リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第12回
1962年《鈴鹿》オープニング、ホンダとヤマハの“明暗”

(1)ヤマハがどう動くか? 国内戦線を読み切れなかったホンダ
そして『F1計画』の萌芽

鈴鹿サーキットでの最初のレース、なかでも注目度が高かったと思われる250ccクラスで、ヤマハが快勝、ホンダは後塵を拝すことになる。以下、リキさんから、この開幕戦のさまざまな“事情”をうかがっていく。

――オープニング戦でのホンダのリザルトについて、大久保さんはホンダの「出遅れ」という表現を使われてます。でも、サーキットをつくったのはホンダ自身であり、スケジュールにしても、すべては“ホンダの手のなか”にあったはず?

「そうなのです、そこは、ぼくも同じ考えなのですが(笑)」

――それなのに“遅れた”?

「この1962年という年は、ホンダがマン島TT参戦後3年以内に主要クラスを制覇するという目標の最終年でした。結果として、この年の世界GPでは、125、250、350の3クラスのメーカーチャンピオンを達成するのですが、そういったわけで、この3年間はGPマシン開発に追われていたという現実があったと思うのですね」

――なるほど、日本の地から見ていると、すごいサーキットが鈴鹿にできたぞ!だったけど、当のホンダにとっては、このときの“主たるターゲット”は国内ではなかった?

「そう思います。このときの彼らは、何よりも二輪レースでの世界制覇が最優先だったはず。そして、それだけでなく、もっと大きな夢も抱えていた──」

――それはいずれは四輪も、という動きですか?

「そうです、それも単なる四輪への展開だけではなく、F1計画まで浮上していました。だからホンダの開発陣は超多忙の時期で、《鈴鹿》竣工への進捗状況など、かまっていられなかったのではないかと推測できます」

「また、本田宗一郎、藤沢さんなどホンダの上層部は、《鈴鹿》の完成によって、日本の自動車産業が一気に向上する、《鈴鹿》によって何かが変わる……という遠大な構想のもとに、このサーキット建設というプロジェクトを進めたはず」

――たしかに、そのくらいの雄大なスケールというかグランドデザインがないと、この国のあの時代に、サーキット建設なんかやれなかったかもしれないですね!

「ええ。ですから、そのオープニングのレースで自社マシンを勝たせろ、などというケチな考えはなかったでしょう」

――うーん、このへんは、いつも“おもしろがる”ネタを探している、われわれジャーナリズムの下世話な部分というか(笑)。

「もし、唯一、そういった考えがあったとすれば、会社人間特有の、上に対して目立ちたいとか、本田のおやじさん(宗一郎)を喜ばせたいという意識から、鈴鹿での勝てるマシンの必要性が浮上したと見るべきでしょうね」

――そうですね、現に50ccと125ccでは戦闘力のあるクルマもあったわけで?

「ええ、すでに50ccの『CR110」、125cc『CR93』という市販レーサーは完成し、7月の第5回クラブマンレース(雁ノ巣)で圧勝しています。当然、250ccクラスのマシン開発計画はあったと思います」

「ただ、問題はここなのです。《浅間》時代にヤマハは連戦連勝し、1959年からのクラブマンレースでは、ヤマハのスポーツモデル『YDS』が大人気になりました。このクルマをキットパーツでチューンしたマシンを、個人やサポートクラブへマシン貸与する。ヤマハはこれだけで、メーカーとして積極的なレース活動は控えていました」

――『YDS』は、いかにも軽そうな、それまでにはなかったスポーツバイクの、その極みみたいな格好だったことが鮮烈な記憶としてあります。

「一方、ホンダのクラブマン用マシンは、市販スポーツの『ドリームCB72』をチューンしたもので、結構これで間に合っていたのです。同じ頃、ヨシムラを初めとするチューニングショップも台頭し始めましたし」

――なるほど、『YDS』の対抗ということなら、ホンダにも、それなりのブツはあった?

「……という状況で、ヤマハがふたたび、メーカー自らというスタンスで国内レースに乗り出してくるとは予想していなかった。こういうことも推測されます。ところが、7月の雁ノ巣には、ヤマハが『TD1』の初期型を持ち込みました。そして、250クラスでヤマハが1~3位を独占した」

――『YDS・改』のその次というステップにヤマハは入っていたのに、ホンダはそこが読み切れてなかった?

