リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第55回

異端なレースイベントに翻ろうされる

――前回は、鈴鹿サーキットから富士スピードウェイに日本GPが移った経緯を含み、富士で最初に開催された1966年日本GPの話をしていただきました。

そこで、リキさんは、関東圏に誕生した富士スピードウェイでのレースに対して、“でっかいアメ車が豪快に走り回り、スタントカーのような見世物というか興行性の強い特殊なレースをやるんだろう”との印象を最初にお持ちだったとのことでしたが、1967年までの日本GPは、まだ酒井正さんのデイトナ・コブラが出たくらいで、大排気量マシンは目立っていませんね。

「富士SW最初のGP(1966年)は、砂子義一君が優勝、1967年は、日産が吸収したプリンスの旧R380を発展、いや流用かな(笑)させた4台のR380A2を参加させ、連続優勝を狙ったけれど、結果はポルシェ・カレラ6の生沢徹君だった。本来ならテッチャン(生沢)は、プリンスの生え抜きだから、日産になったからといって、レース活動は旧プリンスチーム組織のままだからR380に乗って欲しかったけれど、66年のGP後、欧州へレース修行に出かけていたからシートの空きがなかったのかどうか、あるいは何かの事情があったのか、良く解んないな」

――それで、瀧進太郎さんが買い付けたポルシェになった、とか……。

「いーえ、瀧さんが買ったわけじゃないようですよ。その当時、ポルシェの輸入デーラーは六本木の三和自動車でしたから2台輸入の906の1台は酒井正さんが買って、もう1台はショールームに飾ってあったのをテッチャンが借り受け、あっちこっちのスポンサーをかき集め、三和がチームエントラントになったのが真相でしょう」

――そうゆう事情でしたか。結局はニッサンvsポルシェの2000㏄マシンが中心で。

「エントリーではプライベートエントリーの5500㏄ローラT70が2台、僕は良く知らない7000㏄も入っていましたが、2リッターでも日本のワークスやポルシェの高度なレーシングカーには通用しなかった、ということになるのでしょうが、富士の超高速コースを制するには大排気量が有利だろうの考えが早くも出てきた証しですね」

――仰る通り、1968年と1969年の富士スピードウェイは、ビッグマシンに流れていきました。

「当初は、5リッターや7リッターのでっかいエンジンなんか日本にありませんが、富士の巨大かつ超高速のコースを、そんなモンスターマシンが走ったらスッゲーだろうなー、って思っちゃうでしょうねー(笑)。僕なんかが、レース方向の正当性とか何とか言ったって通用しないですよ(笑)、まあ自然な感情でしょう。まして、それを現実化するイベントが早くも現れるのですから」

――それは、アメリカのインディレースをやろう、という話ですか。

「そうです、それも1966年の富士SW最初のグランプリが終わった5か月後の10月ですよ。さらに、レースにはまったく無縁な人達の企画ですから、とくにレースを統括するJAF初め日本のレース界は降って湧いたような話にてんやわんやだったようです」

――レースに無関係でレースを開催? よくわかりませんが。

「ええ、レースイベントはサーキットやJAF、自動車クラブなど開催資格のあるところが開催規定の下に行なうのですが、日本でインディカーレースをやろう、と言い出したのは神彰(じんあきら)さんという方で、この人は、当時の共産党国家だったソ連のボリショイサーカス団初め、世界的な歌手のイベント開催など、芸能プロモーターというのか興行事業家というか、何かと話題の人でした。その畑違いの神氏と読売新聞・報知新聞の三者がインディを主催するというのです」

――従来のレース主催とは丸っきり違う形で。

「その発端は僕も解らないのです。元々、富士スピードウェイは楕円形コースを大型セダンのアメ車でグルグル走るオーバルコースのレースが目的で始まったものの、これは日本に根付かないと思ったのか、または、米国のレース開催権者との話がもつれたのか、いづれにしろ、この計画は破談になって、コースも改修してその後になったのですが、当初計画のまま実現していれば、インディのようなレースもあったかもしれません。それらはあくまでも僕の推測に過ぎませんが、日本でのインディスタイルのレースの芽は既にあったことも考えられます」

――そうなると、富士スピードウェイは必然的にアメリカンレースのスタイルになる、その火付け役がインディで?

