リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第94回
サポート・レース”に強豪集中!!(第一部)

ジョン・サーティースという世界レベルのドライバーを迎え、左周り4.3kmショート・コースで行なわれた1972年日本GPは、そのメインレースを凌ぐ強豪が“サポート・レース”に集中した。当時の国内トップの『ワークス・ドライバー』が、こぞって参戦して盛り上がったツーリング・カー・レースとGTレースの闘いを、2回に分けてお届けする。

---前回、ようやくフォーミュラ・カーによる日本GPが発進して、長年の試行錯誤にピリオドが打たれたわけですが、GPレースでありながら、なぜショート・コースになってしまったのか、リキさんの憤懣(ふんまん)が破裂しましたが(笑)。

えっ、そんな過激に見られたかなー(爆笑)。いずれにしてもグランプリの名称にふさわしいのか、てなふうに考えちゃったのは事実だねー。もっと盛り上がると思っていたら何とかして15台のエントリーがやっとでしょう」

-----でも、ジョン・サーティースという超大物の参戦はGPならではの見せ場でした。

「それはそうだけれど、サーティースさん一人が走るわけじゃないし、彼一人でGPが成り立つもんじゃない。まあ、例年の常連でタスマンの人達も参加してくれて、取り急ぎ面目保ったってことかなー」

----そういえば、もっと日本のトップクラスがフォーミュラ・カーに参戦してくるんじゃないかと期待しましたが、そうはならなかったイメージでした。

「やはり、新生GPへの期待が薄かったのでしょう。第一にフォーミュラ・カー・レース活性化に尽力してきた三菱が、誰~も参加しないなんて可笑しすぎませんか? 前年、ようやく日本GPに優勝して、“やった、ヤッター”で満足したとは思えないけどねー。

----他にも三菱が参戦しなかった理由があったのでしょうか?

「うん、やはり、他のメーカーと同じく排気ガス問題を優先させねばならない技術開発事情があるのだろーなー、てな判断での、やむをえぬGP欠場、なんでしょうね」

----う~ん、三菱チームとしては、欠場でも、鋭意開発したF2エンジンの『三菱R39B』を、外部のチームに貸与して、GP/フォーミュラ・カー・レース活性化への協力体制のようなものが、メーカーの一つの姿勢だったんじゃないかとと思いますが。

うん、それは言えるね。田中弘、鮒子田寛、漆原徳光、高原敬武の四台にR39Bを貸与しましたが、この体制はフォーミュラ・カー・レースだけではなく、他のジャンルにも少なからぬプラスの影響を与えましたね」

----リキさんの好感的評価は?

「別にボクは悪態ばかりついている気はないんだけど(爆笑)。まあ、レース先進国では一般市販車の構成部品でレースに適したものがあれば、それをチューンしたり、メーカーサイドでもレーシング・パーツとして市販したりは当然の市場ですから、日本もそうなっていけばスピード競技はもっと伸びますよ。とくにフォーミュラ・カーは各種パーツの組み合わせで成り立っていますが、まだこの時代、日本では秘密・特別ほどの物でもないのに、やたら特別扱いが多いですから、コンストラクターも育ちにくい環境なのです」

----グループ7や、軽自動車のミニカー・レースなど、もっと広がるかと思っていましたが、日本の土壌には育ちにくいということでしょうか。

「それはマシンだけでなく、ドライバーにも影響しているのです」

----ドライバーにも? というのは?

「このストーリーで語るように、日本の自動車レースは、発祥から10年足らずでとんでもない規模に拡大していきますが、それは日本のモータリゼーション、即ち“自動車のある生活”の異常な拡がりとリンクします。当然に自動車メーカーを筆頭に関連産業もレースの存在を無視しての成長はあり得ませんし、彼らの技術開発が市販車にフィードバックさせ自社製品の優秀性を誇示させる大きな役目を担うのはドライバーですね」

----そうですねぇ、多くの人、私もその一人でしたが(笑)、メーカーに雇用されたり何らかの報酬が得られる『ワークス・ドライバー』、『メーカー・ドライバー』と呼ばれる立場が最高の憧れでしたから。将来の夢はワークス・ドライバー(笑)。

「野球を筆頭に、そのジャンルのトップグループに入るのは、その世界の何パーセントもいないんだけれど、モーターレーシングというのは、多くの者が命を賭して挑戦しても夢破れるだけでなく、身体の障害を負う、果ては生命を失う割合が大きいけれど、周囲がびっくりして憧れるほどの収入ではないのです」

