リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第48回
沸き立つ海外レースへの夢

(1) 富士SWに移ったGPの影響は

――前回は日本GPが鈴鹿から富士に移って、国産自動車メーカーの新たな激突が始まった話でしたが、それは日本のモーターレーシ ングが大きく変わったということでしょうか。鈴鹿から富士に移った事情にはいろいろあったのでしょうね?

「簡単に整理すると、仮に第2回まで鈴鹿で開催された日本グランプリがあのまま続いたとすると、いろいろ弊害がでた可能性があります。まず、グランプリに参戦する開発費がかかるわけですが、メーカーの負担はそれだけではなかったですから」

――他にも費用が?

「鈴鹿サーキットを使うわけですから、練習走行にしても、本番にしても、イメージとして、鈴鹿サーキットの親会社である“ホンダに金が流れている”と思われがちでした。鈴鹿サーキットの運営会社は、当時テクニランドと名付けられていましたが、母体がホンダです。そもそも鈴鹿サーキットは、本田宗一郎さんが、高速テストができ、多くの人にレーシングスピードで走る場所を提供したい、ということで造られたわけですから。それと発足したてのJAF(日本自動車連盟)に対する反発もあったと思います」

――鈴鹿サーキットを舞台にして第2回の日本グランプリを主催することになった日本自動車連盟ですね?

「日本グランプリの観客動員は、第一回で20万人以上になりましたが、実は、各メーカーは、3万枚以上の観戦券を買わされていたという話もありますが、あながちガセネタではないでしょう。その上、当時1時間25万円(現在なら280万円ぐらいか)だったテスト用のコース代も払わなければならなかったわけです」

――それが全部ホンダに流れてしまうようなイメージだったのですね。ある意味、成り行きとして、富士に移る運命にあったというか。

「以上のような事情で、富士に日本GPが移ったのは当然の成り行きだったでしょう。鈴鹿とGP開催の条件で話がこじれれば、新しくできたコースに移りますよね。そうは言っても、富士はアメリカンレースだから、ぼくらには無縁と思っていたくらいです」

――そうなると、参加する側のドライバーやチームは新たなGPをどう受け止めたのでしょうか。

「えっ、富士って普通のレースもできるの?って感じで意外でした。オーバルコースを大きく変更したなんて知りませんから。それでも、レースができるのなら富士だろうがどこだっていいやって感じでした。

でもねー、ぼくはレーシングチームを浪人中でしたから走れるアテもなかったし……新たなGPへの関心も低かったかもしれません」

1966年、鈴鹿から富士にGPは移った。富士スピードウェイは、スケールが大きかったが、大きすぎるがゆえに異質なとらえられ方をした。一方で、1964年の東京オリンピックで感化された海外への夢が膨らんでいく。
写真は、1966年日本GPの特殊ツーリングカー(TS)レースのスタート。力さんも、ダイハツ・コンパーノで参戦した。

――でも、ダイハツで参加することになって。

「ええ、そうなんですが、その辺りの事情は別の機会ということで。とにかく走れることになって、富士のコースに初めて入った時、鈴鹿とは丸っきり違うコースで、やはりアメリカンなんだ、そして、ここでは特別なマシンでないとレースにならないな、という直感でした」

――特別なマシン? というと……。

「要するにスピードの出しっこ第一ということで、欧州を中心に発展したレーシングカー、即ち軽快な運動性能重視の国際規格の小中排気量には不向きだということです。初めての富士(第3回GP)では、鈴鹿や船橋でレースの何たるかが解りかけてきた延長線上の内容でしたが、その次のGPからは一気に大排気量マシン中心のレースになっていくのです。

それが1967、68、69年とエスカレートし、排気量無制限にまで肥大化します。お客さんにとっては、そりゃー好評ですよ。超スピードが売り物のGPになってしまったのです。富士のコースに見合った内容かもしれませんし、日本のレースがアメリカンを目指すならまだしも、本来のモーターレーシング、それも国際的なレベルを目指した方向が完全にずれてしまったと、ぼくは断言しています。結局は自動車メーカー自らの首を絞め、一部のプライベートも、あぶくゼニが切れて自滅ですよ。日本のモーターレーシングの普及途上にあって、国際化が遅れた原因の一つがこの時期にあったと、ぼくは考えています」