「火付け役かどうか解りませんが、その後の日本のレースに大きな影響を与えたというか、日本のレース発展途上に咲いた徒花だったか(笑)、難しい解釈です。

ただ、神氏が、富士スピードウェイという巨大コースが出来たからインディをやろうと思いついたのか、あるいは、神氏がインディを知っていて、こうゆうのを日本でやってみたい、と考えていた所に富士が出来て、こいつぁーいけるわーってなったのか、僕には解りません。

しかし、このイベント開催について、神氏は実際に米国のインディ500を観戦して“スピードレースの迫力に度肝を抜かれた思い/スリリングなシーンにセックスを感じた”というような表現をしていたのを記憶していますから、「これは日本でいけるっ!」といった興行主の直感もあって、インディに特別な感情をもたれたのは事実でしょう。興行ですから金儲けが一番でしょうが、レースへの関心が人一倍強くなければ、こんな賭けはしないでしょうね」

――私が日本インディ500を初めてTVで観た記憶のあるレースです!

「僕もその当時、本物を見たことはありませんが、今年で数えれば105年前の1911年(明治44年)に始まった世界最速のオーバルコースレースであること、マシンはフォーミュラカーと同じオープンホイールカーで33台の決勝、1909年に建設の楕円形コース2.5マイル(4.02㎞)を200周(500マイル/800㎞)するレースで、正式名称はインディアナポリス500マイルレースということくらいは知っていました」

――モナコGP、ル・マン24時間レース、それにインディが世界の三大レースと言われるその一つが日本に来るとなれば大騒ぎだったでしょうね。

「大騒ぎかどうか知らないけど(笑)、正直言って、何がなんだかって(笑)、ようやく日本GP再開で日本のレース界への新たな動きが出始めた時ですから、インディ開催をどう扱ったら良いのか混乱したのは事実でしょう。結局、新装の富士スピードウェイとすれば、お客さんが来てくれるイベントなら何だって使ってもらいたいだろうし、かといって、やっと芽生えだした日本の自動車レースのイメージダウンになるような開催では困りますしね。また、日本のレース規定や開催公認はJAFスポーツ委員会が全権を握っていますから、日本インディの開催には、横槍というのかアドバイスか(笑)いろんな経緯(いきさつ)があったようですよ。

1966年の日本インディは、超高速のインディ500を日本で!!という呼び込みだったが、左まわりのオーバル用に車体がオフセットされたままのマシンも混じる強引なレースが盛り上がるべくもなかった。

結局は、神氏らの主催者がインディカーの輸送から招待ドライバー、レース開催の全金銭的な負担をして、実際のレース運営は塩澤進午さん率いる日本オートクラブが行なうことで、丸くじゃなくて楕円コースレースのいびつに納まったようで(笑)」

――いびつに(笑)、楕円形に似てても富士は既にバンク付きのロードコースですし、やはりインディとは違和感が。

「それは、どこからも聞こえる疑問でした。トドのつまり、バンクを含む6つのコーナー総距離6㎞のコースの直線1600mを、バンク進入への手前約250mから右に曲がる約40Rくらいのコーナーを即製し、バンクを下った2つ目の130Rコーナーにつなげた4.3㎞のショートコースにしたのです。インディコースは左回りだけですから右側車輪の車軸が左より広く、ぺったんこな車高だから凸凹なバンクなんか走れません。それでも4つのコーナーがありますから、通常の右回りを左回りにして、右コーナーは30Rのヘヤピンと緩い250Rだけ、まさに苦しまぎれというか、何がなんでもインディをやるぞっ!てかまえ(笑)」

