リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第50回
F1は、とても扱えるシロモノではなかった

1)ホンダ初のF1マシン

――3月15日に2015年F1GPが開幕しました。

「ホンダがパワーユニットをマクラーレンに供給して復帰しましたね。もう、早くも第二戦のマレーシアGPも終わりましたが」

――開幕戦でジェンソン・バトンが完走しましたが、第2戦のマレーシアは、2台ともリタイアでした。

「まぁ、最初からうまくいくほど簡単ではないでしょう」

――なにせ相手はF1ですからね。

「簡単に勝っちゃうようでは、ハナからチャレンジする意味もない(笑)。でも早くモノになってマクラーレン・ホンダの市販スポーツカーが誕生するのを期待しているんだけど~~」

――マレーシアでは、トラブルも減って進化がみられましたが、これからですね。ところで、今回のホンダF1は、都合4回目の試練になります。

「最初が1964年から1968年でしたか。その後、1980年代から1990年代にかけてが第二期になり、2000年から2008年が第三期だったかな。だから今回は第四期ってことになるね」

――ホンダでは、第四期と言わないらしいです。どうやら今度は、出たり入ったりをやめて、ずっと参戦を続けて、F1村の住人になる構えらしいですから。

「そう、そこなんですよ、チャレンジというのは継続ですから。とかく、勝てば勝った勝ったでやめちゃう、負ければ言い訳こいてやめちゃう(笑)。やはり、細々でもいいから続けることなんですが、日本では経済効果優先ですから、モーターレーシングへの取り組みが先進チームとは違うのです。早く“F1ファミリー”と認められるようになれば日本での文化的意義も高まるでしょうね」

――開幕戦で、ジェンソン・バトンがなんとか完走しましたが、シーズン前の合同テストでは、満足に走れていなかったので、大丈夫かと心配していました。バトンのチームメイトの若いケビン・マグヌッセンが、スタート前に白煙を吹き上げて、スタートできない事態になっていました。

エンジンブローというフレーズを久々に思い出しました。F1ではここ最近、エンジンが壊れて白煙を上げるような場面をトンと見なくなっていましたから。

「それでも開幕戦でバトンが完走したことで、というより完走させねばならない使命感?(笑) TV画面から僕はそうゆう雰囲気をつくづく感じたなー。ホンダはレシプロエンジンと電気モータの混合パワートレーンでは後発ですから、先行組に追いつくだけでも場数が必要ですよ。でも、それを承知での参戦ですし、歴戦のマクラーレンがホンダパワーに期待してのコラボでしょうから何かしら期するところがあってのことでしょう。マレーシアでは2台とも完走できなかったけれど、単にターボエンジン時代の経歴に頼っているわけではないでしょう。いずれにしても時間はかかりますよ」

――そうですね。そもそも、第一期も第二期も、最初は苦労していますね。

「苦労なんてもんじゃないでしょう(笑)、あれは挑戦じゃなくて冒険(笑)。一番最初は、1964年8月のドイツGP出場ですが、元々は、ロータスにエンジンを供給するエンジン・サプライヤーとして始まった話のようですね。ところが、その年の1月になって、突然ロータスからキャンセルの冷や水あびせられて、シャシーも自前のオールホンダ・純日本製のフォーミュラカーの製作を決断するんですね。今の企業論理なら“ふざけんじゃねーっ”でやめちゃうでしょうが、この思いがけぬ成り行きに本田宗一郎さんの負けじ魂が燃えたぎったのではないでしょうか」

――しかし、その当時のホンダは、2輪では世界制覇をしていましたけれど、四輪では実績がなかったですよね。

「実績となれば、T360という軽トラックだけですが、そのことよりロータスのコーリン・チャップマンはホンダのオートバイGPマシンの技術なら画期的な四輪用エンジンを開発するだろう、の目星をつけていたと思いますよ。でもまったく未知なものへの課題があったのも理解できますが、ホンダが遠からず本格的な四輪開発に乗り出すのを予想していたのは日本より欧米の自動車先進国だったかもしれません」

――はー、そうゆう先見が既にあった~。

「先見というのかどうか、1959年のマン島TT初挑戦以来、1966年の二輪世界GPでは50、125、250、350、500ccの全クラスでメーカーチャンピオンを獲得して、もう、こんな記録は二度とないでしょうが、やるべきことはすべて達成したんです。

そうなれば、あとは四輪ですよ、やはり本田宗一郎さんの究極の夢は自動車レースでしょう。これは1954年(昭和29年)にマン島TTレースへの参戦表明の檄文で『私の幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の覇者になることである』と、ありますが、これはTTからオートバイ世界GPへ、そしてゆくゆくは四輪レースに向けた切実な心情を唱ったものと、僕は解釈しています」

