リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第78回
波乱の幕開けGP--1970年JAF GP

◆スチュワートの衝撃

――お~、なんという予選結果ですか!

「そうなんですよ、凄っごいもんでしょ。このタイムから熾烈なポールポジション争いが解るでしょ、4位までが1.6秒の間に入っているのですから、それも1600ccから2400ccまで入り乱れて、GPⅠもⅡもありません。日本のレースもハイレベルになったのを痛感しますね」

――ジャッキー・スチュワートがポール、やはりF1ワールドチャンピオンですね。ところでブラバムのシャーシーは解りますが1800ccのエンジン、コスワースとは聞いていますが、コスワースはF2の1600ccではないのですか?

「えー、僕も最初は何だろうだったのですが、前年(1969年)辺りから欧州では2000ccのスポーツカーレースが盛んになって、米国フォード社からの資金援助で英国で製造の小型車フォードのエンジンをチューンしているコスワース社が1600ccのFVAエンジンのピストンストロークを伸ばして排気量を大きくしたタイプのエンジンのようです。」

――FVAは、F1で大活躍のフォードDFVの開発のためのエンジンとして誕生し、フォー・バルブ・ベルトドライブ・アングリアの略だというのを、学校の勉強は全然だめでしたが、こういうのは直ぐに覚えました(笑)。

「あははは、それは優等生で(笑)」

――最後が“A”だったので、その後、FVB、FVCと進んだ。スチュワート選手のチームが持ってきたのは、1790ccに拡大されたその新しいFVBだったようです。

「よく御存知で(笑)。それを3基だか持ってきて、最初に試走のタイムは大したことなかったのに、公式予選が近づくにつれタイムを上げてきてね、多分、周りの様子を見ながらエンジン交換したのだろうと思いますよ」

――さすがという他ありませんが、そのコスワースエンジンのジャッキー・スチュワートに生沢選手が食らいついて、でも前年と同じく三菱は生沢、益子、それと新たにワークス入りした永松の3台体制ですが、やはり生沢が速いのはどうしてなんでしょう?

「マシンに微妙な差があるのかどうか分かりませんが、同じマシンであったとしても、やはり生沢コルトになっているんでしょうね。それと、益子選手、彼、練習中のアクシデントで不参加、結局コルトは生沢と永松の2台。三菱は市販車やレースマシンのテストや他流試合の場に、ワークスから市販スポーツ、プライベートなど色々なマシンが走るマカオGPが打ってつけと知ってか、日本車では最も早くからマカオに出ていてね」

――1968年にはコルトF2Cで望月と益子が出場してますね。

「そう。このJAF GPの半年前には益子と加藤がマカオで走って、マシンを鍛えたコルトF2Dで万全の構えなんだろうけど、やはり生沢君とのタイム差が大きいね。考えられる一つに、フォーミュラカーでは、性能が同一でドライバー技量も同じの場合、走り方がセオリーに叶っているいないではなく、そのドライバーが得意とする走り方に合った操縦性にセッティング出来る整備力・調整技量があるかどうかで大きな違いが出る、ということは言えるね」

――それと、スチュワート、生沢のみならず、昨年に経験のタスマン勢も虎視眈々、エンジンが大きい小さいの関係なくなっちゃいましたね。

「いやー、さすが編集長、そこなんですよ(笑)。フォーミュラカーの場合、エンジン排気量が大きい方が必ずしも有利とは言えない例が多いからね」

――そうなると今度こそ生沢コルトが一際脚光浴びますね。前年は優勝間違いなしの状況だったのに、決勝序盤でリタイヤでしたから、今度こそ、でしょう!!

「あっ、生沢君といえば、レース前に突拍子もないというか前代未聞の出来事あったのを思い出したねー」

――そんなに突拍子もない?!