――それでも、1969年のGPには、レオ・ゲオゲーガンなど、オーストラリアのタスマンシリーズで活躍していたドライバーを招聘したり、1970年には、ジャッキー・スチュワート、1972年には、ジョン・サーティースなどのワールドチャンピオンなども参加するようになって、国際化が一気に進んだように思えますが。

「そうゆう見方もできますが、ぼくが、日本が目指したのは、日本からも外国のレースにどんどん挑戦して、マシンもレーシングコースもレース体制も国際規格に準じるレベルアップを計るのが急務だったのですが……、内々の思惑で、日本独自といえばカッコ良いですが、鎖国的発展(笑)から抜けだせずにいたのです」

――本欄41回にもありましたが、そうゆう視点ではホンダがF1に参戦したのは一歩抜きん出ていた?

「ええ1964年8月の西ドイツGPに自社製シャーシー、エンジンも自社製のRA271(V型12気筒1500cc)で参戦しました。たまげましたねー! でも、これは鈴鹿サーキット完成とともにF1参戦の発表もしていましたし、オートバイでは世界GPを席捲していた最中ですから、ああそうだろうなー、の感じですよ。

1963年の第1回日本GPでは、ホンダのエースライダー、ギッちゃんこと鈴木義一さんが四輪レースに出場して、それもフォルクスワーゲンですから(笑)。ぼくも、まさかっ!て気持ちでしたが、着々と布陣していたんですね。ただ、このGPの直後に来年発売するホンダ初の四輪スポーツカーS500でベルギーのリエージェ・ソフィアラリーに出場して……、事故死してしまうのです……、立派な先輩だっただけに、思い出したくない話ですね……」

――そんな悲話もあるんですねー。

「そういった話やホンダF1については、いずれ別の機会ということにして、ホンダF1は日本で自動車レースが始まったから、でなくて、本田宗一郎さんなら二輪でも四輪でも世界を相手にするって当たり前の気持ちですから、次元が違うんですよ。だから、日本にも自動車レースが根付きだしたのは、本田さんも嬉しかったでしょうが、いろんなゴタゴタに『やいやい、いってえ何やってやがんでー』ってなもんでしょうね。

(2) オリンピックが火をつけた

ですから話を戻せば、外国からのドライバーが多く参加すれば国際化、ということではないのです。もっとも、日本は明治政府以来、超高給なお雇い外国人に教えてもらう伝統がありますからね(笑)。外国のドライバーが出れば国際レース? ……になるのかな? とね」

――だからリキさんも国際化を目指して外国へ。

「いえいえとんでもない、そんな滅相もない(笑)。外国といったって近くのマカオですから(笑)。その後、シンガポールやマレーシアなどのレースもありましたが、やはり早く欧州、といっても当時のF2ですが、それに参加したい願望は強かったですよ。とくに日本人の外国への憧れは、東京オリンピックで一気に広がりましたからね。でも、日本から外国に行くにはまだまだ多くの制約があってねー、とくにモーターレーシングの国際化にはまだまだ難しい環境でもありました」

――1964年(昭和39)10月の東京オリンピックで日本も国際化に芽生え、レースにも影響した?

「まあ、結果からいえばそういうことになりますね。これも本ストーリーのマカオの話に出てますが、基本的に日本から外国へ行くには厳しい制限があって、お遊び、観光ですね、それが目的でもOKの"海外観光渡航自由化"になったのはこの年(1964年)の4月からなのです」

――それまでは渡航が制限されていてオリンピックの年に、海外渡航自由化が施行されたのですね ?

「そうなのですが、外国に行けないというのでなく、海外観光渡航の名称が示すように、それまでは外国に行くのは輸出入に関係する会社の業務や留学、学術研究、外国からの招待など、日本の国益になる目的がなければパスポートが発行されなかったのです。単なる観光旅行なんてとんでもないことで(笑)個人がレースで海外に行くなんてなおさらですよ(笑)。日本のオートバイメーカーが世界GPに行っていたのは観光じゃなくて(笑)、業務、将来の輸出作戦の名目があったのです」

――つまり、仕事でなくても自由に海外に出られるようになった。

「それでも何もかも自由になったわけでなく、レースという大掛かりな行動がしづらい面が沢山ありました」

――特別な制限が?

