リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第8回
1962年、《鈴鹿》は遠かった!

――前回お伝えした資料の中に、『鈴鹿サーキットの説明』という小冊子あります。これはまず“地理”から始まっています。『鈴鹿』がどこにあるかを知らせる必要があったんでしょうね。そして、サーキットの所在地と、交通の便が記されていますが?

「東海道新幹線の開通は1964年、名古屋~神戸の名神高速道路は1965年、東名高速が1969年ですからね。できた当時の《鈴鹿》は、鉄道なら夜行列車、クルマでは遠かったですねえ。最初は、なんでこんな遠くにつくったんだって……(笑)。まあ、この文句は関東人だけでしょうか」(リキさん)

――この資料によると、「名古屋から、国道1号線で150km、自動車で約3時間、電車で2時間30分」。そして、その名古屋とは「日本で三番目の大都市」であって、東京からは国道1号線で420km、汽車で約4時間、自動車で約8時間」となってます。じゃ、東京からクルマで行くとなれば、《鈴鹿》までは「3+8」で11時間はかかりますね?

「僕の場合、東京から、夜11時の夜行列車で、朝方、四日市に着き、そこからサーキット近くの駅・近鉄鈴鹿線の平田町が通例でした。

四輪レースが始まってからは、クルマで行くのが普通になり、昼間、真面目な運転だと、やはり11時間。だから、交通量の少ない夜中の24時や25時に出て、早朝の6時~7時にサーキットに着いて──」

――あれ、昼間とずいぶん時間が違いますが?(笑)

「うん、まあ、エヘヘ……(笑)。この時代、休日は日曜だけですから、ほとんどのクラブマンは、土曜の仕事を終えて出発。朝方に着いて、車中で仮眠。昼間にコースを走って、夕方にサーキットを出て、夜半に帰宅、翌・月曜日は仕事というパターン」

「夜中の東海道は貨物車が多く、時には数珠つなぎになりました。でも、トラックドライバーの多くは、後ろに乗用車がいるとわかれば、前方を確かめ、追い越しOKならば、窓から手を出して、“いまだ、早く追い越せ!”。危険な場合は“少し待て”の合図など、してくれました。お互い、サンキュウ!の伝達はクラクションでね。そうやって、かなりスムーズに走れたから、時間短縮もできた。いま、そんなコミュニケーション、なくなっちゃったね」(リキさん)

◆ヘルメットも新時代へ

当時の資料には、ヘルメットについての記述や注意書きもある。リキさんに話を聞こう。

「ヘルメットは、それまでのレース経験者なら誰でも常識でしたが、一般のライディングでは、ヘルメット不要の時代でした。ですから、初めてレースを志す人のなかには“要ヘルメット”を知らない者もいるのではないだろうかという老婆心でしょうかね」

1960年代のレーシングヘルメット。アライのR-5モデル(写真提供:株式会社アライヘルメット)

――この資料では、MFJの認定マークがあるヘルメットというのは、三つだけです?

「国産で認定されていたのは、新井廣武商店、現在のアライですね。そして、ショーエイの昭栄加工、あとは東京帽子だったかな? でも、レース経験の長いライダーのほとんどは、イギリスやアメリカのクロムエル、レスレストン、ベルなどをすでに装着していました。僕もそうでしたからね」

――当時の“ヘルメット事情”を語っていただくと?

「もともと、ヘルメットは危険が多い土木や建築工事用の保安帽ですが、すでに公営オートレースや競艇などがありましたから、工事用を強化した競走用というのが出始めていました。とくに1958年の浅間クラブマンレースをきっかけに、駐留米国軍のライダー達が本格的な外国のオートバイ用ヘルを持ち込み、日本でも、いまのアライをはじめとして、進化し始めていました」

――認定のヘルメットを、もし入手できなければサーキットで購入せよということで、価格も載っています。「約6000円程度」とありますが、当時の「6000円」というのは、どんな感じだったんでしょう?

「この時代、法律なんかなくても、自らヘル着用のライダーが増え始め、一般走行用が1600~2500円くらい、耐衝撃性最高を唱った競走用が3300円くらいでした」

「鈴鹿のロードレースとなりますと、もっと強度のあるものが必要と考えた国産品のスペシャルですから、そのくらいの価格になったでしょう」

「でも、外国製のヘルメットですと、50ccバイクが5~6万円のときに、約2万円しましたね!」(リキさん)

第八回・了 (取材・文:家村浩明)