達せないことから、新たな車体作りが進み、その第一号ともいえるサーティースF2が日本GPに出場した影響も大きかったようですね。

「ええ、フォーミュラカーの車体は鋼管パイプを組み合わせた構造がマシンの軽量化から操縦性能まで最適だとされてきました。この傾向は世界大戦で中断したレースが1950年代に復興して20年近く金科玉条、まぁ、“絶対に護らなければならない”というような意味ですが、いまはそんな大それた言い方はしないけれど、そんな理論が中心でした」

----“キンカギョクジョウ”、わかりました、ぴったりの表現ですね!

「まあ、そんな信条も、クラッシュすれば、間違いなく火災事故になるのがフォーミュラカーみたいになってきちゃった時代でした」

----でも、その原因は明確だったのではないでしょうか。

「要するに、エンジンの発達で、どんどん速度が上がり、タイヤや操縦性の向上でコーナーリングは高くなる、コース路面も整備され、周回数が多い長距離のレースが増えるし、パワーが大きくなるに従い燃料消費がかさむエンジンが増えるなど、必然的にタンク容量も大きくなって多量の燃料を積んだマシンのクラッシュで火災事故も増える、という構図です」

----なるほど、レーシングエンジンのパワーアップ、レースの内容如何問わぬ高速マシンとの追いかけっこですね

「ただ、F2のエンジン排気量規定が1600ccから2000ccにアップの賛否やエンジン構造の基本部品が市販車のもの、いや、少数の限定生産でも良い悪いの論争が続く間に、排気量がどう変わろうが、一方に於いて、高速化するレース内容に適した安全構造のマシン製作が進んでいたのですね。それも従来のフォーミュラカー作りとは異なる視点でのね」

----ああ、それが聞き慣れないマシンネームが増えたわけですね、その先陣がサーティースなのでしょうが、そういった新鋭が前回までのストーリーの1973年日本GPには逸早く何台か、それも日本人ドライバーが乗って参加したのは大したもの、と言えるのではないでしょうか?

「そ、そうだね、いいこと言うねー編集長は(爆笑)、でも、本番への欠席も多かったけれど(笑)、日本人の新し物好きもいいもんで(笑)。いずれにしろ、日本でもフォーミュラカーレースが本格的になってきたなー、という大きな喜びだったですね」

----日本のメーカーが米国の排気ガス規制に対応できるエンジン開発に忙殺され、レースどころではなくなった折り、73日本GPが成功裏に終わり、日本のレース界も新たな方向に進み出すムードが湧き出したわけですね。

「そうです、GPが終わって秋ごろ、突然のように“日本の石油がなくなるー!”ということで国中が大混乱でした。この事件は“石油危機”と呼ばれ、石油がなければ自動車どころかレースなんてトンでもハップン、ユメもチボーもない、社会は真っ暗、昨日まで平々凡々なにごともなく過ごしていた生活がいきなり戦争中みたいになって、びっくりを通りこして恐怖だったのではないでしょうか」

----私は大学生でしたが、何がなんだかワケ解らない情況で、この先どうなるんだろう?不安と恐怖の日々でした。

「確かに大変な事態でした。戦争に負けちゃった時、もう悪ガキだったボクらにはどーってことなかったけれど、狂乱物価やガソリンが自由に買えないのは痛かったなー」

----なるほど。

「そんな次第で、当然にレースなんて中止だろう、というのが普通の印象ですが“レースの火は消さない”、とばかりの意気込みか執念か妄念か(笑)、細々ながらでもレースの開催はあったのです」

----なにかグッとくるようなドラマですね。

「まあ、そんなセンチなことじゃあないですが、石油危機下でのレース界はどうだったかについては別段でお話しましょう。でも何れにしろ1973年後期シーズンでのイベントは大方中止でしたから、ようやく進み出した新たなフォーミュラカーレースの路線が頓挫してしまったことは事実です」

----もう、レースなんてボイコットされてしまうのかと思いましたが少々安心しました。

「それと、GPのストーリーではありませんが、富士スピードウェイでの看板イベントになったビッグマシンによるGP、カンナムシリーズのハイスピードやマシンが発揮する魅力を惜しむファンの声が消えないのですね」

----それは当然でしょう、私だって、あのモンスターマシンが瞼に焼き付いて思わず涙がでそうでしたから。

「おっ、そーだよねー、編集長の生きがいだったのでしょう(笑)。それで、4000cc、5000ccのビッグマシンの再編はムリですから、新たに、2000ccになったF2と同じ排気量にボディーをかぶせたオープン二座席のレーシングカーによる富士スピードウエイ独自のシリーズ戦が、1971年に発足して、ハイッ編集長 何ていうレースですか?(爆笑)。