「とにかくね公式練習、予選の数日、雨だったり晴れや曇りの不順で決勝日は小雨かなーと予想されながらも何とか薄晴れで、午前のTS、GTレースが終わり昼時間になって、大会主催のお偉いさんや大会名誉総裁の高松宮宣仁殿下が並ばれた壇上の前に、GP&FJクラスドライバーがグランドスタンドに向かって整列の開会式が始まりました。いつもの退屈な式典で、その式次に選手宣誓がありましてね」

――宣誓をしたのは・・・・。

「そう、予選で最高タイムの日本人ドライバーが宣誓役との規定から生沢君がその役目でね、彼がマイクの前に立ち宣誓文を読むのかと思って見ていたら、その紙をクシャクシャに握っちゃって、突然〝選手宣誓を拒否します〟って言い出したんですよ」

――開会式で大勢の観客もいる中ででしょ、高校野球だって他の競技でも良くやる選手宣誓ですよね、それをやらない、、。

「聞いている僕らも宣誓拒否って何だろう?って、隣の堀オトキチとヒソヒソ話していたら、生沢君の演説が始まっちゃってねグランドスタンドもパドックもガヤガヤモソモソ、何なんだ何だんなって異様な雑音」

――当然、スピードウエイ全体に響き渡るスピーカーでしょうから生沢選手の声が隅々まで届いちゃう

「まぁ、その抗議の概要は、“外国からのドライバーには交通費から滞在費まで払っているのに、日本のドライバーには何の援助もなく参加費まで払わせるのは如何にも公平を欠く”、てな抗議なんだねー。高松宮殿下も最初はびっくりされていたようですが、生沢的抗議を終わりまでお聞きになられていたように見えましたよ」

――すごいハプニングですねー、殿下は泰然のようですが他のエライさんは?

「そりゃ、もーバタバタおたおたですよ、一瞬、場内がシーンとなって、今度は観客からの猛拍手が沸いてね、大会役員が“こりゃいかん”と思ったのか突然始まった軍楽隊の演奏がその場の空気をかき混ぜるように響き開会セレモニーも自然解散(爆笑)」

――それで、生沢選手が出走取消?とかはなかったのですか?

「いやー、何だかわかんねーけど普通にレースが始まった(笑)」

――そうなると、その騒動顛末記はレース後に?

「まあそうですね、GPが終わって、JAFスポーツ委員会がどう判断したのか詳しく知らないけど、彼の行動がルール違反なのかペナルティーなのか、“一年間日本のレースに出場禁止”の処分になりました。でも、彼には蛙のツラに小便だし、直ぐ欧州に戻っちゃうからね(笑)」

――リキさんとすれば、この当時、どう思われましたか?

「まあ彼とはオートバイ時代からの付き合いだしねー。この時代、全学連や日本赤軍、GP後には浅間山荘事件など、若人の過激な行動が多かったように、社会や年代間の理不尽な事柄への反発が漂う風潮があったから、彼の行動もそんな流れの一つだったんじゃないかなー、ただ、いつの時代でも何をするにも何かを言うのも普遍的なTPOがあるからね。それで〝元へ戻れー〟で、決勝の話題に(笑)」

上・このレース最大の話題? 生沢徹の選手宣誓拒否。外国人ドライバー優遇のアンフフェアな対応への一言に、場内騒然。
下・生沢を引き連れたJ.スチュワートをトップに、バンクを駆け下る。

――そうです、我に返りました(笑)。

「結局、決勝レース出走車は16台、周回数は前年より10周増えた50周300kmで、スタートから飛び出した上位陣がバンクに入るとジャッキー・スチュワートが首位でS字コーナーに入っていった模様、も・よ・う・って、パドック広場からは見えないからね(笑)」

――当時の6kmフルコースは、バンクに消えたマシン群が、ヘアピンへの右コーナー100Rを抜けて最初に現れたのがスチュワートだから(笑)。

「そうゆうこと(笑)、そのスチュワートが、ヘアピンを立ち上がって右300Rに消えていくのを生沢君が追い、マックス・スチュワート(ミルドレンワゴット2000cc)、同じマシンのケビン・バートレットのタスマン勢が続き、少し離れて永松が6番手でストレートに戻ってきた。もう完全にトップ集団にやや遅れた第二グループ、それにぐーんと離れてホンダS8やカローラのエンジンの漆原や木下、矢吹の小排気量フォーミュラが続きます」