「いえ、レースだからという制限はないのですが、渡航自由化とはいっても日本から持ち出せる、正確には大蔵省から国際的に通用するお金、この場合アメリカドルですが、そのドルを日本円で買う(交換)のは今も同じですけど、『一年に一回、500ドル』の制限があったのです。要するに、外国へ遊びに行ってもいいよ、でも、お金はこれっきりだよーん、です。この制限金額には飛行機代などの交通費は含まれませんが、現地で使える金がないんじゃねー。

年に一回しか行けない制限、との説明がありますが、これは間違いで、何度行ってもいいのですがパスポートにドルとの交換記録が記入されますから、必然的に現地でヤミドルを買うような不正手段もでますよね。でも日本円の持ち出しは一回に2万円ですから……。

とにかく、海外レースをやるには自由化どころか、不自由化ばかりで(笑)」

――観光旅行だっていいよ、でもカネはこれっきりよ(笑)ですか。

「それでも国民が外国への観光旅行をさせない日本となれば、東京オリンピックに外国から来てもらうお客さんへの説明がつきませんよね。東京オリンピックがなかったら日本の海外観光渡航自由化は10年先くらいだったかもしれませんよ」

――海外で外貨を稼いでくる目的の業務ならOK、使うだけの観光はダメでは、オリンピックで海外からは呼んで金を使わせるけれど、こっちは使わないでは国際的に通らない、ということが理解されたのですね。東京オリンピックといえば、社会主義国のチェコの体操選手だった金メダリストのベラ・チャフラフスカを思い出します。『プラハの春』などの活動を貫いて、旧ソ連の戦車がプラハに踏み込むきっかけになった理由のひとつが彼女だったと当時報じられていましたが、彼女は東京オリンピックで日本を訪れ、実際に目にした資本主義国日本が、聞いていた状況ではなかっことに驚いた。それがその後の政治活動に影響した、と。彼女は親日派になったという話も聞いていますが、オリンピックは、チャフラフスカだけでなく、日本の国内にも大きな影響を与えていたのですね。

「それは面白い視点だね(笑)。ともあれ、東京オリンピックはさまざまなインパクトを残したわけです。中でも、日本人の目を海外に向かせるきっかけになったと思います」

(3) 自動車レースと海外観光渡航自由化

――その“海外”の中にレースもあったわけですね。しかし、当時は、飛行機代も高額だったでしょう?

「それもありますが、先に述べた持ち出せる外貨が500ドルでは、どう節約するかも海外遠征レースマネージメントの一つで(笑)。

確かに自動車レースなんかできっこないわけです、しかし走りたい、挑戦したいとなれば何とか工面しちゃうもので」

――ヤミドル買うとか……?

「まっ、そうゆう話もありますが、第一に不正手段でドルを買うとなれば正規の1ドル360円よりずっと高い400円とかになってしまい、とても買えるもんじゃありませんよ。だから4~5人のメカニックやヘルパーも持ち出せるドルを掻き集めて、安い宿を探したり格安の航空券も、とにかくドルとのレース(笑)」

――1ドルといっても当時は360円の時代ですから、500ドルは18万円。当時の大卒の初任給が2万円弱で、今年が19万8千円とのことなので約10倍ですが、いくら物価が変わったといってもドルを集めるだけでも大ごとですね。

「日本円も2万円までですから、羽田を出発の税関で、財布を出して調べるんです。500ドルもそれ以上が見つかると没収です(笑)。

ただ勘違いされては困るのですが、あくまでも旅券(パスポート)がややこしい手続きなしに取得できる観光:遊び旅行への制限であって、外国で長期滞在や大掛かりな観光というか、それもかねた取材仕事なんかの場合は業務用旅券を取得すれば持ち出し外貨の額もそれなりに許可されるのです。

親友の生沢君(生沢徹)なんか1966年第3回富士のGPの後、さっさと英国のF3レース参戦で一年近くも欧州に滞在していましたが、観光旅行目的のパスポートではできないことです」

――要するに制限が多いけれど、簡単に出国できる観光渡航の範囲でのレース出場なら難しくはない?

