リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第22回

(1)“求む! 四輪のレースに興味がある二輪レーサー”

――今日はぜひ、前回チラッとお話しいただきましたが、リキさんにとって運命的な、そして日本初の《ワークス・ドライバー》の誕生にもつながっていくという“あのお話”をお伺いしたいです!

「ハハハ(笑)、いや、あれはね、最初はホントに何のことかわからなかった。だって、いきなり、“おーい、リキちゃん、いる?”と、そんな感じで呼ばれたので」

――ということは、発端は電話などではなく?

「ぼくが二階で仕事をしていて、そこに下(一階)から声がして……。“おーい!”というあの声は、酒井さんか西山さんかどっちだったかなあ?」

――ははあ、酒井さんとは酒井文人さん? ということは、ひょっとして八重洲出版の社内?

「そうです、もっとも当時はまだ『モーターサイクル出版社』と称してましたけどね。西山さんとは、MCFAJ(全日本モーターサイクルクラブ連盟)の事務局長をされていた西山秀一さんのことです」

――西山さんがそこにいらしたのは?

「そのモーターサイクル出版社内に、MCFAJの事務局があった……というか、事務局が間借りしていたのね」

――なるほど、そういう時代があったのですね。そしてリキさんは、その出版社の“ライター&ライダー”であったから?

「ええ、一つ屋根の下に、出版社主宰の酒井さんも、クラブ連盟の西山さんもおられて、ぼくもいたという状況。だからみんな、いわば社員同士みたいな間柄で、“おーい!”なんて呼ばれても、いつもの感じで、また何か新型バイクに乗れとか、そういう話かなと一階に下りて行った」

――そしたら、そうではなく?

「そうじゃなかったねー!(笑)部屋には、西山さんと酒井さん、お二人がお揃いで。そして、ある自動車メーカーから、四輪のレースに興味を持っている二輪レーサーがいたら紹介してほしいと言われていると、そんな内容の話が始まりました」

――お! スカウトがついに来たか!と?(笑)

「ぼくのところに? とんでもない! 最初は何か取材の話かと思った。メーカーにそういう動きがあるから、リキちゃん、何か探ってきてよとか(笑)。たしかに、パブリカくらいのクルマでもレースができるんだったら、それならぼくでも出られるなあ……というような思いが心の片隅にあったことは事実だけれど、それが四輪メーカーのそんな動きと結びつくとは想像もできなかったから」

「西山さんのお話は、まずは“リキちゃんは四輪レースに出る気はあるの?”というのが始まりでした。そして、レースで走るドライバーを探しているのは、プリンス自動車と富士重工の二社であることも明かされました」

――ウワー! この時期、1963年初頭の四輪メーカーがどういう動きをしていたのかという意味でも、これは興味深いですね。

「そうです、“日本グランプリ”のためにいち早く動きはじめていたメーカーが、それも複数あったということ。そして、二社から話が来ていたので、これは“二人のライダー”が必要だと西山さんはお考えで、そのうちのひとりが、どうやらぼくだったようなのです」

――ということは、その時点で、すでに“もうひとりのライダー”が想定されていたことになりますか。で、そのライダーとは?

「テツよ! 生沢の徹ちゃん(生沢徹)。そして、テツがすでにプリンス自動車に手紙を出していたことを、西山さんからこのときに聞きました」

――四輪のレースではプリンス車に乗りたいと、生沢さんがすでに?

「そう。彼はすでに独自に動いていて、貴社のクルマで“日本グランプリ”に出たいという願い、それを手紙にしてプリンスに送っていた。でも、これはどうもナシノツブテ、つまり無反応であったらしい、後日に知ったことですけどね」

「徹ちゃんとは、1961年頃から、同じTOC(東京オトキチクラブ)のメンバーでしたが、でも四輪レースについては、出たいとか出るとか、そういうことはひと言も聞いていませんでした。このクラブはトーハツ(東京発動機)ワークスの、いまで言うサテライトチームで、半年前の鈴鹿サーキットのオープニングレースには彼も出場していました」

――生沢さんのその手紙の件を、その時点で西山さんがご存じだったとすれば?

「ええ、そうであるなら、西山さんの意向としては“徹ちゃん→プリンス、リキ→富士重”としたいのかもしれない。まあ、たしかにそんな雰囲気はありましたね」

「ただ、いまだからこうして回想していますけど、このときのぼくは、お二人の前で、訊かれることにどう答えればいいのかということしか考えられず、ほとんど茫然としていたように思います。何か、夢の中の時間のようでしたね……」

(2)偉大なる中島飛行機、その血筋をひくメーカーは?

――お二人とは、どんなお話しをされたのですか?

「ぼくが“メーカーはどちらでもいいのですが、でも、どんなクルマに乗ればいいんですか?”、こんな質問をしましたら、“プリンスならスカイラインだろうね。そして、富士重ならスバルだよ” “えっスバルって、あんな小さなクルマのレースがあるんですか?”……。ぼくがレース主催のJASAに電話したときに、軽自動車でも走れるクラスがあるとは聞いていましたが、ここで、その話がいきなり具体的になったような気がしたことを記憶しています」

こんな小さなクルマでレースする? しかしオファーはワークスからの直々!?

――1962~63年当時のスカイラインは2リッターモデルはまだなく、1500ccですね?

「そうですね。そしてスバルは、市販の四輪車はテントウムシの『360』でした」

――そういう市販車でレースをすることについては?

「ぼくは、外国での四輪レースのことはニュースとして知っていて、そこでのレースはF1のようなフォーミュラカー、あるいは二座席のスポーツカーによって行なわれていました。だから、いわば“普通のクルマ”で、つまり市販の乗用車を改造してのレースというのがよくイメージできなくて、日本初の自動車レースというのがいったいどういうものなのか、個人的にはますますわからなくなっていましたね」

――そうか、二輪はこの時代でも、もう“純レーサー”がありましたものね?

「そうです、オートバイのレースの場合は、市販モデルとは異なる型式のワークス・マシン、あるいは市販のスポーツモデルがベースになってそれをチューンしたもの、そういうクルマでレースを闘っていましたから」

――なるほど。リキさんのように、二輪のレースに関係してこられた方々にとっては、そういう発想になるかもしれない。……それで、リキさんは、その二社なら富士重工だなという選択を、そのときになされたわけですか?

「ぼくは、四輪レースはやってみたいけれど、やるなら大きいクルマに乗ってみたい。そんなことも言った覚えがあります。すると西山さんは、“そうだろうね、でもリキちゃん、いまは軽自動車しかないメーカーだけど、富士重工業は中島飛行機だよ。プリンスも中島から分かれた会社だけれど、本家は富士重だ、と──」

――おお! “中島飛行機”の嫡男は富士重工で、プリンスは傍流?

「さらには、“リキちゃんがこのレースに出るとなれば、この先何年か後には、富士重は日産やトヨタのように、大きなクルマも作るようになるだろう”とも言われましたね」

――うーん、たしかに歴史は答えを出していると見ることもできて、後年に、プリンス自動車は日産自動車に吸収合併されてしまいます。

「“生沢君はプリンスに手紙を出すくらいだから、そっちに行きたいのだろう”という西山さんの言葉もありましたので、そんなことも思いながら、このとき“四輪のレースをやってみます! メーカーはどちらでも構いません。社長(酒井氏)と西山さんにお任せします”と、ぼくは返事をしました」

第二十二回・了 (取材・文:家村浩明)