リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第90回
フォーミュラカーでの日本グランプリ レース、ようやく発進!

◆ゆれるフォーミュラ2マシンの新たな車両規定変更

----ようやく1971年からフォーミュラカーによるGPが始まることになり、なにか本場のヨーロッパめいた雰囲気になってきましたが、この傾向にリキさんも歓迎では。

「まあ、こういった方向になるのを願っていましたし、ビッグマシンのレースが衰退し、フォーミュラカーによる日本GPの路線が着々と敷かれ、ようやく日の目を見る晴れ舞台が訪れた、というところでしょうか」

----このカテゴリーでのGPやフォーミュラカーの普及に試行錯誤されたリキさんにしても、新しいエンジンを獲得し、そのテストを兼ねて1970年秋のマカオに参戦するまでになりました。フォーミュラマシンに情熱を傾けたリキさんにとっても感慨もひとしおではないでしょうか。

「いやー、それほど大げさに言われてもねー(爆笑)何てったってヘマばっかり続いてー(笑)。前回のマカオ話の後段に事情を記しましたが、レース終盤に、2位-3位のポジションまで追い上げ、もう一息のところで火災まみれになる寸前のトラブルでリタイア、それも、たった20円のボルト一本が破損したのが原因ですから、レースって無情ですよねー。ただ、フォーミュラカーは好きですし、本来、このジャンルが中心であるべき、の持論は変っていませんでしたから、日本も、この方向で進んでいって欲しいなーと思ってはいました。その一方で、F2が1600を維持するのか2000ccに移行するのか、まだ混乱の最中でしたから不安もありましたよ」

----このいきさつは前回でしたか話されて、欧州の一方的な2000㏄化、それもBMWの先行的な情勢に、1600F2が根付いた国々の反発もあって中々一本化されないこと、特にマカオや東南アジアのレースでは頑として1600を踏襲し始める、そんな内容でしたね。

「ええ、そうです。特にマカオは強行ですが、オーストラリアでも(タスマン勢)1600㏄維持が多かったようですよ。F2規定ができたのは1948年だったかな、、第二次大戦終了から僅かな期間で戦前の自動車レースが復活し、その上級クラスのF1も始まりますが、1950年代に入っても、自動車産業は戦争の痛手から立ち直らずエンジンも不足だったようで、F2とF1マシンが一緒に走る時期もあったようです」

----となると、今のモーターレーシングの土台はF2にあったようですが、その混乱はエンジン変更の内容にも関係するのでしょうか。

「そういった面に詳しくないですが、基本的にF2は市販車のエンジンとパーツを応用したマシンで、多くの人が参加出来るようにとの成り立ちが良かったのでしょうが、段々とハイスピード、ダイナミックなレースを求めていくと、強いエンジン、高度な操縦性能へと、マシン製造もコストがかかるようになってしまい、当然に、普及とハイレベルな競技内容の矛盾が生じますよね」

----何かこのストーリーを地で行くような(笑)。

「モーターレーシングには付いて回る課題でして(笑)、だからF2の在り方もケンケンガクガクしたのでしょう、F2発足から20数年たって、その間、何度かのマシン規定の変更があって、1967年〜1971年まではエンジン排気量は1300cc〜1600ccの規定に落ち着くのです。シリンダー数は4気筒、NA(自然吸気)ですから市販車のエンジンがベースという内容が上手くいって盛んになったようです。同時に技術力誇るチューナー達が小型・軽量な市販車エンジンに目を付け、レーシングエンジンへの加工が流行り出すのです」

----なーるほど、わかりやすいですねー。英国のバックヤードビルダーからロータス車を世に出したコリン・チャップマンのような傑物が出てくるのもこんな時代や環境ですねー。

「そうゆうことです、こういった発祥、英国は多いですね、マイク・コスティンとキース・ダックワースが共同で立ち上げたコスワース、アメデ・ゴルディーニ(伊)、フィル・アービング(豪)、おっとヴィルジリオ・コンレロさん、「あっしを忘れちゃあいやせんか」って怒られちゃうね、ボクのアルファロメオ・エンジンのチューナーを(爆笑)。とにかくレースの世界って、数々のチューナー、技術者を生み出すもんでね、この時代の日本だと、現ヨシムラジャパンの創始者・故吉村秀雄さんや松浦賢さん(ケン・松浦)などが、技術力を発揮しはじめましたね」