「『TD1』の速さに、ホンダが慌てたのは当然です。そして急遽開発し、《鈴鹿》オープニング間近の第9回自動車ショーに一般公開したのが『CR72』でした。当時は、このクルマは“ドリーム・レーシング・ジュニア”と呼ばれましたね」

「ホンダからすれば、世界GPマシンのデチューン版でも、CB72の発展型でもつくれたでしょうが、問題は市販しなければならないこと、そしてその場合の価格問題があります」

――ははあ、レギュレーションとして“市販レーサー”では不可で?

「闘おうとしているクラスがノービスですからね。市販車という仕様があって、それのチューンならいいんですが。結果的にホンダからは、『CR72』250ccと、そのエンジンをボアアップして350ccクラス用にした『CR77』305ccが出て来るわけですが、このときのモデルは、GPマシンの亜流なのか、あるいは『ドリームCB72』の発展型なのか。そのへんが誠に曖昧で、その結果が“悲劇のマシン”になってしまったという分析をぼくはしています」

「それと、これはまったくの後日談で、また、真偽のほどは判然としない話なんですけど、雁ノ巣の250ccで惨敗したホンダは、ヤマハ『TD1』の対抗車の開発は、秋の鈴鹿にはもう間に合わないから、世界GPマシンの4気筒を市販型にして車輌認定を取得し、それをノービスクラスに投入する計画があったらしいのです」

「しかし、世界GPでメーカーチャンピオン獲得を目の前にしていた大御所には良識派も多かったようで、そんなみっともないことをしてはならない、以前から計画の『CR72』完成を急ぐべきとの意見に落ち着いた。こういう話もあります。これも、そのときのホンダが、いかに『TD1』の優秀性に驚いて、そして慌てふためいたかを象徴的に表していますね」

(2)天竜川テストコースで、舗装路走行に習熟したヤマハ

ヤマハは、全力を投入して、ホンダを圧倒した。

――ところで、ヤマハ・チームは、《鈴鹿》のコースをロクに走らなかったのに、本番レースでちゃんと速かったのは、なぜでしょう?

「《鈴鹿》のオープニングレースを予想して、隠密裏に、半年以上も前から『TD1』の熟成テストをしていた。そのなかで、《浅間》とは違う舗装路を理論的テクニックで走れるライダーと、そうでない者、このふるい落としを厳密に行なったと思います」

「とくに、前回にインプレッション記事でも紹介した、ヤマハの急ごしらえの天竜川テストコースは、まーず、走るだけで、むずかしい!」

――危なそうですよね、いかにも?(笑)

「ええ、いまなら、ムチャですよ!(笑)そういうレイアウトで、さらに、《鈴鹿》オープニング間近には、直線の両端にヘアピンカーブのような個所もつくってトレーニングしていました。そういう意味でも、ヤマハの連中は舗装には慣れていた」

「それと、ライダーの『質』が高かった。そういうライダーが、マシン──『TD1』との相性を磨いていた。すぐれた操縦性を持つクルマがあって、チームがそのクルマに乗り慣れていた。ホンダはその点、クルマが発展途上で、走るたびにマシンの扱い方が違うとさえいわれていましたから、その意味では、ライダーは気の毒だったですね」

――それと、いま気づいたんですが、ホンダが1959年に「世界」へ出て行ったのを、他メーカーも見ていたわけですよね。ヤマハもスズキも、実はすかさず、この時期に、ホンダと同じように世界をターゲットにしていたのでは?

「ホンダは1954年に『TT宣言』を発表していますから、オートバイ業界なら、ホラかどうかは別として、ホンダの海外進出を知っていて当然です。そして、ホンダのTT参戦が間近に迫っているのを察知したかどうかわかりませんが、ホンダTTの1年前の1958年に、アメリカ・カリフォルニアのカタリナGPにヤマハは出場している。ホンダのブラジル遠征(1955年)もありますが、本格的な海外レースとなれば、ヤマハが最初でしょう。スズキの世界GP参戦は本田宗一郎の薦めがきっかけですが、ヤマハは、実は1961年から、遅れをとってなるものか!と、世界に出て行っていたのです」

第十二回・了 (取材・文:家村浩明)