――やはり生沢コルトが頼みの綱、ですかね。

「うんそうだけど、1分50秒台でトップを走るスチュワートを同タイムで追撃の生沢コルトが確か6周目に入る時、突然ピットロードへ向きを変えてピットイン、レースアナが悲壮的に“生沢どうしたんだ、どうしたんだっ!!”って叫んでね。スチュワートがホームストレッチを2回も走りすぎていった後で、ようやくコースに復帰したけれど、2、3周したところでヘアピンのセーフティーゾーンにマシンを停めてリタイア、お・わ・り、何なんだこれわって感じ(笑)」

――前の年も10周ちょっとで終わっちゃっいましたね。残念。スチュワートの2000ccコスワース・エンジンに引けを取らない予選タイムを本番でも発揮しているのですから、昨年は眉唾だった240馬力のエンジンになったのか、と見える走りだったようですが。

「レース後の話ではディストリビューターが壊れた、とかのようでしたよ。あれれ、今の時代でディストリビューターなんて言ってもワッカルカナー(爆笑)ですが」

――今の自動車には使っていませんが、要するにシリンダーのプラグの点火をコントロールする装置ですね。なんだか懐かしい響きです(笑)。

「今は電子制御ですから、キャブレターも同じく、今の自動車には付いていない装置は沢山ありますが、当時はそういったエンジン周辺機器のトラブルが多くてね。ビスやナット一つ脱落しただけで全部に影響するのがレーシングマシンですが、フォーミュラカーは小さなトラブルでも顕著に現れてね。それで、生沢コルトの執拗な追撃から解放されたスチュアートを追うのは、数十m後方の永松コルト、タスマンの雄(ミルドレンワゴット2000㏄)のマックス・スチュアート、前年のJAF GPに優勝したロータス59(2000cc)のレオ・ゲーガンの3台が、抜きつ抜かれつの2位争い。これは凄かった」

――永松コルトの調子はどうなんですか。

「レース周回数が半ばになってもコルトのかん高い排気音に乱れはないし、彼がタスマン勢を抑えて2位になる時もあったけれど、最終コーナーから立ち上がってホームストレッチに入ると、彼の前にタスマンが入ってしまいスピードが伸びないのね」

――1600ccと2000ccの差が、現れる、ってことですかね?

「仮にコルトが240馬力なら振り切れるのではないかと考えるけどね。オーストラリアのミルドレン・ワゴット2000ccが何馬力か解らないけれど、フォード・コスワースFVAが1600ccで190~200馬力、そのオーバーサイズの1800ccFVCが235馬力くらいと言われていたから、1600ccのコルトF2Dは、200馬力以上は出ていても、やはり240馬力は幻だったのかなー」

――そうでしょうね、生沢選手の1600ccがスチュワートの1800ccに肉迫のタイムを出したけれど、生沢コルトだからだったのかなー、の感じ。

「でも壊れちゃおしまいね。ディストリビューターもそうだけれど、エンジン回転が上がって進化に追いつけない部品も多くなっていった時代ですよ。それで、永松を交えた3台がスチュワートを追う光景がずーっと続き、第2グループのトップになろうとしても難しくて、やはり200ccの差は大きかった」

――そうなると、もうスチュワートを捕まえようがないですね。

「残念ながらアタリ(笑)。僕だって観客だって永松君が2位へ、そしてトップに迫る場面を願っていたけれど、スチュワートの独走は止めようがない。トップがスピンしないかマシントラブルが起こればいいのにって呪いの気持ちでいたら、呪いが間違った方に行っちゃってスピンしたのは永松コルト(爆笑)、場所はヘアピン、あああーって叫びが響いて、辛くもコースアウトせずに立ち直ったけれど、マックス・スチュワートに抜かれ3位になっちゃった」

――あーあ、ですね。

「ジャキー・スチュワートの独走独走で、もう、こうなると脱落への呪いは消えて、その堂々の安定ぶりと理想的なラインで抜けていく姿に感嘆するばかりで、スチュワートを追うスチュワートが、ややこしいな(笑)、即ちマックスがジャッキーを追うことの無意味と2位の自己保身が交錯するのかトップとのタイム差が開いたり縮んだり。結局、残り周回数一桁になる頃には1分近い差になってしまったですねー」

――頼りの綱の永松選手はどうだったのでしょうか?