――ある面、凄い勢いで(笑)、それでリキさんも観戦に。

「いーえ、行きません(笑)。なぜなら、何としても行ってみたいの気持ちが湧かなくてね。ある面では日本TVが現場放映をすることもあったでしょう、とくにナマ放映は初めてだった記憶があります。それまでも日本グランプリなどのTVはありましたが、レースから半月以上も経ってからの録画ですから、実況放送は興味ありました。

それに、観戦料金(チケット)がえらく高くてね、この席なら充分満足できるS席だと18000円(日本GPは4000円)、A席6000円、自由席2000円(グランプリは1000円)といった具合、特別駐車場付きというロイヤル席は何と36000円!です。この年の国民の平均年収は約50万円、月収にすれば42000円ですよ! いかに高額だったかお解りでしょう」

――へーえ、どうゆうお客さんが行ったのでしょうか

「まあ普通のファンは自由席でしょうが、それでも2千円ですが、神氏がそれまでに成功させてきた興行は、どれもハイクラスなイベントですからレースというよりか特別なアトラクション的要素が強かったのではないでしょうか。

神氏がインディレースのような手間暇かかる大興行を成功させるために政財界・芸能界などの著名人をPR役に登場させ、自らの興行手腕を示すには多くのセレブに受け入れられる社交界的対応も必要だったでしょう。まあ、インディとなれば、自動車王国アメリカのシンボルですから、神氏もそれなりの格式を重んじたのでしょうが、当時の日本は経済力の勢いは強くなったけれど、文化への余裕はまだまだ貧乏ですから、こういった感覚でのレースイベントは異端だったでしょうね。

僕も鳴り物入りのインディ、インディにはある種の嫌悪感がありましたが、スピード馬鹿扱いされる日本のカーレースが多くのセレブに認識されるのは結構なことだと思ったですよ」

――そういったレース環境への影響もあったのですね。そうなると、主催に関してのトラブルはあったものの、日本の自動車メーカーもインディから何か得たものがあった?

「どうでしょうかねー、基本的には唐突な話で、メーカーのみならず日本のレース界は蚊帳の外でしたから、歓迎ムードはなかったように思いますよ。第一にインディは知っていてもメーカーのレース関係者で実際に見た人は殆ど居なかったのではないでしょうか(笑)、当時の日本のレース界ってそんなもんですよ。でも、表面では無関心を装いながら、それとなくインディマシンを熱心に見学? 探索かな(爆笑)していた某メーカーの技術者の姿も見られたようですから、気にはなったでしょうね」

――それで、実際のレース内容はどうだったのですか。

「当初はインディと言ったって、どう走るんだろう? 誰もが訝っていたのを左回りの4.3㎞コースって、今考えてもUSAC(ユーザック=ドライバー&マシンを取りまとめているユナイテッドステイツ・オート・クラブ)が、よく了承したもんだと思いますよ。参加マシン32台の内、出走は22台でマシンのエンジンは大方、フォードV8気筒DOHC4.2リッター、中にはターボチャージャーの2.8リッターDOHCもありますが、ほんの僅かな4速以外、変速ギアは押しなべて2速ですから、まさにどうやって走るんだろう?  ですよ。

日本のレース歴は僅か4年ですが、いかにインディと言えど、そのくらいの知識は育っていますよっ(ムッ!)。だから、芽生えだしたレースファンには受けても、レース関係者なら、どんな内容のレースになるか押して知るべしです。

レースは500マイル(800㎞)ならぬ80周の344㎞で、F1ドライバーのジャッキー・スチュワートが当然のように優勝、彼のマシンは多くのフォードV8でも4速ギヤだから2速ギヤとは雲泥の差。それと、集まった観客9万人と言われる誰もが不満に思ったのは、レースが、度重なるイエローフラッグでペースカー先導のノロノロ走行や、とてもレーシングカーの走りとは思えない超スピードダウンのスロー走行だったようですが、やはりインディカーのデモンストレーションだったのか、唯一、インディレースの一端を感じたのはV8の轟音で突っ走るストレートだけだったようですから、まったくTV観戦でもその通りということですね」