----私も学生時代でしたが、世間には凄い人が沢山いるんだなーと思った熱い思い出があります。ところで、正規の日本GPですが。

「いっけねー、オレもボケてきたんかなー、好きな方向に突っ走っちゃってゴメン(爆笑)。その1600か2000かの課題は日本でももめて、本場の欧州でも2000ccのF2への変更が完全に認知された状況でもなく、1971年までは1600となっているのですから、日本GPもちゃんとしたF2でのGPにするのなら現行の1600㏄であるべきなのです。1972年からは2000㏄になるのは解りますが、1600のままか2000なのか、中々ハッキリしないのです」

----今までのフォーミュラカーレースの流れを見てきますと、その時どきで最大排気量3000㏄とか2000㏄とか変わってますね。

「そうです、結局は、このエンジン規定なら何台集まるだろう、欧州のチームが参加できるなら2000でも、いやタスマンからの参加がなければ台数集まらないし、それじゃあ彼らの2500ccも走れる3000ccまでにしよう、といったように参加台数が、せめて20台はなければ呼び物にならないよ、の企画が先行しますからフォーミュラカーのみならず、グループ7、モンスターマシンのレース、どれを取ったって同じ流れで進んで来ちゃったじゃないですか。最後にはV型12気筒6000㏄1200馬力!とかのマシンが登場するかもしれないところまで進んでしまうのですから」

----その中には、自社というか一部の側に都合良い策謀や駆け引きもあって。

「そう、残念だけど自動車競争の始まりから、そういった因子が入り込んでいて、その平準化とせめぎ合いながらモーターレーシングはレベルアップしてきたのでしょうね、あっいっけねー、またミスコースしちゃったなー(爆笑)。それでね(笑)日本でもレースが始まってから平準や公平がテーマになりながら、結局は市販車同士の競争では難しいからレース専用のマシン造りが声高になってプロトタイプ、市販スポーツカー、グループ7、ストックカーなどなど、それぞれのジャンルが主導権を握りたいけれど、どれも決定打にはならない」

◆フォーミュラカーレースはレーシングマシンの平準化を具現できるか。

写真1

1966年、鈴鹿サーキットで初めて行なわれたフォーミュラカー・レース。
その後、1969年に三菱が本格参戦したことで日本のフォーミュラ・レースは、日本グランプリのメインイベントに成長してゆく。

----そうなると市販車改造や市販車ベースのカテゴリーとはまったく無縁とは言えませんが、まだ一般への認識は薄いものの、マシン規定が同一のフォーミュラカーの方が公平、均一性が高いとの考えが段々と高まり、紆余曲折しながらもフォーミュラカーの居場所が定まってきたということでしょうか。

「そうでしょうが、自動車レースは市販車の優秀性を誇るPRツール(笑)まがいに発展してきた日本では、やはり街中を走る自動車と同じ形の車が勝った負けたしないと注目されないレース車ならカネ・技術は投入しても、フォーミュラカーとなると、メーカーだって、その辺りの事情や考え方は複雑で、よしっそれでいこう!とまでならないでしょう」

----百歩譲って、車のシルエットがA社B社のもの、らしい?程度なら、まあ許せる?、ホンダF1の歴史的挑戦もメジャーでない時代にフォーミュラといったて どんなクルマか知らないでしょうね。

「まあそうゆうことかなー(爆笑)、だから三菱がモーターレーシング活動を始めるに際し、その活動の意義や日本のレースにメーカーとしてどう関わるのか、かなり検討したのではないかと思いますよ。そして富士最初の日本GPでのエキジビション、つまり脇役でもない模範競技ですよ(笑)、そこからフォーミュラカーレース→日本スピードカップレース→JAFグランプリ→日本グランプリ、以前にも書きましたがワカシ→イナダ→ワラサ→ブリなどの成長ごとに呼び名が変わる出世魚と同じですが(笑)、三菱が、自社の市販車・コルト1000のエンジンをレーシングにチューンしたF3を開発し、フォーミュラカーレースの牽引役を買って出たっていうのか(笑)、何れにしても、その後のフォーミュラカー路線を敷き自らがリーダー役になったのは事実ですよ」