――なるほど、当時のホンダは二輪だけですから、まず二輪の覇者となって、次の目標は、ということですね。1954年の宣言文から10年経って念願の四輪が、それも途方もない軽トラックで(笑)

「本田宗一郎さんが戦前にレースにのめりこんでいたのは、二輪ではなく四輪ですから、一日も早く四輪レースに出たい気持ちがあったと思います。だから本田宗一郎さんは、ずっと四輪をやりたかったと思うんです。だからトラックだろうが360ccのスポーツカーだろうが将来の四輪への足掛かりができれば良いことであって。ただ足掛かりの内容が異端な四輪で(笑)。僕は以前に、GPライダーだった谷口尚己さんに、この辺りの内情を聞いたことがあります」

――谷口さんは、1959年にホンダがマン島に初出場したときに、6位になって、日本人で初めて世界選手権レースに入賞した方ですね。

「社員ライダーの集まりであるホンダスピードクラブにはいろいろなライダーがいましたが、彼のマシンセッティングには定評があったようですから二輪以外にも通用したのではないでしょうか」

――その谷口さんもF1の開発に関わったのでしょうか?

「谷口さんの他にも、世界GPを転戦していてホンダスピードクラブのリーダーだった鈴木義一さん、彼は1963年の第一回日本GP自動車レースにVWで参加、優勝しているのですが、そのギッちゃんや第二回GPにはホンダS500で走った田中楨助さんたちも無関係だったとは思えません。ちょっと話は横道で、以前にもふれたかもしれませんが、第一回GPのあと、ギッちゃん(鈴木義一)はベルギーのリエージェ・ソフィアラリーに出場して事故死されましてね~~、テイさん(田中楨助)も今年2月末に病死で~~、どんどん寂しくなりますねー、、。

あっ、それでF1ですが、ホンダが試作車開発のスタート時点では、谷口さんたちが荒川のテストコースや鈴鹿で走ったようですが、二輪GPライダーがマシンの本格的開発に関わったわけではないようです」

――先の話にもありましたように、当初はロータスのシャーシーにエンジンを供給するで始まったのが車体からエンジンまでオール自前になって、それもわずか半年足らずで。

「そう、今では考えられないことですねー。ただ、エンジンだけの開発といっても、それを搭載するF1シャーシーとはどうゆうものか知らなければなりませんから、英国のコンストラクター・クーパーのF1マシンを輸入していろいろテストをやっていたようですね」

――ジャック・ブラバムのドライブで1959、60年とコンストラクターチャンピオンを獲得のクーパー・クライマックスですね。

「谷口さんが言うには、ホンダは、すでに当時、世界GP、いまのモトGPですね、そこでチャンピオンを取っていて、2輪は世界に通用するノウハウもデータも実績もあったけれど、四輪の開発経験は丸っきりなかったので、当時の最高マシンを参考にしなければ何も始まらない情況だったのでしょう」

――なので、クーパーという最高レベルのマシンをサンプルに。

「他にも数多いF1マシンの中からクーパーを選んだのはチャンピオンマシンということもあるでしょうが、そう単純な選択だったのかどうか、僕にはそう思えるのです」

――えっ、何か特別な理由でも?

「いえね、そんな難しい話でなく、F1はフェラーリなどの自動車メーカーが中心に始まった中で、ニュートン・クーパー&ジョン・クーパー親子が立ち上げたクーパーカーズは、いわばマニアックな街のコンストラクターであって、大企業メーカーとは異なる発想や技術の強みをマシンに見る本田宗一郎さん好みのサンプルだったのかもしれません。それと、これは人づてなので真偽の程は解りませんが、二輪GPレースの契約ライダーであったボブ・マッキンタイヤが1962年にレースで事故死し、彼が所有していたクーパーを、遺族への一助として買取り、F1開発に役立てたという話もあります。

いずれにしてもクーパーには構造が異なる色々なエンジンが搭載される自由度の大きいシャーシーですから、ホンダ初のF1エンジンには格好のサンプルになったでしょうね。とにかく、自分たちのマシン造りは手探りの状態だったでしょうからクーパーから学ぶことは多かったようです」

――とはいえ、トラックしか造っていないメーカーとF1チャンピオンマシン・クーパーって、とても奇異な感じで(笑)。

「いいところに気づきました。それが実はF1に関係あるんです」

――トラックがですか?

2)藤澤式販売戦略と宗一郎の夢

「まぁ、車作りの技術的には直接の関係はないでしょうが、トラックとF1はクルマの両輪のような関係であったでしょう。あのT360がなければ、今のホンダはなかったと思います」

――どんなつながりがあるのでしょう?

