リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第35回
ライバルはスズキではなかった!? ~第二回日本GP、激突した三メーカー

(1)レースはナンバープレートが付いたクルマで行なう!

――さて1964年の春、リキさんとスバル・ワークスにとって、5月の第二回グランプリまで、あと二ヵ月という時期です。この“最後の二ヵ月”も、たとえばクルマの仕様をどうするかなど、いろいろなコトがあったと思いますが?

「あった……というか、ありすぎたね(笑)。それを話してると夜が明けるし、本番(レース)とも絡めて話せることが多いから、ここで一気に、話のステージを《鈴鹿》まで飛ばしませんか?」

――あ、時間を“5月”に? はい、そうしましょう。えーとレースは、まずは現地サーキットでの練習というかフリー走行から始まりますよね?

「フリー走行という言葉でどういうことをイメージされるか、ちょっとわかりませんが、この“グランプリ”では、レース・プログラムが全部で10クラスもありました。ですから、いまのF1のようには、十分なフリー走行の時間はありません。決勝前に走った時間を思い出せば、一日に30分、それも公式練習を兼ねての予選が二回です」

――はあ、レース前に走った時間というのは、合計しても1時間だったわけですね。ちなみにサーキットには、いつお入りに?

「GPの決勝は5月3日ですが、4月の末には、チームはすでにサーキット近くの平田町の旅館に陣取っていました。4月28日が第一予選日、そして30日が第二予選日でしたが、決勝日も含めて、コースへはずっとそこから通いました。まあ通勤ですな(笑)」

――この写真は走る前というか、車検のときだったと思われますが、ちょっと雨模様ですかね?

第2回日本GPの車検風景。リヤクォーターのインテークがメッキバージョンになるなどの“改造”が施されている。

「車検ですか。まあ、こういうときに、ライバルのマシンの状態など覗きたいわけですけど、いやぁ、みんなガードは堅かったですね。車検オフィシャルとチームのメカニックががっちり周りを固めていた。でも、そのことよりも、昨年より厳しくなったというか、車輌改造の規定がかなり整理されてきたので、チームとしては改造個所がレギュレーションに合った構造なのかどうか、車検時にはこっちの方が重要でした」

――車検時のスバルの写真では、フロントのエアインテークがガムテープでふさいであります。それから、リヤ・クォーター部分のインテークの写真がありますが、これは何か特別仕様だったのかな?

「フロント・ボンネットのインテーク? あれは、とくに風を取り入れる必要もなかったので、余計な空気が入るとそれだけ抵抗が増えると(笑)。まあ、そんな程度ですよ。リヤクォーターのインテークは、たしかに、市販車よりも小さいものが付いています。これは実験の結果、サイズの問題ではなくて、小さくても、空気取り入れの能力が向上したタイプに換えた……のだったかな? よく憶えてないけど(笑)」

――でも、ほかの日の写真は、そんな“ガムテープ・チューン”はしてないから?

「ウン、だから、あまり気にしないでください(笑)」

――ただ、やれそうなことは何でもやる! そんな精神は伝わってきます。

「それはその通り。エアの件にしても、冗談めかして言っててもホントは本気だったりしてるから(笑)。それと、この点は重要なので、これからじっくり話していきますけど、ぼくが出場したこのレース(カテゴリー)は、三つのワークスが激突した、第二回グランプリの最激戦区で……」

――はい!

「自分が出ているから、こういう言い方すると口幅ったいんだけど、軽自動車によるこのクラスには“第二回GP”が凝縮されていた。このGPでは、当時のメディアがプリンスとポルシェの対決なんて騒ぎたて、やたらと劇場型の関心を煽っていましたが、これはちょっと取材の視点がボケてると思う。ジャーナリズムとして幼稚ですよ」

――なるほど。そのへんはじっくりと伺っていきます。……で、その前にですけど、いまの目線から気になることとして、レース車にナンバープレートが付いてますね。そして、折り曲げてあったりもしてるようですが?(笑)

「あ、これはツーリングカーのすべてに義務づけされていました。要は、ちゃんと街を走っているクルマで、車検登録がしてあって、そういうクルマでレースする。特別なクルマでやるのではありませんっ!……という、ここを強調した主催者の姿勢ですな」

「……と言っても、フツーのクルマ? そんなものであるわけがないですよね(笑)。でも、この制度は数年後まで、レギュレーションとして残りました。要するに、基本的には路上を走れるように登録してあるクルマでなければ、レースには出られなかったのです」

(2)三つのチューンがあったスバル・エンジン

――ところで、ワークス・チームとしては、《鈴鹿》に乗り込んだ時点で、クルマはほぼ最終仕様に仕上げて来ていて?

「それは予選走行のこと? それであるなら、満足の状態なんかではありません。第一に、予選も“実験”の一部でした。一種の通過地点というかな、最後まで、探りながらの予選でしたから」

――ははあ?

「それに、そもそも予選が二回あるでしょ。他のチームメイトはともかくとして、少なくともぼくは、最初の予選は“まだ何か、やれることがあるのではないか”、これを探すセッションだという意味に解釈してました」

「当時は、予選が終わったらマシンが保管されてしまうといったシステムではありません。ですから、どこも、クルマはチームに持ち帰った。もちろん、車検時に、エンジンの重要な部分にはペイントの封印がされていますから、こうした箇所をいじることはできません。しかし、それ以外の部分では、いくらでも整備は可能でした」

――二回目の予選の方が速くなったのは?

「それはまったく、はじめからの“想定内”!(笑)最初の予選タイムとしては、あれでいっぱいでしたけど、予選の二回目では、それを超える目論見はあった」

――それぞれのクルマの仕様というのが気になります。リキさん仕様と小関選手仕様とでは、クルマは相当違っていたのですか?