「ホンダは1959年にはマン島TTに挑戦したほどですから1964年の西ドイツGPのF1挑戦も理解できますが、三菱がフォーミュラカーレースに出始めたことは何かピンときませんでした。いずれはホンダ同様F1を目指すのかなー、なんて思いましたが」

----ですねぇ。

「鈴鹿が出来てから、乗用車メーカーなら何らかのレースに関わらなくてはならないようなムードがありましたよ。三菱も第一回からGPに参加、第二回のツーリングカー1000㏄クラスではライバルの日野コンテッサ打倒を目指して、10カ月前に市販した三菱コルト1000を何台も投入1〜4位を独占したり、日本での自動車レースが未だ無かった時代に三菱500でマカオに遠征するなどゼロ戦の流れを汲むのか挑戦的気風がありましてねー」

----ほー、私が高校生の時代です。後になって、日本の敗戦で三菱財閥が解体、新三菱重工業になってオート三輪やJeepの後に乗用車生産を始めたのを本で知りましたが、三菱というのは何かおっとりして、お堅い感じだった覚えがありますが随分と洗練されていたんですね。

「洗練されていたかどうか解りませんが(笑)、その第二回GPの凄まじいメーカーレース以後、モーターレーシングは三菱車を支援愛好のコルト モータースポーツ クラブを作り、そこが中心に活動する内容になりましたから、レースに関わる方針から内容も他と違うようでした。あからさまにミ・ツ・ビ・シってPRすることもないし、モーターレーシングの普及支援を三菱の技術向上、技術者が腕を奮える場、っていうのかなー、そんな構成で動いていたのではないでしょうか」

----コルト・クラブといってもメーカーの御用団体でしょうから企業の意向で動くのは当然のように思いますからダミーのように見えますが。

「確かに外郭団体といっても会社と深い繋がった縛りはあるでしょうが、先に述べた自動車レース構成の平準化、公平性を考えればフォーミュラカーを育成すべきだ、のテーゼがあったように思いますよ」

----えっ、そんな早い時代に、そういったハイレベルな考え方を具現しだすなんて考えられませんが・・・・、だってメーカーでしょ!?

「うん、そういった見方、考えは当然でしょう、ボクだって、何で三菱がフォーミュラカーに乗り出したのか疑問でもありました。でも、その考えの土台から、ははーっ、こういったことなんだろうな、のボクなりの納得だから先方から否定されるかもしれないけれど解る気がしましたよ」

----ええーっ!そんな方面の話は聞いたことがありませんが、ぜひぜひ解説して下さい。

「解説なんていう高尚なことではないけれど(笑)、ただ、この話に入ると、また脇道に逸れちゃって肝心な1971日本GP決勝の話に中々入れなくて」

----いえいえ、新装GPへの移行に欠かせない内容かもしれませんので、決勝の話は次回で結構です、読者の皆様も納得されると思います。

「そうかな、それなら安心して、脇道?いやコースミスかな(爆笑)。それは鈴鹿での第2回日本GPで」

----それは日本の全メーカーが激突し、レース自粛の元になった有名なGPですね。

「うん、そのGPと呼ばれるようになって、当時、レースに不慣れなメーカーが多く、その第一は走れる者、そうドライバーですが、第一回では自社テストドライバーや既に運転に慣れている趣味の自動車クラブの者達が多かったのです、三菱も同じでした。しかし、その中でも、オートバイレースに出ていて経験豊富な者らのレース運びや運転のし方が注目され、翌年GPにはこぞってオートバイライダーの起用が目立ちました」

----リキさんは最初のGPからですのでオートバイレース出身の第一人者ですね。

「第一人者なんてガラでなく、流行り物好き、良く言えばパイオニア、先駆者、かな(爆笑)照れるなー(笑)、とにかく二回目になったら元ライダーばっかり。三菱もボクが“えっ、おまえも!?”、というくらい仲間や先輩ばっか、因みに益子 治(ヤマハワークス出身)加藤 爽平(有力ライダー多く著名で、ボクも所属の東京オトキチクラブのメンバー)横山 徹(彼も 同じくオトキチクラブ)田中八郎(やはり有力ライダーのハイスピリッツクラブメンバー)で、いずれも二輪レースの入賞経験者、それと二輪出身ではないが、当時の男性ファッションをリードするVANの子息・石津 祐介といった陣容だった」