----ハーイ、富士グランチャンピオンレースといいます!!(爆笑)。

オイルショックの影響が叫ばれる半年前の5月に無事に行なわれた1973年日本グランプリ。

富士スピードウェイは、フォーミュラではなく、オープン2座席のスポーツカーによる『グラチャン』が1970年代前半に人気を博した。

「やはり元気あるねー(笑)。このイベントは、それまでの日本GP始めとする多くのレースは、メーカーが深く関わって盛り上げてきました」

----それが違う方向に大きくシフトするわけですね。

「ええ、その大きなパワーにプライベートが挑み、メーカー陣にどのくらい食い込めるかが見所のような形で拡大してきましたが、既に何度も話しましたように排気ガス対策で、レース活動を休止するメーカーが続出します。こういったレース界背景もさることながら、プライベートがもっと活躍できて、観客も動員出来る内容のカテゴリーを作って行かなければならない、という使命感に燃えていたのが、本田耕介さんでした」

----そういった背景から富士グランチャンピオン・シリーズが生まれたのですね。

「編集長もご存知のとおり、本田さんはクラブマン向きのイベントやレースオフィシャルの養成など行っているヴィクトリーサークル・クラブの会長を始め、多くのレースに関係した人ですが、1962年に発足したJAF(日本自動車連盟)の立ち上げから尽力した事務方で、JAFの事務局時代にはボクらと一緒にレーシングドラーバーのライセンス制定をまとめた方で、その後、富士スピードウェイのレース運営に携わったレース筋一本の人でした。

----2007年の5月に他界されたのですね。幅広い経験をお持ちの方で、その頃色々なレース主催のプロモーターが現れ始めたなかでも、他とは違った信念の方だったと聞いています。

「だから、プライベート主体でGPを乗り越えるイベント実現に苦悩しながら1971年に開催始めた通称グラチャンの“富士グランチャンピオンレース”ですが、始めたばかりの時代は、マシンが寄せ集めだったけれど、レギュレーションの改正など試行錯誤の末、1973年頃には多くのファンが集まり、GPや他のビッグイベントをしのぐ内容になりましたね」

----富士はグラチャンの開催が話題になり、学校のクラスでも大きな話題になってたのを覚えています。

「富士だけでなく他のサーキットにも強い影響を与えました。それも上からの発案や大スポンサーが付いたから始まったものではなく、本田さん始め個々のパワーの集まりでできたものですから、この機会に、もっと詳しい記述が必要ではないかと考えますが、編集長はいかがでしょうか」

----いやー、嬉しいですねー。フォーミュラカーの“日本GP”が整っていく一方で、日本のレースを語る上でエポックメイキングなシリーズ『富士グランチャンピオンシリーズ』がスタートし、フォーミュラとは別の2リッタースポーツの人気が急騰します。

「編集長が大好きになったカテゴリーのようで(笑)」

----はいっ!もう夢中でしたねー。

「オイルショックに揺れていた国内のモータースポーツ界に救世主になったようなシリーズでしたね」

----グラチャンが発足した事情も分からずでしたが、なにやら期待できるシリーズだと思いました。まぁ、家から1時間で行ける富士スピードウェイですから、私のモータースポーツ熱をさらに高めるシリーズでした。

「確かに、日本レーシング・センターの本田耕介さんが、“グラチャン”という新シリーズを発想されて、人気カテゴリーになったのです。本田さんは、1982年のWECジャパンの誘致にも尽力され、日本のモータースポーツ発展に大きな功績を残しました」

----本田さんには、私が山海堂のモータースポーツ専門誌『オートテクニック』編集部員になった後に、広尾にあったオフィスにご挨拶に伺った覚えがあります。1976年に入社した『オートテクニック』のデザイナーの奥様が在籍していらしたので、いろいろご指導をいただきました。そのデザイナーの故石崎芳人さんは、グラチャンのトップドライバーで、1974年のアクシデントで亡くなった風戸裕の高校時代からの親友で、グラチャンで活躍された藤田直弘さんのマネージャーをレーシングセンターの登美川さんが勤めていたこともあって、モータースポーツ界のたくさんの方を紹介していただきました。

「ほう、そうだったのですね」

----ところでグラチャンが四苦八苦しながらスタートしてから、全盛になるまでにマシン規定やレース規定など色々と向上への改革がありますが、その内容はどんなことで、また、参加者側はどのように受け取り、彼らからの注文等はどんなものがありましたでしょうか。

「その辺りを次回にお伝えしましょう」


第百一回・了(取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com


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