「永松コルトも3位を捕らえる術はなく、彼のラップタイムが落ち始めたのを見透かすように第3グループをリードしていたタスマンのグアム・ローレンスが、真紅のフェラーリ・シャーシーにフェラーリ・ディノV6気筒エンジンを搭載した2400cc/270馬力超で3位の座を狙いだすわけです」

――フェラーリ・ディノのエンジンとなれば、言ってみればちょっと前のF1ですね。

「ローレンスが、4秒くらいあった永松君との差をがんがん縮め、1秒差からコンマ数秒へ、永松コルトに並ぶまでになって、彼への声援が響いて(笑)、ローレンスがたじろいたか、徐々に差が開き始めてゴール近くにはコルトの方が4-5秒差優勢になって富士スピードウェイ全部がホッとした感じになった(笑)。大げさでなくホントなの(爆笑)。結局50周走りきったのは二人のスチュワート、永松邦臣、ローレンスの4位までで、後は周遅れ。まあ、中身濃いレースでしたが、観客は勿論のこと多くのレースファンがフォーミュラカーへの認識を新たにしたのではないかと感じるGPでした 」

◆1970年(昭和45年)5月3日
JAF GP決勝結果(天候・晴/富士SW/50周)
1. J.スチュワート ブラバムBT30 1時間33分00秒(GPⅡ) 193.51㎞/h
2. M.スチュワート ミルドレン・ワゴット(Ⅱ)
3. 永松邦臣 コルトF2D(Ⅰ)
4. G.ローレンス フェラーリ・ディノ(Ⅱ)
5. A.ウオーカー ブラバムBT23C(Ⅰ) 49周
6. L.ゲーガン ロータス59(Ⅱ) 47周
7. 木下 昇 KYSpecial(Ⅰ) 43周
8. 漆原 徳光 ロータス41(Ⅰ) 42周
9.三富 嗣充 三井SPL(Ⅱ) 41周
10.G.スコット ボーウインP3(Ⅰ) 38周
11. 矢吹 圭三 ブラバムBT16カローラ(Ⅰ) 35周
12. 生沢 徹 コルトF2D(Ⅰ) 7周
12. 渡辺 一 ロータスF2(Ⅰ) 6周
14. 黒須 隆一 デイ&ナイトSPL(Ⅰ) 1周
以下、失格
 T.リード ブラバムBT30(Ⅱ)
 K.バートレット ミルドレン・ワゴット(Ⅱ)

「何はともあれ、ようやくフォーミュラカーレースが根付きそうな気配になってきましたが、大雑把に昨年との比較をすれば下記のようになります。」

◆1969年JAFGP
40周 1時間17分 184.8㎞/h L.レオ・ゲーガン ロータス39 2500cc
◆1970年JAFGP
50周 1時間33分 193.5㎞/h J.スチュワート ブラバムBT30 1800cc

「こう見ると、ジャッキー・スチュワートのマシンは1800ccで、F2改ともいえますが、シャーシーは鋼管パイプフレームのブラバムBT30の完全なF2ですね。そしてエンジンはコスワース1600ccがベースの1800ccで、どちらも市販品であることを考えれば、ワークス・チームが参加しなければスピードレースの迫力が出ないよ、というのは誤りということです。でも何億円の開発費か知らないけど、市販品マシンにも、まだまだ追いつかない現実は何なんでしょうね、考えちゃったなー」

――ニッサンvsトヨタのモンスターマシンのGPとは、周回数も違いますし。

「うん、比較の正確度を欠きますが、1969年日本GPは、120周で3時間42分、平均194.2km/h、エンジン排気量は6000cc。それに対して、日本GPが、フォーミュラカーであってもなんら見劣りしない基本的条件が揃ってきたわけです」

――リキさんが前々から話しているフォーミュラカーのことが段々分かってきました。そうなると、フォーミュラ・ジュニアの話はあとで、と言ってましたが、その解説をして頂ければ底辺普及の状況も分かると思います。

「そうですね、次回は、その辺りをお話しましょう」



第七十八回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com


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