----田中 健二郎さんが日産に所属したのは知っていますが三菱も、こんなに二輪出身者を揃えていたんですねー。

「うん、それでね第二回GP以後、レース開催、出場も自粛(事実上の禁止)になって三菱の活動は見えなくなったのだけれど、1966年の富士スピードウエイ最初の日本GPのエキジビション、フォーミュラカーレースへ先に述べた1000ccエンジンのF3マシンとともにレース活動の再開となったわけ。その時、ボクが“えっ、ウッソだろう”ってびっくりしたのが、このエキジビションをリードしたのが望月修さんだったのです。彼はヤマハ・ワークスからスズキ国内チームのマネージャーをしていて、四輪が始まってからはスズキのエースで、ボクがスズキ車での二輪レース時代は上司であるし、四輪になってからはライバル同士ですから、なんでモッチャン(望月の愛称)が三菱に??、と思ったのは当然です」

----二輪経験者の方がレース慣れしているからではないのですか?

「基本的にはそうだと言えますが、このコルト・モータースポーツ クラブを立ち上げる際、第一回GPから三菱に関わった外川一雄がクラブのマネージャーになり、三菱の本格的モータースポーツ活動の方針を上申したのだろうと推測しています。なぜなら外川もハイスピリッツ モーターサイクル クラブというこれも浅間火山レース時代から大型ライダーが揃ったクラブに所属、高橋国光もこのクラブ所属でしたが、外川は後にMFJ(日本モーターサイクル協会)の事務局に入り、ライダー、ドライバー活動ではなく、レースの在り方、マシン規定など二輪レース時代から、その方面への探求は熱心でした。特に“ハイスピリッツ”、つまり高い崇高な精神を意味する名称を冠したクラブは、戦前のレースでも活躍した杉田和臣さんという大先輩に率いられたオートバイクラブで、その規律は厳しく望月修さんとも親しい関係でした」

----そうなるとオートバイレース出身者が中心となればレースへの考え方や取り組みも独自のものがある。

「まあそうなりますね。即ち、二輪メーカーは既に世界のGPレースに出ていて、レースというのは、そのメーカーやチームの構想や技術力でレース専用マシンが当たり前なのをしっていましたからね。そりゃあ、一時的には市販車同士のレースで営業効果を狙うことをしていましたが、鈴鹿サーキットができる以前に二輪のレーシングマシンで競うのが普通になっていましたから、四輪も早くそうなるべきだ、それには厳重な車両規定に基づき自社の技術力を投入したマシンで競うフォーミュラカー・レースを行うべきだ、きいう持論になるでしょうし、こういったメンバーが揃えばなんら違和感ないでしょうね」

----なるほど、ふむふむ、でもメーカーですからねー、そういった理想論がすんなり受け入れられるのでしょうか。

「すんなりかどうかワッカリマセン(爆笑)でもね、この当時、仮に市販車ベースのレースに首突っ込もうたって、コルト1000ccだけでしょう。他メーカーのようなことできませんよ。でもレースに否定的ではない、となれば三菱らしい活動を考えるでしょうね。そこに外川始め二輪レースに精通したメンバーのコルト・モータースポーツ・クラブが関われば他社と異なる方針が生まれますよ」

----そういったレース活動のスタートが市販車コルト1000のエンジンを搭載したフォーミュラ3だったのですね。

「ただボクは、三菱がフォーミュラカーといったっ本格的にF2まで開発するとは思っていませんでしたが、初陣の(1966)翌年には1600ccエンジンを開発したF2を披露。1968年にはマカオGP参戦など、これは本気のフォーミュラカーレース路線なんだ、と納得しましたね。次回1971日本GPに出てきます永松邦臣はホンダの鈴鹿RSCエースドライバーから三菱へ移籍したのですが、元々はホンダの二輪レーサーで“健二郎学校”(ホンダの世界GPに通用するライダーの育成をした田中健二郎が主宰のレーシングスクール)の生徒でしたから二輪レース経験者への特別な期待を懸けたのかもしれません。いずれにしても日本のフォーミュラカーレースは三菱の活動なくしては日の目を見られなかった、ということでしょう」

----なるほどー、日本GPがフォーミュラカーになった深層は一口に語れないものがあるのですね。次回は新装なったGPの概要をお願いします。


第九十回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com


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