リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第74回
新たな最高峰レースイベントになるか、JAFグランプリ

◆模索するチーム、ドライバー、F1フォーミュラの構想も

――前回(№73)、いよいよ名目も新たなJAFグランプリが始まるお話の中で、“まぼろし的な話題”とのことで終わりましたが、その辺りを、ぜひとも。

「対談始まる早々その話ですか、少しオーバーだったかな、大した内容じゃないのだけど(笑)」

――いやいや、もったいつけないで下さい(笑)。興味津々です。

「このことを話すと結局は僕の失敗談も出てくるのであまり触れたくないんだけど(笑)、まあ、前回の概要は日本国内のフォーミュラカーだけでは台数も少ないし、その半数は1000㏄クラスのエンジンを積んだF3規格ですから、F1とまでは言わないにしても1600ccエンジンのF2でないとGPにふさわしい内容になりません。そこで、まあ助っ人っていうか(笑)、日本に近くてレースオフシーズンのオーストラリア、ニュージランドのチーム&ドライバーを招待することになり、タスマンシリーズと呼ぶレースに使っている2500ccエンジンも参加できるようフォーミュラ・リブレ(F・L)とした3000cc以下のレースにしたのです」

――そうでしたね、そこから1500ccだったF1が1966年から3000ccになったので、それならホンダF1も参加できるって言っちゃいましたが(笑)。

「そうです、間違ってはいませんよ(笑)、でもねー、仮にホンダが新たな3000ccエンジンの、何て言ったかな」

――V12気筒3000ccのRA273Eだったと記憶しています。

「そう、それね。確かに理論的にはJAF-GPに出ようと思えば可能ですよ、でもねー、ホンダがF1を目指すのは、既に成し遂げたオートバイレース世界制覇を四輪レースでも、の大望からですから、細っかいことなんかやっちゃいられない(笑)」

――そうですねぇ、ちょっと残念ですが。でも、仮にデスヨ、ホンダも出る!!ってなったら日本のレース界も変ったのではないかと思いますが、リキさんのお考えは?

「ふーん(沈黙)、まっ、富士スピードウェイのグループと鈴鹿サーキットのグループのような勢力が既に固まりつつあったからねー、どんなふうになったかなー。その突拍子もない話が現実になったらレース内容は面白いけれど、日本のレース界えらく混乱しただろうねー。おっ、これ小説の題材になるねー(笑)」

――そうです、なりますなりますよ、リキさん、次の著作にしましょう!

「そう持ち上げないのっ!(爆笑)、要するに日本のレース界の政治課題、まあ勢力の問題でね」

――やはり勢力ですかぁ。

「まっいいからいいから、今、話しているのはマボロシ的話しのことでしょう(笑)、要するに3000ccまでOKなら、タスマンの2500ccより速いマシンを造っちゃおう、と考える人、絶対出てきますよ。現に参加申込段階では次に示す4台の3000ccクラスがあったのです。

まずは、チーム・クロサワのデルシャーシーにトヨタの最高級乗用車・トヨタ・センチュリー(1967年発売)のV8/2981ccエンジンを搭載した2台。それにタキ・レーシングが本格的F2シャーシーのブラバムBT23Cを2台輸入して、それに前年(1968年)にデビューしたグループ7レーシングカーのトヨタ7のV8/2986ccエンジンを搭載した2台を参加させる発表をしたのです」

――えっ、トヨタ7のフォーミュラカーですか! と、いうことはトヨタもフォーミュラカーに進出?

「どーも編集長は早とちりが多いねー(爆笑)。でも、そう勘ぐった人もいたでしょうね。これはね、タキ・レーシング内でもフォーミュラカーレース参加の話が出たんだって。それで、瀧進太郎オーナーがF1で活躍中のフランク・ウイリアムズのチームにあったF2シャーシーを2台購入することになって、トヨタ7のエンジン提供話が進んだようです」

――おーっ、そのドライバーは?

「田中健二郎(故)と長谷見昌弘を起用するということでした」

――でした、ということは、急きょ他のドライバーに?

「いえね、この計画は実らなかった、ということデスヨ。どうしてって? その大きな原因は、購入するF2シャーシーがいつまで経っても送ってこない、ヤイノヤイノ急かして、やっと一台が輸入できたのは4月中旬だったとのことです、GPは5月2日と3日ですからね。それでも、やっと手元に届いた中古ならぬ新古のブラバムBT23Cシャーシーを整備し、トヨタ7のエンジンを搭載することになったのだけれど、2リッター以下エンジン対象のF2車体に3000ccV8のバカでかいエンジンが積めるわけがない。何もかも後手後手で、幻のトヨタF1てん末一巻の終り、とあいなったわけですな(爆笑)」

――残念というより、ばかばかしくて何か寂しい話ですね。2台購入のもう一台は?

「それはね、とうとう送って来なかったって話、これも笑っちゃうけど(笑)。でもね、本格的フォーミュラカーレース到来の時代にあって、3000ccまで参加できるならセンチュリーのエンジンならどーだ/おっトヨタ7も使えるのでは? などなど色々模索し実現させようと試みる者たちの情熱って凄いと思わない? とにかくサンプルになるものもない、総て手探りの時代なんだから」

――確かに仰る通りです、フォーミュラにしろ二座席のグループ7カーも、同じ情熱から進歩していったのですね。それで色々なマシンの参加が見込まれてJAF GPという新たなフォーミュラカーレースの幕開けに正式参加できたマシンやドライバーはどうなったのでしょうか?

「僕もこのGPに出ていましたから、古びた書類を基に予選リストを紹介しましょう」

――ちょっと待って下さい、リキさんの参加した内容の話も。

「と、言われてもね、結果や内容を話すのもイヤなほど惨めな思いもしたし、タキ・レーシングの企画倒れしたブラバムのシャーシーも、その後、僕の所に回ってくるのだけど、とにかくそれは置いといて、まず、予選内容から見ていきましょう、その方が無難なので(笑)。

下記が1969年5月2日と3日の『第一回JAFグランプリレース』の予選出走が決まったリストですが、参加申込28台中予選走行参加は18台でした」

1969年JAF GPは、生沢徹(左下)などの三菱ワークス勢にオーストラリアとニュージーランドを舞台に展開していた『タスマン・シリーズ』勢が加わり、バンクを使った本格的なフォーミュラレースの様相を呈した。

――参加しようと意気込んだものの、結局、最終的な参加は少なくなってしまったようですが。初めてマシンのレベルが揃っているような内容ですし、本格的な外国からの参加や日本のフォーミュラカーレースの先行きにかかわるビッグイベントですから予選状況も含めて説明して下さい。

「そうですね、次回から国際レースレベルのタスマン勢は初めての富士にどう挑んだのか当時を振り返って見ましょう」



第七十四回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com


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