「宗一郎さんと藤澤さんの共同戦線というか、四輪に乗り出すために、いろいろ考えていたんだと思います。前回お話したように、S600の価格当てクイズを大々的にやったり、そしてF1に出てしまったり」

――それが1963年8月発売のトラック?  あ、市販車初のツインカムエンジンだったからとか?

「いやいや、そういうことじゃなくてね、S500というスポーツカーとF1というレーシングカーは、まぁ、同じサイドにあった。しかし、F1はあくまでホンダというブランドを構築するため、そしてS500もイメージ戦略としては、まぁ悪くなかったけれど、当時は、スポーツカーなんて、まず売れない。それを見越して商売を考えた副社長の藤澤武夫さんが、トラックの製造を提案したようです」

――バイクを運べるように、とか、トラックのサイズにもこだわったのは、藤澤さんのアイデアだったのですね。

「そう、スーパーカブも藤沢さんの発想が基になっていますしね。トラックを考えたのは、当時の社会情勢や市場の状況からして、四輪車製造に乗り出すなら、まず需要の多い商用車だと読んだのでしょう。第一、ホンダの場合、四輪を販売するとしてもオートバイ販売店を頼りにしなくてはなりません。そのオートバイ屋さんに、まずホンダの四輪車を知ってもらうのにトラックは一挙両得なのです。

自分のお店でお客さんへのオートバイをホンダトラックで輸送するなんて、一種のシャレにも通じます(笑)、それも日本の自動車初のDOHC(2バルブ)四気筒水冷エンジン、当時の軽自動車は20馬力程度のエンジンなのに30馬力8500回転、まさにブランド(笑)。まあ、そのくらいじゃないとバカにされる(笑)。それと軽トラックだけのように思われているけど一年後には500ccの小型自動車も出しているのです」

――四輪と言っても、本田宗一郎さんの場合、スポーツカーやレーシングカーに考えが行ってしまうので最初がトラックだったのが意外で。

「商売を考えると、スポーツカーとは対局にあるトラックで四輪を始めた、というのも、宗一郎さんと藤澤さんの関係を良く表しているし、ホンダの成り立ちは実際にはとても堅く、慎重な証明であるのかもしれません」

――あ~、もしあのまま、というか宗一郎さんだけの勢いで突っ走っていたら、ロータスのような運命になったかも分かりませんね。

「それはスポーツカーのような尖がった車ばかりの生産に走っただろう、ということですか?  そうはならないでしょう。この時代既に企業としての基盤ができつつありましたから。ロータスは、F1で培ったクルマ創りのノウハウでスポーツカーを作っていましたから総合自動車メーカーを目指すホンダとは比べようがないでしょう」

――スポーツカー専門に走ったロータスは結局先細りになってしまった。つまり、ホンダも、商用車から始めていなかったら、同じような道を辿ったかもしれませんね。

「ただ、谷口尚己さんが何度も言われてましたが、宗一郎さんには夢があった、と。たとえば鈴鹿を作って第一回日本GPのときも、近隣の住民や自動車デーラーの客を動員して盛況に見せる努力もした」

――2日間で20万人といわれていましたが。

「そうした実情を知っている谷口さんが宗一郎さんに、こんなのを作っても、いつも観客が入るわけじゃない、と心配を伝えたそうです。それに対し宗一郎さんは、“谷口、心配するんじゃねー、大丈夫だ、もし人が入らないようなら、F1グランプリを呼んでくるから”、と言われたそうですよ。結果として、後年それが実現してますね。その先見の明に対して、谷口さんは“オヤジさん”を心底尊敬しています、というのが彼の口癖ですね」

――宗一郎さんは、なにをやるにしても、“一番むずかしい仕事から始める人だったようですね。後に、当時を振り返って、“自動車製造を始めるということは、一番難しいスポーツカーから始め、その車でいち早く日本グランプリにも挑戦したわけです”とコメントしています。

3)荒川の初試走

「第一期を始めたとき、ロータスのコーリン・チャップマンからホンダ・エンジンの使用を中止する電報がきて、“ホンダはホンダ自身の道をとる”ということで自社製の車体で出ることになったときのことも、“なんでレースに出るのか。俺は単に勝負が好きだから出ているのではない。これは走る研究室なのです。世界一の、ホンダでなければできない、という自動車を創るひとつの下準備だと心得ているのです”と本田さんの回想録にありますね」

中村良夫さんがステアリングを握って、金色のRA270を鈴鹿で走らせた。下のコクピットは、二輪世界GPで活躍していた谷口尚己さん。
試作F1は、“スズカのS字コーナーでアクセルを間違えると、どっかにいっちゃう”怪物だった、と谷口さんは当時を振り返る。

