リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第102回
F1世界選手権inジャパンへのいざない

鈴鹿サーキットではフォーミュラ路線がいよいよ軌道に乗り始めたころ、富士スピードウェイでは、2リッター・スポーツによる『富士グランチャンピオン・シリーズ』が人気を博していた。鈴鹿サーキットは、高速の富士に対して“テクニカルコース”のイメージが強かったが、速く走るためには、どちらにも難しさがあり、東の富士、西の鈴鹿として、日本のレースを象徴するポジションを担っていた。

 

----前号でお話したマネージャーの登美川浩司さんに、よく六本木のモータースポーツ関係者が集まるクラブにも連れて行っていただきました(笑)。

「そういうつきあいは大切ですからね(爆笑)」

----はい、六本木には、富士スピードウェイでGCマシンのテスト中のアクシデントで亡くなった故佐藤文康さんの妹さんが経営するクラブがあって、登美川さんや、私が所属していたレース専門誌『オートテクニック』のデザイナーだった方によく連れて行っていただいて、文康さんはもちろん、桑島正美さんなども紹介していただき、懇意になりました。

「なるほど」

----本田耕介さんの日本レーシングセンターには、登美川さんなど、レース界の大先輩がいらっしゃいました。登美川さんは、その後トムスの発起人の一人となった方で、TOM'Sは、舘さんのT、大岩さんのO、そして登美川さんの愛称だったムーミンのMの頭文字だったりしたこともあって、いろいろ教えていただきました。

「益々、グラチャンが好きになった(笑)」

----はい(笑)。しかし、『オートテクニック』の編集部員になったのは1976年で、日本レーシングセンターの方々と知り合ったのは、少し後のことでした。

本田耕介さんについてレース界での受け止めや大久保さんの感じられたことなどをお願いします。

----そうなのですね。

「若き編集長が熱中したグラチャンは、確かにフォーミュラを越える人気でした」

----当時は、実家から1時間ほどで行けたグラチャンの会場である富士スピードウェイこそ中心だ、というような、まぁ誤解をしていまして(笑)、鈴鹿サーキットは、富士に比べて距離的に簡単には行けないことや、そもそもがフォーミュラ路線にあったことで、私の中では“遠い世界”の印象がありました。

「編集長としては、そういう解釈だったのですね」

----実際、鈴鹿サーキットには、『オートテクニック』の編集部員になった1976年11月まで行ったことがなかったのです。

「1976年11月というと、日本グランプリですね、F2の」

----はい、今では日本グランプリというとF1ですが(笑)。F1ドライバーのジャック・ラフィーが優勝したレースでしたが、私にとっては、とにかく初めての鈴鹿というイメージが強くて、レース内容は余り覚えていません(笑)。

「もともと“グランプリ”というのは最高峰の、という意味で、年間にひとつのレースにしか冠せられない名称だったこともあり、1976年に富士スピードウェイで行なわれた日本初のF1は、“F1世界選手権in ジャパン”なんてスットンキョな名前で呼ばれていましたね。ボクにとっての鈴鹿サーキットは、正に古巣そのものですが、単調な高速コースの富士はそれはそれとして価値のある存在でした。でもフォーミュラのドライバーとしては、鈴鹿サーキットがチャレンジングという意味では先を行っているイメージでしたね」

----後になってそうした歴史を知って、認識を改めましたが、当時は、熱中していた“グラチャン”が頭の中のほとんどを占めていましたので(笑)。

「その認識が変わった」

----ええ。1973年と1974年に立て続けにレース史に残る悲惨なアクシデントが起きた一方で、1974年のデモランに続いて、1976年と1977年にF1が行なわれたことでさらに“富士”の印象が強くなっていたのですが、1974年のアクシデントはショッキングでした。

ファンはオイルショックからの立ち直りを期待していました。アクシデントで流れが変わったと思いますが、実態はどのような流れだったのでしょうか。

----交通事故とはまったく違う大音響とともに黒い煙が上がっているのを観て、大変なことが起きたと思い、隣で観ていた友人と、走って現場に向かいました。

「そうでしたか」

----ストレート観客席が切れた先のコンクリートウォール沿いに立っていた電柱に、2台のクルマがクラッシュし、最高速の出る場所でしたから、大変は悲惨な状況でしたが、翌日の新聞の、「賞品のタイヤ欲しさの無茶な追い越し」のような無神経な表現の記事を見て、悲しさがさらに大きくなったことを覚えています。

「確かに、自動車レースの世間の理解がまた一歩後退してしまいましたね」

----残念なことでした。

実際のレース界や金網の内側にいらした大久保さんのこのアクシデントの受け止めなどについてお願いします。

「まぁ、レース界と一言で言っても、色々な観方があって、紆余曲折あるわけですが、次回は、そのアクシデントからF1につながるストーリーをお話したいと思います」

----1973年日本GPはオイルショックに影響されなかったものの、他のレースイベントはどのような情況になったのか、という辺りについてもお願いいたします。

。


第百二回・了(取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com


書籍カバー
【新刊のご案内】

力さんの新刊、絶賛発売中。

『無我夢走』(三栄書房)

高度成長で自動車産業が花開き、日本のレースが本格始動した1960年代中盤からのまさしく無我夢走を伝える必読の書。

詳細はこちら。
http://www.sun-a.com/magazine/detail.php?pid=9097