「スバルは、このカテゴリーに7台エントリーしていて、そして、エンジンは三種ありました。基本は、リッターあたりの出力を100馬力までにした36馬力仕様が、トラブルもなくなっていて安定域に入っていた。このエンジンをさらにチューンして、まずトラブルは起きないだろうという、その限界が38馬力仕様です。そしてこれ以外に、3月半ばから4月末、つまり予選が始まるまでの間で、さらなる高出力化を行なったわけですね」

「ただ、三種あるということは、じゃあ決勝ではどう使うのか。監督や技術者としては、このことが逆に悩みになるでしょう。ここで、決勝のことを少し話しておくと、38馬力/40馬力/42馬力の三種をそれぞれ振り分けることになりました。スバル監督の佐藤重雄さんは、太平洋戦争では陸軍の騎馬隊隊長で、何度も出陣した軍人。そこから“軍師”として、ぼくらドライバーの走り方とか性格、また特性などを、よく見ておられたようです。まあ、これは、あとでわかったことですが」

――出力がそれだけ違うと、三種のエンジンはそれぞれ違って来ますよね?

「ええ、この三つのエンジンはどれも、それぞれに特徴があって、簡単にどれがいい悪いとは言えなかった。たとえば38馬力仕様は、安定第一で壊れることはないけれども、若干、戦闘力には不満がある。そして、40馬力仕様は、結構な戦闘力があるけれど、ただ、これに取り付けるギヤボックスがないというか、正確には数が足らない。ギヤボックスは、標準は、3速にオーバードライブの副変速機を併せたもので、2本レバーを持った6速ミッションでした」

「そして、最強の42馬力仕様は、パワフルだったけれどパワーバンドは狭く、オーバーヒートは激しい。それに、そもそもこのエンジンは一基しかありません。それと、どう言ったらいいのか、かなり高度な“機密”が入っていますので……。そこで、この42馬力仕様は、社内ドライバーでリーダーの小関典幸が使う。そして、40馬力仕様は大久保力と、前年のGPで、スバルで3位の最高位に入った社内ドライバーの村岡三郎がドライブ。残りは社内ドライバーで、ということになりました」

(3)マツダ・キャロルのデビューと“二輪の雄”片山義美

――パドック、あるいは車検場などで、他チームのクルマを目にすることになったと思いますが、そのときに、どんな感想をお持ちになりましたか?

「いやぁ、他人のことなんか構っちゃいられません。それと、スズキにしても、正式な車名は『スズライト・フロンテ』ですが、どんなマシンかだなんて、近寄ることすらできませんでした。たぶん、二輪の世界GPの経験で、車検でのこういう“ブロック”はスズキは慣れていたのかなあ(笑)。とにかく、なぁんにも見えない。これは、マツダも同じくでした」

――そうだ、マツダがこのクラスに出て来たんですよね。

「マツダのエントリーを知ったのは、3月31日の申し込み締め切り日を過ぎてからですから、4月初旬だったような記憶があります。“へーえ、マツダも走るの”って感じでしたね」

――クルマは「キャロル」。これ、エンジンは4サイクルですよね。

「マツダ・クーペの後継車で、4人乗りの本格的なセダンであるキャロルは、1963年に発売された最新の軽自動車でした。RR(リヤエンジン/後輪駆動)のエンジンは、アルミシリンダーを採用した水冷4気筒OHVという豪華版です。ただ車重は軽くなくて、スズライトと同じ525kgですから、スバルの400kg弱とは100kg以上も重いクルマでした」

「ですから、仮にそれを一所懸命に軽量化しても、車重では到底スバルには及びませんよね。そこなんですよ、ぼくが驚嘆したのは! それだけ重いクルマがウチと同程度の速さで走るというのは、エンジン馬力がウチよりはるかに高いということです。ぼくのエンジンが40馬力なら、それ以上。これにはゾッとしました。キャロルの仕様がどんなものなのかは、さっき言ったように、まったく見えませんでしたが、走り出してそのエンジン音を聞いたら、ただ者ではないということがすぐにわかりましたね」

――おお!

「ぼくらは、自分たちの苦労しかわかりませんから、ウチぐらい頑張ったところはないだろう……としか思っていない。でも、ライバルもウチ以上に頑張っていたということです。でも、同じ排気量、同じ規格内で性能を追求すれば、どこも同じような技術力を持っていた。つまり、日本の技術力は同じような水準にあったということですね」

「プライベートの人たちは、みなノンビリというか、和気あいあいの雰囲気ですが、ワークス同士はピリピリ(笑)。まあドライバーはそうでもないのですが、メカニックや監督、いわばチームをまとめる人たちは、悲壮なまでに張り詰めた雰囲気で“とげとげしい”空気がパドックを包んでいました」

――そして予選。リキさんのポール奪取はお見事として、そのマツダが、何と予選で3位に!

「そう、マツダです。スタート・グリッドは二回の予選タイムから速い順ですが、ぼくがポールポジションといっても、2位の小関とはわずか0.3秒差。3位のマツダとも、0.8秒しか離れていません。そして、このドライバーは、まさかと思っていた片山義美。たまげましたねえ、あの“二輪の雄・片山”が四輪のレースに出るとは。これ、まったくウワサもなかったですから」

「さらに、1秒差に5台入っているんですよ、7位までですと2秒差でしょ。全部で10クラスあった第二回GPで、こんな激戦のクラスはほかになかった。一見、他愛ない軽自動車のレースなので大きく注目はされませんでしたが、このレースは3メーカーが激突した、それも、それ以後のマイカー時代、その先鋒となるであろう軽自動車での覇権を賭けての大勝負だったのです」

第三十五回・了 (取材・文:家村浩明)