――そこなんですが、ロータスから、その知らせが来たのは1964年1月末のはずなのですが、2月6日には、すでに荒川のテストコースで、中村良夫さんと本田宗一郎さんが、RA270を走らせているようなのです。

「それは凄いね。すでに、ロータスに送り出すために、エンジンを積んで走っていた、ということでしょうね。エンジンができてもフォーミュラカーに搭載して走らなければわかりませんね」

――荒川を初めて走ったRA270は、金色ではなく、普通の白だったようです。その当時、エンジンやギヤボックスの設計担当だった丸野富士也さんのエンジニアの手記(『HONDA F1の原点とヨーロッパ紀行』)によれば、「その日11時28分に中村良夫さんが幅5mの狭い荒川のコースを慎重に走って、5速8500rpmで175㎞/h出た」と書かれています。

その後、11時50分に宗一郎さんがコクピットに潜り込んで、こちらも慎重に2.2kmの荒川のコースを2ラップしたとのことです。そして、その10日後、鈴鹿を走ったときに、初めて金色に塗られたということでした。

「そうだったんですね」

――2月16日鈴鹿初試走をしましたが、ウォーターポンプからの水漏れと、プラグの配線を保護するグロメットからはオイル漏れ、エキパイにヒビが入る、と散々でした。

修復して翌日も走ったけれど、今度は、シフトロッドが折れて走れなくなって、緊急事態に限る“マル特”の命令が出されて、研究所で補強したシフトロッドが急造された。なにしろ、その翌日の18日には、宗一郎さんと藤澤さんが視察に来ることになっていたので、“折れましたので走れません”では済まない、と。

完成したシフトロッドをタクシーで埼玉県の和光から鈴鹿に運んで、深夜3時に鈴鹿の宿舎に到着。待ち受けていたスタッフがたたき起こされて、2月18日12時に完成して、中村良夫が宗一郎と藤澤武夫の前で無事に走行した、ということでした。

「その後で、谷口さんや、先日亡くなった田中楨助さん、そして、ホンダS800の海外初レースのリエージュ・ソフィア・ラリーで事故死した鈴木義一さんたちがテスト走行をしたようです。しかし、谷口さんによると、“とてもじゃないけどうまく走れなかった”ということでした」

――その後、ホンダとはF2でも深い関係のあったワールドチャンピオンのジャック・ブラバムにテストを依頼したりしています。

「谷口さんの話では、金色のRA270に乗ったブラバムさんから、随分手厳しいコメントをちょうだいしたようですね」

――馬力不足、重すぎる、太すぎる、設計が古くさい、と(笑)。確かに、最近まで気づかなかったのですが、1964年にデビューしたホンダF1は、当時のトップマシンのクーパーやロータスなどに比べると、やたらとでかい(笑)。

丸野さんの手記によると、大きいと言われたので、シリンダー間を詰め、クランクシャフトからカムシャフトを駆動するギヤトレーンの幅を極端に狭くして、スターターや点火装置、タコメーターの位置を移動して、エンジンを12cmも短くしたのに、それでも太かったとのことです。

「でも、そこからスタートして、茨の道を踏み分けて、優勝するところまで行ったわけですから。そのチャレンジ精神の成果ですよ」

――谷口さんは、試作F1に乗られた感想をなにか仰っていましたか?

「とても扱えたもんじゃない、というようなことでした。“化け物みたいに速い。ハッキリいって”、と言ってましたから」

――パワーもさることながら、二輪でしかレース経験がないところにいきなりF1じゃ、無理もないですね(笑)。

「鈴鹿のS字で、アクセルワークを間違えると、スピンしちゃう、と。これでレースなんて気は起きなかったそうです。

それに、谷口さんご自身が、四輪にはあまり興味がなかったことと、ホンダじたいが、もしものときのことを含めたリスクのことを考えて、日本人を使いたがらなかったという側面もあって、二輪GPライダーが積極的に乗ることはなかったようですね」

――ちなみに、1966年に藤澤副社長が研究所に求めた序列は、まず、N360があって、トップ3が生産車の研究、4位にF2、5位に2輪レーサー、F1は6位だったそうです。

「その中で、切り盛りしてのチャレンジは、苦労も多かったでしょうね。しかし、いつかは四輪、という宗一郎さんの夢が、間違いなく芽を出して、そこから花を咲かせていく。その意味で初回の冒険的F1参戦は大いに意義があったと思います。古代ローマ帝国が繁栄を極めるまでには700年かかったことに由来した何ごとも、ローマは一日にして成らずです」

第五十回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com