「ええ基本的にはそうです。しかしトランク一つで単なる旅行に行くのとは違い、クルマ(レーシングマシン)を持って行くのですから、これには厳しい制限がつくのです。

例えば、300万円のクルマを持ち出そうとすると、これは売却する輸出ではなく再び日本に持ち帰る特別な証明書(自動車カルネといって、日本ではJAFが窓口)を発給してもらうか、カルネの発給には時間がかかるので、クルマ価格と同額の保証金を預けるかしないと許可されないのです。

もしクルマが日本に戻らない場合はクルマの金額を支払わなければならないのです。個人のクルマも“国の財産である”という考え方で、勝手に処分されては困るわけです」

――事故でグチャグチャになったり、燃えちゃったりしたら 持ち帰れませんから、そうゆうのは良いと。

「そういったケースで現地処分するには日本と相手国とのややこしい手続きがあって、基本的には全部持ち帰りです。それはクルマ本体だけでなく、使い古したプラグやタイヤもろもろのパーツも一つ一つ出国の時に申告した数量、品数が同じでないと課徴金がかかるのです。

ただ、オイル類などの消耗品は構わないのですが、とにかく、クルマを持ち出す持ち帰る、この作業がハンパじゃないのです。輸出入の勉強かなりしましたから他のチームの面倒見るまでになっちゃって(笑)。“リキさんについていけばいいや”ってね(笑)」

――帰りに何かのパーツをこっそり輸入しようとか?(笑)

「例えばハジキが入っていたり(笑)、映画じゃないんだから。そういう物騒な話もあったようだけど半分冗談だろうね」

――持参した工具まで全部調べるというのですから、まあガセネタ? それよりマカオや東南アジアが近いといっても、やはり海外でのレースとなれば大ごとだったんですね。

「観光渡航自由化になった1964年は、第二回GPの年ですから、そのレースにマカオの常連ドライバーやマシンが出場しましたから、一気にマカオが身近になった影響はあります。"普通に外国へも行けるようになった、マカオなら出場できるかもしれない”という気持ちをもったドライバーやチームは結構あったのではないかと思います。

前にも話しましたが、このGP以前にに三菱と、発生川さんがトライアンフTR4で出場し、いすゞも、そしていすゞが第2回GPのあと参加してますが、これはいわゆる業務としての渡航だったと思います。その翌年に僕や鈴木誠一君が参加して、“なんだ、行けるんじゃないか”というような風潮ができたのが、今のマカオGPにつながったんじゃないかと思いますよ。

とにかくレースだけでなく、というよりか外国への憧れが急上昇してきたですねー」

――外国への興味が沸騰し出した?

「戦争が終わって20年弱、本格的経済力が胎動し始めて約10年ですから、ようやく将来への期待が実感になってきた。著しい普及のTVが、この年からカラー放送(総天然色TV)も始まり、それまでの日本型流行歌(演歌、歌謡曲)やアメリカンポップス(ポップス:和製英語のポピュラーミュージック)の日本語カバー曲が去って、フォークソングや堺正章さんらのザ・スパイダース(グループサウンズ:和製英語)などのリズムが新しい日本を実感させる。

そういった社会風潮に名神高速道路の一部開通や新幹線、オリンピックでしょ、そこにマイカー時代を牽引するような自動車レースというびっくりするものまで現れるのだから社会活力は勢いづきますよ。海外志向の強まりはそういった背景からですが、オリンピックだけでなく自動車レースが戦後日本の復興期に大きなインパクトをあたえたことを誇りに思わなくてはなりません」

――単にGPがどうのこうのではないのですね。

「ええ、今日、といっても、その“今日”はだいぶ元気ありませんが(笑)、そこへの土台、自動車でいえば、フル加速スタート前のエンジン暖機運転をしているような時代です(笑)。

戦争の敗残で失った活力を取り戻した青壮年が本来の日本人力を発揮したことや、第一次ベビーブーム(1947~1949年)の世代が若青年期へと育ち、戦争時代のしがらみにとらわれない新たな日本人の感性を生み出していったのでしょう。エネルギッシュな時代ですが、昔は良かったー、ではなく、この時代の経済第一主義に毒された今に続く弊害もありますし、世界入りへのエネルギーなど功と罪を検証して、これからに活かさなければなりません」

第四十八回・了 (取材・文:STINGER編集部)

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