30度バンク

2輪/4輪の世界チャンピオンのジョン・サーティース。中村良夫元ホンダF1監督のマネージメントで1972年日本GPの主役になるはずだったが、日産/トヨタのワークス・ドライバー総出演のサポート・レースにお株を奪われた。

----それでも魅力的なのはスピードの魔力や憧れ、金銭勘定では表せないものが、あるということでしょうか。

「そういった要素はありますが、その課題になると本筋外れちゃって(笑)、要するにレースあっての、そして高性能車作りあってのワークス・ドライバーですから、“自動車屋は汚ねー排気ガス何とかしろっ!”、という世論がある中で、降って湧いたような米国からの排ガス規制が浮上して、そうだそうだ、とばかりに追従して息巻く日本の世論、こうなったらレースなんかやっちゃあ居られねー(爆笑)」

----グランプリどころではない、5000、6000cc、V8、12気筒、スーパーチャージャー、どこ行った? ですね。

「ホントどこ行ったんだ、だね(笑)。メーカーがレース活動しなくなったらワークス・ドライバーなんて言ったって陸に上がった河童(笑)。だらしねーもんだよね」

----新生日本GPが発進したとはいえ、第一線ワークス・ドライバーの出番もなくなりますね。

「基本的に日本の自動車メーカーは、総じてフォーミュラ・カーに対する認識というか興味ね、それが薄いのです。ホンダF1の後追いへの面目もあるでしょうが、それよりも、ホンダのように、“F1活動を通じての技術開発を市販車に活かす”、という体質が他メーカーにはありませんから、自社製品の優秀性を誇示できるクラスでなければレース活動の意義や市販車への直接的な技術転用が見られない活動は、社内的理解も得られにくいですからね。当然、ワークス・ドライバーの出番も少なくなってしまいます」

----ビッグマシンのレースに社運を賭けた時代は、それこそワークスドライバー冥利に尽きる存在で、ツーリングやGTなどの共催レースへの出場は少なくなっていって、以前のようにサンデー・レースやクラブ・レースにも、ワークスの出しゃばりといいますか、その傾向が薄れて、GPクラスとの棲み分けが進んだような気がします。

「そうです、良い方向になっていきました。でも、GPじたい、殆どのメーカーがフォーミュラ・カーには無縁という状況の上に、排気ガス対策優先となれば、ツーリングカーやGTカーの共催レースしかない。そうなれば、ワークス/セミワークス無関係に、誰彼なしに、サポート・レース、この表現は好きじゃないのだけれど、まぁ、いいか。そう呼ばれる共催レースの参加者が増えちゃった。まぁ、以前の時代に逆戻りしたわけです。その内容はそれらのレース決勝結果を見れば一目瞭然です」

----サポート•レースの決勝結果をみれば、1972年GPの全貌がわかる、と言われても、どうも、もうひとつピンときません。

「まっ、いいから見てご覧なさいよ(笑)」

1972年日本グランプリ参加者・予選順位
(5月2-3日/富士スピードウエイ4.3㎞ショートコース)

予選タイム
(5月2-3日/富士スピードウエイ4.3㎞ショートコース)

予選タイム

予選タイム

予選タイム

----えっえっえー、これが‘72年日本GPの全クラスの結果ですねぇ!! ツーリングカー、GT、ジュニア・フォーミュラ、それぞれ大変多くの参加台数で、ドライバーも多彩ですねー。

「それに比べてGPがいかに寂しいか。新たな方向を見いだしたものの、これが国内最高峰イベントの実態だったのです」

----TS、GT、Fジュニアが中心で、グランプリはサポートレース(爆笑)。

「うーん、そこまで言われちゃうかー(爆笑)。そう、今は主役のメインレースに付随のクラスはサポートって名称だけど、この時代は前座レースといってね、落語で真打ち出演前に客席を盛り立てる見習い芸人みたいな、というのは失礼だ、ってことから変わってきたけれど、サポートって言葉のイメージは、補助・援助・予備などの意味だからボクは嫌いだなー、共催とか○○特別レースなど、もっと適切な表現が欲しいよね。おっと、またコースアウトしそうだから、次回は本題に戻りましょうか(笑)」


第九十四回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com


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