――イエローフラッグの連続では豪快な競り合いも見られない……。

「フォーミュラカーやGTカーに代表される欧州中心に始まったレースと異なるアメリカンレースの特徴でしょうね。とにかく危険な状況に対してはレース周回数や、せっかく盛り上がった最中にも関係なく徹底的な安全回復に時間を費やしますね。

僕も1970年代末にインディ500を観戦した時、レース後半になってイエローフラッグが出てね、それが延々と続くの、結局そのままダラダラ走ってゴール(笑)。よく文句出ないなー、と思っていたらあっちもこっちも“アンビリーバブル!(信じられねーこっのやろう、とでも訳すのか)”のブーイング、安心したねー(爆笑)。

それとね、イエローのスローダウンで、それまでトップでぶっちぎっていたのが0に戻っちゃうケースが沢山あって、再びイコールポジションからのスタートみたいな、何か不公平な感じもするけれど、偶然な出来事での有利は認めない公平主義だろうね。

マシンの製作費や参加費用にも制限があって、F1のような資金力の優位性は排除される規定だから公平公平を目指す研究も伝統の一つのようですよ。安全面の代表では、この時代は普通のガソリンだったと思うけれど、今はマシンがクラッシュしても爆発力の小さいエタノール(アルコール)85%ガソリン15%という特殊な燃料に変わっていますしね」

――そういった特殊なレース形態では、発展途上の日本のレースに参考にならなかったのでしょうか。

「そうとばかりは言い切れません。確かに一大興行という側面があって、僕らには推測できる内容ばかりだったけれど、約半年前の日本GPに押し寄せた10数万人には及ばずとも、名だたるインディへの興味で新たなレースファンも増えたでしょう。若干、期待が大きすぎましたが、その分、日本のレースへの期待が高まったのではないでしょうか。

また、1人のドライバーを走らすメカニック、ヘルパー、マネージャーそれぞれの専門職による科学的なチーム体制やレース運営者の重厚な陣容など、あの時代で55年の歴史を積んだ本場のレース界の一端を示してくれたのは得がたいことでした。

また、ポツリ程度の雨でも絶対にスタートしない、クラッシュなどでコースが汚れたら執拗なまでの清掃が終了するまでは、何周でもイエローフラッグによる徐行が続くアメリカンレースの特殊性から得るものもあったのではないでしょうか」

――結局、この日本インディはこれっきりだったわけで。

「興行としてのレースは一回だけですが、その後、日本も世界の自動車生産国になって、米国への輸出・工場進出など米国市場の重要性が高まり、インディカーのエンジンをホンダやトヨタが供給するようになって、さらに2003年から2011年までツインリンクもてぎでインディ・レースと同様のマシンによるCART(Chanpionship Auto Racing Teams)が開催されましたが、日本に登場したインディへの意識が、その後の流れに無関係だったとは思えません。

多分、このイベントで米国市場及びアメリカンレースへの進出を身近に感じ始めたメーカーもあったのではないでしょうか、その後の富士SWの日本グランプリにも大きな影響を与えたと思いますね」

――タイトルが『風の又三郎』だったのは、そういうことだったのですね!!

「まるでそのまんまでしょ? ワッカルカナー(爆笑)」

――全校生徒が26人だかの田舎の村の小学校に、赤毛で一風変わった転校生がやってきて、みんなを緊張させたというあれですね!

「そうそう。もっとも、宮沢賢治が書いた風の又三郎は、まぁ、英雄だったけれどね」

――そういわれてみると、初めて観たテレビの印象が、まったく残ってないです。

「とはいえ、日本のレースにビッグマシンという風潮を呼び込んだ影響力はあったわけで、僕にとってあのレースは、一体なんだったのか、という複雑な気持ちが今でも残っていますね。あれは、日本のレース界にサーッと吹いた一瞬のつむじ風だったような気がしてならないのです」

1966年10月9日 Indianapolis International Champion Race in Japan
200マイル(80周)

 1. ジャッキー・スチュワート ローラ・フォード
 2. ボビー・アンサー     イーグル・フォード
 3. A.クニッパー      セルシ・フォード



第五十五回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
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